| 1989年にハーメネイーが最高指導者に選出されたのは、保守派の''闘う法学者協会と改革派のハーシェミー・ラフサンジャーニーの利害の一致のためだった。 |
| 彼は候補者の中で最も若く、当時大統領だったラフサンジャーニーは、改革推進において彼の協力を当てにしていた。 |
| 一方、保守派の宗教・政治指導者は、余り権威のないハーメネイーが自分達の影響下に入るものと予想していた。 |
| そもそもホメイニーの後継者と指名されたホセイン=アリー・モンタゼリー師が失脚してから時間がなく、ハーメネイーの最高指導者への選出は既定の路線ではなかった。 |
| ホメイニーは法学者の最高位マルジャエ・タクリードであったが、ハーメネイーは長くホッジャトル・エスラームにすぎず、この時昇格してもなおアーヤトッラーであり、マルジャエ・タクリードには届いていない。 |
| 当初、最高指導者はマルジャエ・タクリードでなければならないとされていたため、ハーメネイーの権威に傷が付くことになったのである。 |
| 最高指導者となったハーメネイーは、1997年まで、政治の舞台では保守派の味方についた。 |
| ハーメネイーは、1989年から1997年まで大統領だったラフサンジャーニーに目に見える支援を与えなかった。 |
| このことは、「専門家会議」を支配するコム出身の宗教活動家側からの非難を懸念したからだとされる。 |
| その外、ラフサンジャーニーは、ハーメネイーと自分を対等と考え、彼に圧力を加えようとすらした。 |
| 1992年の議会選挙前日、闘う法学者協会の指導者、並びにラフサンジャーニーとの協議中、左派の勝利を許さないことが決定された。 |
| その結果、左派の活動家は、議席を得ることができなかった。 |
| 議会の保守派は、強力な派閥を形成したが、ラフサンジャーニーの予想に反して、政府に協力しなかった。 |
| ハーメネイーは、保守派の圧力の下、サウジアラビアとの協力、対米関係の一部正常化、創作従事者党の創設等で、大統領を再三批判した。 |
| ハーメネイーとラフサンジャーニー間の不一致は、1997年の大統領選挙までに鮮明に現れた。 |
| ハーメネイーは、闘う法学者協会から立候補したアブドッラー・ナーテグ=ヌーリーの支持を明言し、ラフサンジャーニーは、モハンマド・ハータミーの勝利のため、闘う法学者協会の影響力低下に関するあらゆる措置を採った。 |
| 2千万人以上の国民が選出したハータミーの勝利は、ハーメネイーに自分の立場の再検討を余儀なくさせた。 |
| 彼は、新大統領の方針が客観的に社会の要求に応えているとの結論を下した。 |
| 保守派の宗教・政治運動支持者中には、国民中の人気の急激な低下によって引き起こされた重大な見解の相違が生じた。 |
| 若干の権威ある宗教活動家、学生及びイスラム革命防衛隊の代表は、過激な保守派の政策に不満を示した。 |
| 1999年後半、情報省職員による改革派政治家の暗殺が暴露されたが、その組織者の中には、ハーメネイーが信任する情報省次官もいた。 |
| 1999年中盤までに、国内情勢は、危機的状況にまで悪化した。 |
| ハーメネイーは、ハータミー等と協議し、左派・右派を問わず過激派の出現を許さないことに決めた。 |
| 彼は、法治主義、並びに憲法で規定された権利と自由の保障を志向した政府の方針への同意を表明した。 |
| ハータミー政権との妥協の結果、デモ鎮圧時に職権を濫用した法秩序警備軍将校が刑事起訴され、情報相、司法権の長、貧民財団総裁等が解任された。 |
| その一方で、1999年-2000年中、20紙以上の新聞紙が閉鎖に追い込まれ、若干のジャーナリスト及び社会・政治活動家が処罰された。 |
| ハーメネイーは、国際舞台でのハータミーの努力を支持した。 |
| 彼は、ドイツ人企業家の釈放の指示を下し、イスラエルのためのスパイ行為で死刑判決を受けていたユダヤ系イラン人に対する判決を差し戻した。 |
| ハータミー政権において、ハーメネイーは、行政権の政策を支持することで国民中の人気をつなぎとめ、他の権威ある宗教活動家からの圧力をかわすことに力を注いでいる。 |
| 2009年6月13日にマフムード・アフマディーネジャードが圧倒的な勝利で大統領に再選されると、敗れたミール・ホセイン・ムーサヴィーが不正選挙を主張し、選挙のやり直しを求めると、支持者らによる大規模なデモ・暴動に発展した。 |
| ハーメネイーは2009年6月19日に金曜礼拝で「今、イランは冷静になることが必要だ」と演説し、イラン国民への自制の呼びかけと改革派のデモ終結を要求したが、それでも改革派市民によるデモ・騒乱は収まらなかった。 |
| 今回の騒乱により、イスラム共和制をとるイランの現体制の権威が傷つくこととなった。 |
| なお、ハーメネイー師やイラン政府はこの事件の背後には欧米とは異なる新しい道を歩む現体制を転覆させようと再三イランを国際的、国内的に干渉している外国の影があるとしている。 |
| 2010年2月にハーメネイー師は演説でこの選挙後の出来事は、一部の人々の誤った推測や無知から発生したとし、「(外国や共和国内部の体制の転覆を目論む)敵は、これらの出来事を利用することで、イランイスラム共和国を弱体化させようとしたが、これらの出来事は、体制の弱体化につながらなかったばかりか、これまで以上にイスラム体制が力をつける要因となった」と述べ、また、長年に渡る外国の干渉(内政干渉と国際的な干渉)に今年も我々は勝利し、革命を守りぬいたとも述べている{{Ref|khamenei1| |
| 2010年1月にはイラン情報省海外担当次官が、大統領選挙後のデモの発生に何年も前からイランの政権の転覆を目的としてきたアメリカとヨーロッパの財団・機関などが関与していた事実があったとして「ソフトな戦争」(内政干渉などを仕掛ける60の欧米団体の実名をイランのメディアに対して公表し、この侵略的な体制転覆計画はアメリカ、イギリスの国家機関等がこれらの団体を使って行わせており、今までにかなり多くの予算が正式に割り当てられていると述べた。 |
| また、これらの団体は表面上諜報機関とはわからないように装って活動しているという{{Ref|khamenei2| |
| 詳細はイランの「イランに対するアメリカ合衆国の政策」、アメリカ合衆国とイランの関係の「対イラン干渉2009年~2010年」の項を参照。 |
| 「ハーメネイー師の西側諸国への主張」に関してはアメリカ合衆国とイランの関係の「イランの主張」の項または上記の脚注につけた公式サイトのリンク先を参考。 |