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つながりの強いひと
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アバカ
親 父
イルハン朝の第2代ハン(1265年-1282年)。ペルシア語ではآباقاخانĀbāqākhānと表記される。父は初代ハーンのフレグ・ハン、母はフレグの第5位の妃でスルドゥ... |
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バイドゥ
イルハン朝の第6代君主(在位1295年)。初代君主フレグの五男タラガイの子。『集史』その他のペルシア語資料では単にبايدوBāydū、バイドゥ・ハンبايدوخانBāyd... |
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ガザン・ハン
イルハン朝の第7代君主。第4代君主アルグンの長子で、第8代君主オルジェイトゥの兄に当たる(在位1295年-1304年)。『元史』などにおける漢字表記は合贊。12... |
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テグデル
イルハン朝の第3代君主(在位1282年-1284年)。初代君主・フレグの7男。フレグの第3正妃であったコンギラト部族出身のクトゥイ・ハトゥンとの息子であり、同... |
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オルジェイトゥ
息子
イルハン朝の第8代君主(在位1304年-1316年)。第4代君主・アルグンの第3子で、第7代君主・ガザン・ハンの弟に当たり、兄の目指したイラン・イスラーム的なモ... |
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クビライ
モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。在位は1260年5月5日-1294年2月18日。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文... |
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フレグ
祖父
イルハン朝(フレグ・ウルス)の創始者である(在位1260年-1265年)。ペルシア語ではHūlākūkhānと表記される。アバカの父。チンギス・ハーンの子のトルイと、... |
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グユク
モンゴル帝国の第3代皇帝(在位1246年8月24日-1248年4月)。漢語資料の表記では貴由、谷由皇帝。ペルシア語資料での表記ではكيكخانkuyukkhānないしگيوكخانGuy... |
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オン・ハン
モンゴル高原中央部の遊牧民集団ケレイト部最後のカン。本名はトグリル(To&947;ril)あるいはトオリル(To'oril)。称号は王。漢語資料の表記では『元朝秘史』で... |
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アブドル・ハリム
国際的に未承認の第4代チェチェン・イチケリア共和国大統領でチェチェン独立派の最高指導者の1人である。 |
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ドク・ウマロフ
チェチェン独立派の野戦指揮官で、国際的に未承認のカフカース首長国の初代アミール(首長)。同じく国際的に未承認のチェチェン・イチケリア共和国の第5代大... |
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オゴデイ
哈罕皇帝/合罕皇帝(カアン皇帝)とも書かれる(後述)。モンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語文や前近代の古典モンゴル語文では'WYK'D'YQ'Q'N/ÖgedeiQa... |
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アスラン・マスハドフ
チェチェン独立派の最高指導者で国際的に未承認のチェチェン・イチケリア共和国の第3代大統領。ロシア連邦保安庁特殊部隊によって殺害された。 |
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ウズベク・ハン
ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の第10代当主(ハン)でバトゥの玄孫に当たる(在位:1312年-1342年)。『集史』によるとモンケ・テムル・ハンの十男... |
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ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ
イスラーム教の開祖、軍事指導者、政治家。アラビア半島西中部、ヒジャーズ地方の中心都市メッカの支配部族であるクライシュ族出身で、その名門ハーシム家の... |
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カイドゥ
13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設したモンゴル皇族。チンギス・ハーンの三男オゴデイの五男カシの子。『集史』などのペルシア語資料ではقايدوQāydū... |
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ベルケ
ベルケ(Berke,?-1266年?)はバトゥの弟で、ジョチ・ウルスの実質の第5代君主(在位:1257年-1266年)。ジョチの三男。漢語表記では別兒哥、ペルシア語資料で... |
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ジョチ
モンゴル帝国初期の王族で、ジョチ・ウルスの始祖。ジュチともカナ表記される。チンギス・ハーンの長男。漢字表記は朮赤。アラビア語・ペルシア語資料の表記... |
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バイ・リン
バイ・リン(1966年10月10日-)は中華人民共和国四川省出身の女優である。 |
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トクト
トクト(托克托・脱脱、1314年-1355年)は元の宰相。漢名の字は大用。メルキト族の出身で、父はバヤンの弟であるマジャルダイ。 |
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プロフィール
- アルグンとは
- 継承争い
- 晩年
- ヨーロッパへの使節派遣
- 宗室
- 兄弟・姉妹
- 后妃
- 側室
- 男子
- 女子
- 参考文献
アルグン(Arγun,Arghun 1258年?-1291年3月10日)は、イルハン朝の第4代君主(ハン、在位1284年8月11日-1291年3月10日)。第2代君主・アバカの長男。 アバカの側室の1人カイミシュ・ハトゥン(エゲチ)との息子。第5代君主・ガイハトゥの兄で、第7代君主・ガザン・ハン、第8代君主・オルジェイトゥの父。『元史』の漢字表記では 阿魯渾大王、『集史』などのペルシア語表記ではارغونخانArghāūnkhānと書かれる。
継承争い
| 父・アバカ没後のハン位選定で叔父であるテグデル、モンケ・テムルフレグの11男。 |
| オルジェイ・ハトゥンの息子らを推すグループと対立した。 |
| モンケ・テムルがアバカの死から25日後の1282年4月26日にモースルで急死すると、フレグとアバカの正妃でモンケ・テムル生母のオルジェイ・ハトゥンとクトイ・ハトゥンの両名は、アバカ一統が推すアルグンを後援した。 |
| しかし、他のフレグ家の王族たちや部将たちの多くが、テグデルを推し、また、「ヤサ」の規定に従い君主位の継承は宗族の年長者によるべきであるという意見もはなはだ根強かった。 |
| このため、モンケ・テムルの死の10日後にあたる1282年5月6日にクリルタイの全会一致をもってテグデルは即位することとなった。 |
| しかし、テグデル推戴後もアルグンは弟のガイハトゥや従兄弟のバイドゥらとともにたびたび叛乱を起こし、一度ならずテグデル側に捕縛されたが、逆にテグデルを捕らえた。 |
| この争乱の最中にアルグンを擁護していた叔父のコンクルタイをテグデルが処刑し、これを恨んだ生母アジャジュ・エゲチらコンクルタイ家の人々が復讐としてテグデルを処刑するよう迫り、結局テグデルは1284年8月10日に処刑された。 |
| アバカは一時離反した叔父のフラチュと和解すると、弟ガイハトゥらの推戴を受けて、マラーゲ近傍のハシュトルード川とクルバーン・シラとの間にあったカムシウンという夏営地においてクリルタイを開催し、1284年8月11日に即位した。 |
| 1286年2月24日(諸説あり)、モンゴル皇帝(カアン)クビライから勅書を奉じた使者が来訪し、アルグンにハンの称号を与え、アバカの君主位継承が追認された。 |
晩年
| 晩年は病を得て、1291年3月10日に現在のアゼルバイジャン共和国のあるアッラーン地方で冬営中に34歳で病没した。 |
| アルグンの死因は、彼が長寿を求めて当時秘薬とされていた水銀・硫黄を合成した薬を乱用していたからであると一説にはされている。 |
| 祖父・フレグが47歳、父のアバカが49歳という働き盛りで死んでいたため、長寿を求めたのかもしれないが、不幸にも彼らより早世した。 |
| その後、彼の遺骸はイラン中部ザンジャーンとアブハルの中間にあったモンゴル語で「コンクル・ウラング」と呼ばれたシャルーヤーズ草原の南部、スィジャース山に埋葬された。 |
| このコンクル・ウラングに後年オルジェイトゥは自らの廟墓(オルジェイトゥ廟)を含むソルターニーイェを建設している。 |
ヨーロッパへの使節派遣
| right|thumb|280px|アルグン発令のフィリップ4世宛て勅書。 |
| イルハン朝側がエジプトを制圧し、1291年2月21日頃までにフランス王国側がダマスクス周辺を奪取する計画が提案され、成功した暁にはフィリップ4世にエルサレムを与える事が書かれている。 |
| (1289年6月21日付け)。 |
| right|thumb|280px|アルグン発令のローマ教皇ニコラウス4世宛て勅書(1290年)。 |
| アルグンの治世にはマムルーク朝対策のため、ヨーロッパの勢力に使者を交していたことが知られている。 |
| 主にローマ教皇庁とフランス王国へのものが有名である。 |
| 1288年、ネストリウス派の「カタイとオング諸都市の首都大主教」バール・サウマらがローマへ派遣され、教皇ニコラウス4世に謁見して国書を手渡した。 |
| ニコラウス4世はこれを大いに歓迎してキリスト教徒の君主であるアルグンを称讃し、返書では「聖地エルサレムをキリスト教徒側に奪還してエルサレム王国の解放は遠からず容易に達成するであろう」とアルグンのエルサレム入城を進言している。 |
| またエラダク、トクダンのふたりのモンゴル王妃がカトリックに改宗したと聞き、両妃にも別途に書簡を送って言祝いだと伝えられる。 |
| (前者はエラダクはアルグンと妃ウルク・ハトゥンとの娘オルジェイ・ハトゥンあたりかと考えられ、後者のトクダンは弟君ガイハトゥの母后トクダン・ハトゥンと考えられる)。 |
| また1289年にはアルグンの側近でジェノヴァ人ブスカレッロ・ド・ジスルフがローマにたどり着き、先に教皇からの返書に同意して聖地エルサレムの攻略案を了承する旨アルグンからの声明を伝え、さらにイングランド国王エドワード1世とフランス国王フィリップ4世にも同様にシリア・パレスティナ遠征の提案を了承する書簡をラテン語による注釈付きで届けたと言う。 |
| 1291年1月にはこれらの書簡がフランス、イングランドに届き、8月には教皇ニコラウスはエドワード1世宛の親書でアルグンが自らの愛子にニコラウスという洗礼名を与えたことを引いて、アルグンからの書簡の紹介と十字軍への参加を要請している。 |
| しかし、この周到に錬られたシリア遠征計画も、フランスに達した2ヶ月後には、当のアルグンが病没してしまい事実上頓挫してしまった。 |
| アルグンがこれらヨーロッパの教皇と君主たちへ発した勅書の内、ニコラウス4世とフィリップ4世宛の、朱印入りのウイグル文字モンゴル語国書がそれぞれバチカン図書館とフランス国立図書館に現在でも伝存している。 |
宗室
| 『集史』「アルグン・ハン紀」によると、アルグンには男子は4人、女子も4人いたという。 |
后妃
| クトルク・ハトゥン オイラト部族出身。 |
| オイラト首長家のクドカ・ベキの親族で、アバカの臨終に立ち会ったテンギズ・キュレゲンの娘。 |
| テンギズはグユクの皇女を娶りクトルグを儲けたため、彼女はグユクの外孫にあたる。 |
| 大ハトゥン 四男ヒタイ・オグルの生母。 |
| オルジェイ・ハトゥンベスト部族出身のイラン駐留軍司令バイジュ・ノヤンの孫スラミシュの娘。 |
| クトルク・ハトゥンの死後、その地位を受け継ぐ。 |
| ウルク・ハトゥンケレイト部族出身。 |
| フレグの筆頭正妃(大ハトゥン)ドクズ・ハトゥンの兄弟サリジャの娘で、オン・ハンの曾孫にあたる。 |
| 後述のイェス・テムル、オルジェイトゥ、オルジェタイ、オルジェ・テムル、クトルグ・テムルの生母。 |
| セルジューク・ハトゥンルーム・セルジューク朝の第14代君主スルターン・ルクヌッディーン・クルチ・アルスラーン4世(在位:1248年-1265年)の娘。 |
| (大)ブルガン・ハトゥンバヤウト部族の有力部将ノカイ・ヤルグチの姪。 |
| アバカに最も寵愛されたの正妃。 |
| 四女ダランチの母。 |
| ブルガン・ハトゥンコンギラト首長家当主デイ・セチェンの遠縁アバタイ・ノヤン(ヒンドゥスターン・カシュミール鎮守府軍中軍千戸長)の息子ウトマンの娘。 |
| アバカの正妃ブルガン・ハトゥンと同名異人。 |
| 彼女の死後その地位を受け継ぐ。 |
| アルグンの死後はゲイハトゥが受継ぎ、ゲイハトゥの三男ジナク・プーラードを産む。 |
| トデイ・ハトゥンコンギラト部族の某の娘。 |
| 父アバカの側室のひとり。 |
| アバカに嫁ぎその正妃ミリタイ・ハトゥン亡き後にその地位を継承、王女ユル・クトルグ、ノカイの母となる。 |
| 後にテグデルが受け継ぎ、テグデルの大ハトゥン位を最後に継いで、その死後はアルグンの妃となった。 |
男子
| 長男 ガザン 母コルタク・エゲチ。 |
| 次男 イェス・テムル 母ウルク・ハトゥン オルジェイトゥの同母兄。 |
| 三男 オルジェイトゥ 母ウルク・ハトゥン。 |
| 四男 ヒタイ・オグル 母クトルク・ハトゥン。 |
女子
| 長女 オルジェタイアミール・アリナクへ降嫁。 |
| 母ウルク・ハトゥン。 |
| 次女 オルジェ・テムル大アミール・イリンジンへ降嫁。 |
| 母ウルク・ハトゥン。 |
| 三女 クトルグ・テムルディヤール・バクルのアミール・ブラジュへ降嫁。 |
| 母ウルク・ハトゥン。 |
| 四女 ダランチギレイ・バウルチの息子ジャンダンへ降嫁。 |
| 母ブルガン・ハトゥン。 |
参考文献
| C.M.ドーソン著『モンゴル帝国史5』(佐口透訳注)東洋文庫298、平凡社、1976年。 |
| 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究序説イル汗国の中核部族』東京大学出版会、1995年。 |
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1282年
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モースルで急死すると、フレグとアバカの正妃... |
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1284年
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処刑された |
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