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プロフィール
- アドルフ・アイヒマンとは
- 生い立ち
- ナチス親衛隊
- SD勤務時代
- ウィーン勤務時代
- プラハ勤務時代
- ゲシュタポ・ユダヤ人課課長
- 「ユダヤ人問題の最終解決」
- 逃亡
- 逮捕
- アイヒマン裁判
- 処刑
- 参考文献
- 関連サイト
アドルフ・オットー・アイヒマン(AdolfOttoEichmann、1906年3月19日-1962年6月1日)は、ドイツの警察官僚。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐(SS-Obersturmbannführer)。ナチ政権によるユダヤ人の組織的虐殺の 歯車として働き、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたり指揮的役割を執った。自らの職務に対する生真面目さの一方、無責任な服従の心理を持つ人格の典型として有名。
生い立ち
| アドルフ・アイヒマンは1906年3月19日にドイツ帝国西部ラインラントの都市ゾーリンゲンに生まれた。 |
| 父はアドルフ・カール・アイヒマン(AdolfKarlEichmann)。 |
| 母はマリア・アイヒマン(MariaEichmann)『BecomingEichmann』19ページ。 |
| アドルフは5人兄弟の長男だった『ナチス親衛隊』242ページ『ヒトラーの共犯者下』34ページ。 |
| 兄弟は長男アドルフから順に次男エミール(Emil)、三男ヘルムート(Helmuth)、長女イルムガルト(Irmgard)、四男オットー(Otto)であった『アイヒマン調書』3ページ『BecomingEichmann』19ページ。 |
| このうち三男ヘルムートは後にスターリングラードの戦いで戦死した『アイヒマン調書』3ページ。 |
| 父アドルフ・カールはアドルフが生まれた当時、電機会社に簿記係として勤務していた。 |
| 上昇志向のある専門職中産階級者の典型であった。 |
| 信仰はプロテスタントだった。 |
| アドルフは自身の回顧録に父について「私にとって父は絶対的な権威だった」と書いている『BecomingEichmann』19ページ。 |
| 1913年にアドルフ・カールはオーストリア=ハンガリー帝国のリンツにあった同じ電機会社の役員に任じられ、アイヒマン一家はリンツへ移住している『イェルサレムのアイヒマン』22ページ『BecomingEichmann』20ページ。 |
| 母マリアは旧姓をシェファリング(Schefferling)といい、専業主婦としてアイヒマン家を守っていた人物だった。 |
| アドルフを含む5人の子供を産んだ後、彼女は1916年に32歳の若さで死去した。 |
| アドルフは立て続けに子供を産んだことが母の早い死の原因ではなかったかと後に語っている。 |
| 母マリアの死後、父アドルフ・カールはすぐにマリア・ツァヴァルツェル(MariaZawrzel)という人物と再婚している。 |
| 彼女はウィーンの資産家の娘で熱心なプロテスタントだった。 |
| 父アドルフ・カールとは教会で知り合った。 |
| アドルフはこの継母について「熱心で非常に良心的だった」と語っている『BecomingEichmann』20ページ『アイヒマン調書』3ページ。 |
| オーストリアにおける子供時代、アドルフはやや暗い顔色をしていたため、他の子供は「ユダヤ人」のように見えると彼をあざ笑った『ナチ強制収容所その誕生から解放まで』186ページ。 |
| (当時のオーストリアは、ユダヤ人が居住するウィーンを中心に反ユダヤ主義が日常的に蔓延していた)。 |
| アドルフは学校の成績が悪く、リンツのカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校を卒業することができなかった。 |
| なお全くの偶然であるが、アドルフ・ヒトラーもこのカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校に通っていたことがあり、同じく卒業できずに退学している。 |
| 父アドルフ・カールはこの頃には会社を退職し、ザルツブルクに鉱山工場を起こしてその株式を51%持ち、自らの事業を始めていた。 |
| しかしこの会社はすぐに行き詰まり、その後、小麦会社や機関車製造会社に投資したが、これも財産を失うだけに終わった『アイヒマン調書』5ページ。 |
| アドルフは1921年にカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校を退学した後、機械工学を学ぶため工業専門学校に通っていたが、ここも卒業することなく中退している。 |
| この後、アドルフは父のザルツブルクの鉱山工場で働いたが、すぐに辞めて、1925年から1927年にかけて電気製品販売業者で働いた。 |
| さらに1928年からはスタンダード石油のウィーンに於ける現地子会社であるヴァキューム・オイル・カンパニーという株式会社(AG)で販売員として働いている『アイヒマン調書』5ページ『ナチス親衛隊』242ページ。 |
| この会社に5年半ほど務めたが、1933年には人員削減の対象として解雇されている。 |
| アドルフは後にこの解雇について「自分は独身の社員だったため、それが災いして人員整理された」と語っている『アイヒマン調書』7ページ『ナチス親衛隊』242ページ。 |
ナチス親衛隊
| アドルフは石油会社に勤めていた頃の1932年4月1日にオーストリア・ナチ党に入党のうえ、親衛隊に入隊している(オーストリアナチ党員番号889,895、オーストリアSS隊員番号45,326)『アイヒマン調書』10ページ。 |
| アドルフの父アドルフ・カールの事業仲間である弁護士ヒューゴ・カルテンブルンナーの息子で同じく弁護士のエルンスト・カルテンブルンナー博士の薦めであったという『BecomingEichmann』26ページ『アイヒマン調書』10ページ。 |
| アドルフ自身はイデオロギーにはさほど興味はなかったようだ『ヒトラーの共犯者下』34ページ。 |
| 1933年夏、アドルフがベロニカ・リーベル(VeronicaLiebl、愛称ベラ)と結婚の準備を進めていた頃、オーストリア・ナチ党がオーストリア政府から禁止されたため、1933年8月1日に大管区本部の命令でアドルフはドイツへ派遣されることとなった。 |
| アイヒマン一家はドイツ市民権を放棄していなかったし、アドルフは失業中だったので再度ドイツへ移住することになんら問題はなかった。 |
| 婚約者ベラとともにドイツのパッサウへ移住。 |
| ベラとは1935年にパッサウで結婚している『BecomingEichmann』44ページ。 |
| 1933年8月から1934年9月までレヒフェルト(Lechfeld)とダッハウでバイエルン州地方警察から「オーストリア人部隊」として訓練を受けていた。 |
| なお、アドルフはダッハウの親衛隊の訓練場にはいたが、同じ場所にあったダッハウ強制収容所の運営とは何も関係していない『イェルサレムのアイヒマン』27ページ『ヒトラーの共犯者下』34ページ『アイヒマン調書』14ページ。 |
| アドルフはこの時の訓練時代を「軍務の単調さが耐えられなかった。 |
| 毎日毎日が全く同じで、くりかえしくりかえし同じことをさせられる」『イェルサレムのアイヒマン』27ページ、「訓練は国防軍の兵士と全く変わらないものでした。 |
| (中略)徹底的な匍匐前進でした。 |
| 肘に貼った絆創膏なんかすぐにはがれてしまって。 |
| (中略)私はどうやってここから抜け出すか、そればかり考えていました。 |
| そんなときにSDの人員募集の噂を聞きつけたんです。 |
| 私は、これだ、と思いました。 |
| 」と回顧している『アイヒマン調書』14ページ。 |
SD勤務時代
| 1934年9月、当時親衛隊伍長(SS-Scharführer)であったアイヒマンは、SDに応募し、SD長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将により採用される。 |
| SDII/111課(フリーメーソン担当課)の補助員となった。 |
| 同僚のディーター・ヴィスリツェニーによるとこの頃からアイヒマンは記録や組織的な整理といった体系的な作業を好んだという『ヒトラーの共犯者下』35ページ。 |
| しかし数か月で人事異動となり、レオポルト・フォン・ミルデンシュタイン親衛隊少尉(:de:LeopoldvonMildenstein)が課長をしていたII/112課(ユダヤ人担当課)へ異動した『アイヒマン調書』18ページ『ヒトラーの共犯者下』36ページ。 |
| 以降一貫してアイヒマンはユダヤ人問題に携わることとなる。 |
| ユダヤ人課の上官フォン・ミルデンシュタインから読むよう命じられたテオドール・ヘルツルの著作『ユダヤ人と国家』にアイヒマンは強い影響を受けたという『アイヒマン調書』18ページ。 |
| アイヒマンはドイツ在住のユダヤ人をパレスチナへ移住させる計画に関心を示すようになった。 |
| 1933年から1937年にかけて2万4000人の在独ユダヤ人がパレスチナへ移住していた『SSの歴史髑髏の結社』327ページ。 |
| アイヒマンは、これをさらに拡大できないかと考え、1937年夏に長官ハイドリヒの許可を得てパレスチナ移住計画の可能性を評価するため、上官のヘルベルト・ハーゲン(フォン・ミルデンシュタインの後任のII/112課課長)とともに英国委任統治領パレスチナに赴いた『ヒトラーの共犯者下』36ページ。 |
| 彼らはハイファに到着したが通過ビザしか得られず、カイロへ進んだ。 |
| カイロではハガナーのメンバーに会った。 |
| さらにパレスチナでアラビア人のリーダーに会うことを計画したが、パレスチナへの入国はイギリス当局によって拒絶された。 |
ウィーン勤務時代
| オーストリア併合後の1938年3月、当時親衛隊少尉(SS-Untersturmführer)だったアイヒマンは「ユダヤ人問題の専門家」としてオーストリアのウィーンへ派遣された。 |
| ロスチャイルド家の財閥ユダヤ人ルイ・ナタニエル・フォン・ロートシルト(de)男爵からナチスが没収した邸宅は親衛隊の建物となり、アイヒマンはここの一室をあてがわれて「ユダヤ人移民局」を起こし、オーストリアのユダヤ人の移住に取り組んだ。 |
| アイヒマンは移住政策を巨額のビジネスに仕立て上げたのだった『ヒトラーの共犯者下』39ページ。 |
| アイヒマンは1938年10月21日の報告書で着任の日から9月末までに5万人のユダヤ人をオーストリアから追放した、と報告している。 |
| 同時期のドイツでは1万9000人であったからアイヒマンの成果は歴然であった『ヒトラーの共犯者下』40ページ。 |
| 1938年6月の親衛隊内部の勤務評定はアイヒマンに「秀」の成績をつけており、「彼の格別な能力は交渉、話術、組織編成」「精力的かつ機敏な人物であり、専門分野の自己管理に優れた能力を備えている」と記している『ヒトラーの共犯者下』42ページ。 |
| 1939年1月24日には名目上のユダヤ人問題責任者であるヘルマン・ゲーリングの命令でベルリン内務省内に「ユダヤ人移住中央本部」が開設されることとなったが、これはハイドリヒがアイヒマンのウィーンでの働きを高く評価し、アイヒマンの方式を全国に拡大しようと設置したものであった。 |
| アイヒマンは親衛隊内でユダヤ人移住の権威として知られるようになり、ユダヤ人移住の「マイスター」などと呼ばれるようになった『ヒトラーの共犯者下』43ページ。 |
| アイヒマンは、ロスチャイルドから没収した高級リムジンを公用車にして乗り回し、旧ロスチャイルド邸のワイン蔵からワインを持ち出して同志たちと飲みかわして楽しんだ『ヒトラーの共犯者下』42ページ。 |
プラハ勤務時代
| 1939年3月、チェコスロバキア併合によりベーメン・メーレン保護領が誕生し、4月に旧チェコスロバキア首都プラハへ派遣されることが決まった。 |
| 当時親衛隊大尉だったアイヒマンは、ウィーンの移民局の仕事を部下のロルフ・ギュンター(RolfGünther)やアロイス・ブルンナーに任せて次なる任地プラハへ移動した『アイヒマン調書』48ページ『ヒトラーの共犯者下』43ページ。 |
| すでにほとんどの国でユダヤ人の受け入れを拒否するようになっていた上、ベルリンも保護領のユダヤ人追放よりライヒ(ドイツとオーストリア)内のユダヤ人追放を優先したがっていた『ヒトラーの共犯者下』43ページ。 |
ゲシュタポ・ユダヤ人課課長
| ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が開戦した後の1939年9月27日に保安警察(ゲシュタポ)とSDが統合されて国家保安本部が新設された。 |
| アイヒマンによるとこのフランスへの移送は親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの咄嗟の思いつきであったという『アイヒマン調書』60ページ。 |
| 独ソ戦の準備が始まる中、アインザッツグルッペンが組織されるなどユダヤ人は「最終解決」される方向で首脳部の意図が定まっていき、マダガスカル島移住計画は消えていった『ヒトラーの共犯者下』45ページ。 |
「ユダヤ人問題の最終解決」
| 本人の証言によるとアイヒマンは、1941年8月から9月頃にラインハルト・ハイドリヒの口から総統アドルフ・ヒトラーの命令によりヨーロッパのユダヤ人がすべて絶滅させられることになったのを知らされたという『アイヒマン調書』63ページ。 |
| さらにこの時、ハイドリヒからポーランド総督府領ルブリンの親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニクの指揮下で行われているユダヤ人虐殺活動を視察することを命じられ、ルブリンへ赴き、トレブリンカ(後にここにトレブリンカ強制収容所が置かれる)でガス殺を行う建物を視察した。 |
| ここにはヘウムノ強制収容所がつくられたで行われていたガストラックによるガス殺を視察し、またその後にはミンスクでのアインザッツグルッペンのユダヤ人銃殺活動の視察、さらに再度ルブリンのトレブリンカへ派遣されてガス殺を視察することとなった。 |
| アドルフ本人の証言によるとレンベルクの親衛隊司令官や直属の上官ハインリヒ・ミュラーに「あれでは若い兵士たちをサディストにするだけだ」と抗議を行ったという『アイヒマン調書』67ページ。 |
| 1942年1月20日にハイドリヒの命令で関係各省庁の次官級担当者がベルリン高級住宅地ヴァンゼーに集まった所謂ヴァンゼー会議に議事録作成担当として出席し、ユダヤ人を絶滅収容所へ移送して絶滅させる「ユダヤ人問題の最終解決」(=虐殺)政策の決定に関与した『ヒトラーの共犯者下』54ページ『イェルサレムのアイヒマン』90ページ。 |
| 1945年にドイツの敗色が濃くなると、親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーはユダヤ人虐殺の停止を命令したが、アイヒマンはそれに従わずハンガリーで任務を続けた。 |
| アイヒマンはソ連軍が迫るハンガリーから脱出し知己であったカルテンブルンナーの居るオーストリアへ戻ったが、彼はアイヒマンの任務がユダヤ人の根絶であることを知っていたため、連合国軍から責任を問われることを恐れアイヒマンとの面会を拒絶した『ヒトラーの共犯者下』73ページ。 |
逃亡
| 1947年初頭からドイツ国内を逃亡、1950年初頭には難民を装いイタリアに到着、反共産主義の立場から親ナチスが多く、元ナチスの逃亡に力を貸していたキリスト教の修道会の施設で数ヵ月を過ごした。 |
| その頃アイヒマンはリカルド・クレメント(RicardoKlement)の偽名で職業を技術者とし、国際赤十字委員会から渡航証(難民に対して人道上発行されるパスポートに代わる文書)の発給を受け、同年7月15日にはイタリアから船でアルゼンチンのブエノスアイレスに上陸した。 |
| 上記のアイヒマンの偽造渡航証は2007年5月にアルゼンチンの裁判所のアーカイブから発見された。 |
逮捕
| 1957年、西ドイツのユダヤ人検事、フリッツ・バウアーが、モサッドにアイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているという情報を提供した。 |
| さらに同機は当初ブラジルのサンパウロ市郊外にあるヴィラコッポス国際空港を経由して同空港で給油する予定だったにもかかわらず、空港への到着前に同機にアイヒマンが搭乗していることが知られた場合、ドイツ系が一定の影響力を持つブラジル政府により離陸が差し止められる危険性があることから、空港での給油を行わずにセネガルのダカールまで無給油飛行を行うなど、移送には細心の注意が図られた。 |
| ダヴィド・ベングリオン首相は1960年5月25日にクネセトでアイヒマンの身柄確保を発表し世界的なニュースとなった。 |
処刑
| すべての訴因上で有罪と判決されて、アイヒマンに対し1961年12月15日に死刑(イスラエルでは戦犯以外の死刑制度は存在しないため、イスラエルで執行された唯一の法制上の死刑)の判決が宣告され、1962年6月1日未明にラムラ刑務所で絞首刑に処された。 |
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1906年
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ドイツ帝国西部ラインラントの都市ゾーリンゲ... |
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1913年
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アドルフ・カールはオーストリア=ハンガリー... |
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アドルフ・アイヒマンさんについてのひとこと紹介
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