| 1918年、同地に介入してきたイギリス軍によって拘束された。 |
| しかしまもなく釈放され、1920年にはバクーにおける労働者蜂起に参加した。 |
| こうしてミコヤンは地方レベルの共産党組織・機関でスターリン派党官僚(アパラチキ)として活動した。 |
| 1923年、党中央委員に選出される。 |
| 1924年にウラジーミル・レーニンが死ぬと、その後の権力闘争の中で一貫してスターリンを支持した。 |
| グリゴリー・オルジョニキーゼとともに、その出身地からコ-カサス・トリオ(カフカース派)とよばれた。 |
| 1926年、党の政治局員候補に選出されるとともに、外国貿易・国内商業人民委員(大臣)に就任した。 |
| 同人民委員としては、貿易および国内商業の組織化の実施、欧米諸国から缶詰製造計画の導入などが上げられる。 |
| 1928年、第一次五ヶ年計画が開始され、企業の再国有化や農業集団化が実施される中で、穀物調達の責任者として穀物の飢餓輸出を強行したほか、ロシアの所有する貴金属や絵画を外貨獲得のために外国に売却した。 |
| 1930年代には、ソ連における補給、食品工業、対外貿易を担当し、第二次世界大戦では、前線への物資補給システム構築の責任者として大きな役割を果たした。 |
| この間の1935年に政治局員となり、1937年には人民委員会副議長(副首相)となる。 |
| 大戦中の1942年、スターリンを議長とする国家防衛委員会のメンバーとなり、戦後の1946年ソ連閣僚会議副議長(副首相)として首相であるスターリンを補佐した。 |
| その後も一貫して外国貿易と国内商業を担当し、戦後のソ連経済の復興に当たり、「赤い商人」の異名をとった。 |
| また、1949年には毛沢東との間で秘密交渉に当たっている。 |
| 1953年にスターリンが死去し、ソ連共産党筆頭書記・首相についたゲオルギー・マレンコフによって外国貿易大臣の地位を維持した。 |
| しかし、マレンコフは党務からはずれ首相に専任となり、新たに党第一書記となったニキータ・フルシチョフが、1956年第20回ソ連共産党大会においてスターリン批判を開始するや、これを支持、スターリン批判の先頭に立つ。 |
| フルシチョフ新体制では第一副首相に就任する。 |
| 1956年10月のハンガリー動乱では、ミコヤンは政治局会議でソ連軍の介入が国際社会における非難を浴びると主張して、フルシチョフの介入決定に対しては自らの自殺すらほのめかして強く反対したとされるが、特派大使としてハンガリーに派遣され、事態の収拾に当たった。 |
| 1957年に辞職をほのめかしてフルシチョフを牽制したと言われる。 |
| その一方で同年マレンコフ、ヴャチェスラフ・モロトフ、ラーザリ・カガノーヴィチらを中心とするフルシチョフ追い落とし、いわゆる「反党グループ」事件では、一貫してフルシチョフ擁護に回り、逆にマレンコフ、モロトフ、カガノーヴィチは失脚した。 |
| ミコヤンがフルシチョフ支持、非スターリン化に回った動機としては、旧スターリン派の勝利によって、再び大粛清への回帰を予想したと言われる。 |
| 以後、第一副首相として対外経済関係、貿易を担当し、日本、アメリカ、メキシコなどを歴訪している。 |
| 日本には1961年と1964年に訪れ、1991年にゴルバチョフ大統領が来日するまで、訪日した最高レベルのソ連首脳であった。 |
| 辣腕なミコヤンは「赤いセールスマン」と揶揄された。 |
| フルシチョフ期のミコヤンは、デタント(緊張緩和)を支持し、比較的穏健な外交政策の推進を堅持した。 |
| 1961年フルシチョフがベルリンの壁を構築したことや、1960年にパリで行われた米ソ英仏四カ国首脳会談でアメリカの偵察機U2の撃墜を受けて、同会議から離脱したことには、冷戦の継続をもたらすと批判的であった。 |
| しかしながら、ミコヤンは、外交路線でフルシチョフを批判することはあったものの、フルシチョフ期全般を通じてソ連共産党首脳の中では、フルシチョフの熱心な支持者として振る舞った。 |
| フルシチョフもミコヤンを重用し、最高幹部として遇した。 |
| 1964年にはソ連の国家元首に当たる最高会議幹部会議長に就任した。 |
| また、フルシチョフはソ連を代表して1963年のジョン・F・ケネディの葬儀に参列している。 |
| この時の弔問外交では、大統領のリンドン・ジョンソンと会談し、ソ連と暗殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドとソ連の関係、事件への関与を否定している。 |
| 上述のようにミコヤンとフルシチョフとの関係は良好であったが、他方党内ではフルシチョフ改革による党組織の絶え間ない再編や、外交、フルシチョフの粗野な言行に対して次第に不満が高まっていった。 |
| 機を見るに敏なミコヤンは、フルシチョフ追放の宮廷クーデターを察知する立場に立ちながら、黙殺に近い立場を貫いた。 |
| 1964年10月、フルシチョフは党中央委員会第一書記と閣僚会議議長を解任されて失脚する。 |
| ミコヤンはフルシチョフ解任の中央委員会総会では、幹部会員では唯一解任に反対し、折衷案としてフルシチョフの「第一書記からの解任と閣僚会議議長への留任」を提案した。 |
| この提案は直ちに否決された。 |
| フルシチョフ失脚後に二人は二度と会うことはなかったが、ミコヤンは失脚直後のフルシチョフに何度か励ましの電話をかけた。 |
| 電話は盗聴されており、その内容は直ちにレオニード・ブレジネフに報告されたが、ブレジネフは電話をかけたことをひどく不快に思っていることをミコヤンに伝えずにはおれなかった。 |
| ミコヤンはあまりにフルシチョフに近かったためにフルシチョフ失脚後は党内でその存在が疎まれた。 |
| フルシチョフ失脚の翌1965年、最高会議幹部会議長の職を辞任し、事実上ミコヤン自身も失脚することになった。 |
| ブレジネフ指導部は、ミコヤンとフルシチョフの友情を非常に恐れていたといわれており、古典的な「分割して支配せよ」という方法で二人を引き裂いた。 |
| フルシチョフは徹底的に監視下に置かれる一方、妻に先立たれていたミコヤンは身の回りを世話する若い女性をあてがわれ、回想録を執筆する自由も許された。 |
| またデマ情報を流した。 |
| KGBはミコヤンの運転手に「フルシチョフはミコヤンの悪口ばかりを言っている」との根も葉もないゴシップを流し、これを聞いて怒ったミコヤンは実際にフルシチョフに電話をかけなくなった。 |
| 1971年にフルシチョフが死去した際に、ミコヤンは新聞プラウダの小さな記事で初めてその死を知る。 |
| ミコヤンは葬儀には使者と花輪を届けている。 |
| 1978年10月21日、死去。 |
| 遺体はクレムリンの壁ではなく、フルシチョフと同じモスクワのノヴォデーヴィッチ修道院墓地に葬られた。 |
| 弟のアルチョム・ミコヤンは、軍用機設計局ミグの創設者として知られる。 |