| イングランドの東海岸に位置するリンカーンシャー州の小都市グランサムから南方に10kmほど離れた一寒村ウールスソープ-カールスターワース(Woolsthorpe-by-Colsterworth)において、同名のアイザック・ニュートンを父として、ハナ・アスキューを母として生まれたが、生まれた時父親はすでに他界していた。 |
| 未熟児として生まれたといい産婆はこの子は長生きすまい、と言ったという。 |
| 父親は、身分としてはヨーマン(独立自由農民)と貴族との中間的な位置づけの身分(村の郷士のようなもの)で農園を営み、37歳の時に近郊の農家の娘(=アイザックの母ハナ・アスキュー)と結婚したが、アイザックが生まれる3ヶ月前に死去したのであった(後にニュートンの義父となる人物は、この父が粗野な変人であった、と述べたという。 |
| 父方の一家は当時のイングランドで勃興しつつあった知識階級に属する者が多く、薬剤師、医師、牧師などを輩出している。 |
| ニュートンは生まれながらにして父無し子であったわけだが、さらに追い打ちをかけるように、実母はアイザックが3歳の時に近隣の牧師のバーナバス・スミスと再婚してアイザックの元を離れ、アイザックは祖母に養育される事になった。 |
| アイザックは物ごころのつかない年齢で両親の愛を知らない子となった。 |
| 母親が再婚した理由のひとつは息子の養育費を得ることもあったという。 |
| 母親はスミスとの間に3人の子を産むことになる。 |
| 息子アイザックは母のこの選択に反発「放火して家ごと焼き殺す」などと殺害する旨を明かして恫喝。 |
| この一時の激情に駆られた発言を悔いて、後年は実母と付かず離れずの関係を保ち面倒を見た。 |
| 母親はニュートンの才能に気付いていなかったが、親類がそれに気がついてくれたこともあり、1655年に彼はグランサムのグラマースクールに入学することになった。 |
| 学校は自宅から7マイルも離れていたので、母の知り会いの薬剤師のクラーク家に下宿した。 |
| ニュートンはこの家庭で、薬学関係の蔵書に出会い、それに興味を持つようになった。 |
| また、クラーク家の養女のストーリーとは親友となった。 |
| ニュートンはこのストーリーと18歳で婚約することになり、後に至るまで親密な交際と金銭的な援助を続けることになる。 |
| だが、ニュートンは法的には結婚はせず、終生独身のままであったグラマースクール時代も、ニュートンは自省的な生活を送り、薬草の収集、水車、日時計、水時計の製作などを行っていた。 |
| また、体が小さく内向的で目立たぬ子だったため、友人たちのからかいの的であったが、あるとき自分をいじめた少年と喧嘩をして勝ったことをきっかけに、自分に対する自信をもつようになったとされる。 |
| その出来ごとをきっかけに学年で首席の成績をとるようになったともされる。 |
| 学校に通うようになって2年がたち14歳になった時に、母の再婚相手が死去し、母は再婚相手との間にできた3人の子供とともにウールスソープの家へと戻ってきた。 |
| 母は、(亡くなった元の夫が遺した)農園を営むことを考え、父親のようにニュートンが農業(百姓)を行うことを期待し、その仕事を手伝ってもらおうとグランサム・スクールを退学させた。 |
| 母親は勉学よりは農業のほうが大切と考えていたらしい、という。 |
| ところがニュートンは農作業をほったらかしたまま、(前の下宿先の)クラーク家に行っては化学書を読んだり水車づくりに熱中した。 |
| そのため、母は彼が百姓向きではないと思い、将来のことを親類や友人等に相談し、ケンブリッジのトリニティカレッジで学ばせるほうがよい、という助言を聞き入れた。 |
| そして、ニュートンは2年後には学校へと復学することになり、そこでトリニティカレッジの受験の準備をすることになった。 |
| 授業で教わった内容は、聖書、算術、ラテン語、古代史、初等幾何であった。 |
| 1661年に叔父であるウィリアム・アスキューが学んでいたケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに入学した。 |
| 入学当初は「サブサイザー」として仮に、1ヶ月後に「サイザーsizar」として正式に受け入れられた。 |
| これは講師の小間使いとして食事を運んだり使い走りをするかわりに授業料や食費を免除される、というものであった。 |
| 大多数の学生は「コモナー」という自費で学費を払う者たちだったので、アイザックは肩身が狭い思いをしたと推察され、こうした身分であったことや、自分の家柄のこともあり、同級生と打ち解けなかったという。 |
| 当時、大学での講義のカリキュラム編成は、スコラ哲学に基づいて行われており、つまり主としてアリストテレスの学説に基づいていたが、ニュートンは当時としては比較的新しい数学書・自然哲学書のほうを好み、デカルトやガリレオ、コペルニクス、ケプラーといった自然哲学者の著書を好んで学んだ。 |
| 例えば、数学分野では、エウクレイデスの『原論』、デカルトの『幾何学』ラテン語版第二版、ウィリアム・オートレッドのClavisMathematicae(『数学の鍵』)、ジョン・ウォリスの『無限算術』などであり、自然哲学分野ではケプラーの『屈折光学』、チャールトンの原子論哲学の入門書などを読んだのである。 |
| ここでニュートンは良き師に巡り会うことになった。 |
| アイザック・バローである。 |
| ケンブリッジにおいて1663年に開設されたルーカス数学講座の初代教授に就任したアイザック・バローはニュートンの才能を高く評価し、多大な庇護を与えた。 |
| バローは時間、空間の絶対性を重要視するプラトン主義を奉じた数学者であり、ニュートンの思想にも大きな影響を与えた。 |
| バローのおかげもあり1664年にニュートンは「スカラー」(=奨学金が支給される学生)にしてもらうことができ、さらに翌年には学位を授与されることになる。 |
| 彼との出会いによってニュートンの才能は開花し、1665年に万有引力、二項定理を発見、さらに微分および微分積分学へと発展することになった。 |
| ニュートンの三大業績は全て25歳ころまでになされたものである。 |
| また、ニュートンがこうした成果を得るのに有利に働くことになる、もうひとつの出来事があった。 |
| 一人でじっくりと思索をめぐらす時間を得たのである。 |
| 学位を取得した頃、ロンドンではペストが大流行しており(ペストは以前14世紀にヨーロッパの人口の1/3(以上)を死亡させたほどの恐ろしい病気だった。 |
| ニュートンが学生の時のそれは数度目の襲来であった、この影響でケンブリッジ大学も閉鎖されることになり、1665年から1666年にかけて2度、ニュートンはカレッジで彼がしなければならなかった雑事から解放され、故郷のウールスソープへと戻り、カレッジですでに得ていた着想について自由に思考する時間を得た。 |
| また1664年、つまりペストで疎開する前に奨学生の試験に合格して奨学金を得ていたことも、故郷で落ち着いてじっくりと思索するのに役立った。 |
| こうしてニュートンは「流率法」と彼が呼ぶもの(=将来「微分積分学」と呼ばれることになる分野)や、プリズムでの分光の実験(光学)、万有引力の着想などに没頭することができたのである。 |
| 結局、このわずか1年半ほどの期間にニュートンの主要な業績を発見および証明がなされているので、この期間のことは「驚異の諸年」とも、「創造的休暇」とも呼ばれている。 |
| ちなみに万有引力の法則に関して言えば、古い伝記などでは「リンゴの木からリンゴが落ちるのを見て万有引力を思いついた」とするものが多かったが、今では真偽のほどは確かではない、とされるようになっている。 |
| あくまで、ニュートンの家の窓からリンゴの木が見えることから作られた話にすぎない、ともされる。 |
| 基本的にウールスソープ滞在当時の文書記録や物証があるわけではなく、はるか後に(ロバート・フックと、万有引力に関して先取権争いのいざこざも生じた後に)そうだった、とニュートンが知人や親類などに語った話などがもとになって流布した話にすぎず、つまり利害関係者当人が語る話や、その伝聞の類にすぎないので、内容に関しては真偽が不明なのである。 |
| 伝記作家が援用する資料として、同時代の作家ウィリアム・ストゥークリの書いた''MemoirsofSirIsaacNewton'sLife''に1726年4月15日にニュートンと会話した、とする以下のようなくだりがある。 |
| 実際の所「リンゴが木から落ちるのを見て万有引力を思いついた」というエピソードは、ある意味誤解を招きかねない逸話である。 |
| ニュートンが万有引力の法則を思いついたそもそもの動機は、ケプラーの法則である。 |
| つまり「物が落ちる」という現象と、太陽系の惑星の運行が、同じ力に由来する事を発見し、その力を「万有引力」と名付けたのが重要なのである。 |
| 単なる物が落ちる現象、地球上にある物体を地球が引っ張る力としての「重力」であれば、ニュートン以前から既に知られており、「太陽が地球になんらかの『駆動する力』を及ぼしている」とイメージしたのはケプラーであり、その両者を結びつけたのがニュートンの発見であった。 |
| 1665年にカレッジを卒業し、バチュラーの学位を得た。 |
| 1667年にペストがおさまると、ケンブリッジ大学に戻り、その年の10月、同大学でフェロー職を務めていた2名が階段から落ちたうえに他の1名が発狂し、欠員が計3つ生じたため、ニュートンはフェローになることができ、研究費を支給されるようになった。 |
| 大科学者では、このように順風満帆で、運に恵まれた人は稀だ、と佐藤満彦は指摘している。 |
| 一般的には、大科学者はもっと悲惨な人生のほうが多いのである)その年に『無限級数の解析''(DeAnalysiperAequationesNumeriTerminorumInfinitas)''』を書いた(刊行1671年)。 |
| この数学的研究について解説すると、ニュートンとライプニッツはそれぞれ独立に、異なった視点から微分積分法を発見した。 |
| ニュートンは病的に猜疑心が強い性格で、ライプニッツが盗んだとの主張を続けて、結局25年の長きにわたり法廷闘争を行うことになる。 |
| 1669年にケンブリッジ大学のルーカス教授職に就いた。 |
| ルーカス教授としての義務は、幾何学、算術、天文学、光学、地理学のいずれかの講義を毎学期わずか10回ほど持つことと、週に2回学生との会合に出るだけでよい、というものであった。 |
| ニュートンは自分が開拓した光学について講義したが、内容が斬新すぎ理解しがたかったらしく、学生がひとりも講義に現れず出席者が無いということもしばしばだった。 |
| ルーカス教授時代に、彼の二大著書となる『光学(Opticks)』の執筆(刊行は1704年)および『自然哲学の数学的諸原理』の執筆・刊行(1687年刊)、および聖書研究や錬金術の実験などに没頭した。 |
| ニュートンは哲学者であったので、自然学に対する情熱と同じくらいの情熱、あるいはそれ以上の情熱を神学に注いだ。 |
| ニュートンの死後残された蔵書1624冊のうち、数学・自然学・天文学関連の本は259冊で16%であるのに対して、神学・哲学関連は518冊で32%である。 |
| ニュートンが哲学者として、聖書研究や錬金術研究も重視し、熱心に研究を行い努力していたという事実については、後の時代に登場することになる科学者たちが、自分たちの気に入る英雄像を作るために、事実をゆがめて書いたり、自分たちに都合の悪い事実を無視するかたちで科学史を書くということが繰り返されたので、やがて忘れられてしまうことになった。 |
| 20世紀になり、ケインズなどが歴史的資料の収集・再検証が行い、ようやくそうした科学史の嘘、科学者らによる嘘が明らかになったものである。 |
| 『自然哲学の数学的諸原理』を刊行(1687年)してまもなくのこと、王位に就いたジェームズ2世がケンブリッジ大学に対して干渉してくるという出来事があったが、その際行われた1686年の法廷審理に大学側の全権代表グループの一員として参加し、毅然と干渉をはねのける発言をした。 |
| ニュートンは大著の執筆の後で疲れており(『自然哲学の数学的諸原理』の執筆から刊行にいたるまでに、ロバート・フックと先取権をめぐり確執も生じ、初代グリニジ天文台長のジョン・フラムスティードとも感情的ないざこざがあった)、大学での学究的生活にうんざりしていたとされ、上記のような政治的なことへの関わりが、大学から離れた実務的な世界で地位を得たいという欲望に火をつけた。 |
| そんな苦しい時代ではあったが、やがて教え子モンタギューは世渡りのうまさを発揮し大蔵大臣になり、1696年4月にはニュートンに造幣局監事のポストを紹介してくれ、1699年には造幣局長官に昇格することになった。 |
| つまりイギリス史上もっとも悪名高い投機ブーム(SouthSeaBubble南海泡沫事件)にニュートンも乗ろうとし、ブームの期間中株を持ち続けた末に結局ニュートンは大損をしたとされる(南海会社というのはイギリスの会社で、スペイン領中南米との貿易で独占権を得て、奴隷貿易で暴利をむさぼっていた会社であり、南海泡沫事件とは同社が大宣伝をして株が暴騰したが、事業の不振が明るみに出ると株は暴落して1720年に倒産し、多数の投資家が破産するに至った事件である)。 |