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水野忠友
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1731年
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大身旗本水野忠穀の長男として生まれる |
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1765年
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加増を受け都合1万3000石になり、三河大浜に城地を与え... |
水野 忠友(みずの ただとも)は、江戸時代中期の旗本、大名、老中。
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享保16年(1731年)2月3日、大身旗本 水野忠穀の長男として生まれる。
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水野家は元々信濃松本で7万石を食んでいたが 水野忠恒(忠友の従兄にあたる)が刃傷事件を起こして改易され、家督は忠恒の叔父・忠穀に相続は許されたものの、大名の身分を剥奪され、信濃佐久郡7000石の旗本として辛うじて名跡を保っていた。
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忠友は父死去に伴い12歳で家督を相続し、家治小姓(元文4年(1739年))、小姓組番頭格(宝暦8年(1758年))、御側衆(宝暦10年(1760年))を経て、若年寄となり、明和2年(1765年)に加増を受け都合1万3000石になり、三河大浜に城地を与えられ、再び大名に復活する。
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更に駿河沼津に移り最終的に3万石となる。
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幕府では一貫して 田沼意次の重商主義政策を支え、若年寄、側用人、勝手掛老中格をへて、正式な老中になる。
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天明6年(1786年)、意次失脚と同時に、忠徳と名乗らせ養嗣子としていた意次の子息を廃嫡とし、かわりに分家旗本の 水野忠成(大和守)を養嗣子としたが、遅きに失した感は否めず、 松平定信の指令で免職の憂き目にあう。
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10年後の寛政9年(1797年)に再び老中(西丸付)に返り咲き、在職中の享和2年(1802年)9月19日に死去した。
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1731年(享保16年)2月3日、誕生。
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1742年(寛保2年)11月、家督相続。
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1758年(宝暦8年)10月15日、小姓組番頭格奥勤兼御側御用取次見習に異動。
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それまでは、西丸小姓頭取。
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1760年(宝暦10年)4月1日、御側御用取次側衆に異動。
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1765年(明和2年)1月28日、1万3000石の三河国大浜藩主となる。
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1768年(明和5年)11月15日、若年寄に異動し、勝手掛となる。
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1777年(安永6年)4月21日、側用人、に異動。
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加増(7000石)、駿河国沼津に国替(2万石)。
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1780年(安永9年)、沼津城築城。
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1781年(天明元年)9月18日、老中格に異動。
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加増(5000石)、10月1日、勝手掛となる。
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1785年(天明5年)1月29日、老中に異動。
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加増(5000石)。
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1788年(天明8年)3月28日、老中免職となり、雁間詰となる。
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1797年(寛政9年)11月29日、西丸( 徳川家慶付き)老中に就く。
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1802年(享和2年)9月19日に死去、享年72。
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法名:脩徳院譲譽興仁懿翁大居士。
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墓所:静岡県沼津市出口町の千本山乘運寺と東京都文京区小石川の無量山傳通院壽經寺。
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1747年(延享4年)12月19日、従五位下豊後守に叙任。
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1768年(明和5年)8月16日、出羽守に遷任。
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1777年(安永6年)4月21日、従四位下に昇叙。
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1781年(天明元年)11月15日、侍従兼任。
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