| プッチーニの遺作オペラ『トゥーランドット』の初演に際し、ムッソリーニ臨席のもとで演じることが決められていたが、ファシスト党政権に反発するトスカニーニは、国歌と扱われていた党歌「青春の歌」の演奏を拒んだ。 |
| ためにムッソリーニは初演に立ち会っていない。 |
| 未完に終わった「トウーランドット」をプッチーニの弟子アルファーノが補作したが、トスカニーニは補作のフィナーレの直前で演奏を止め「巨匠は、ここで筆を絶ちました」と言って指揮台を降り、公演はそこで終了した。 |
| トスカニーニが公演中に声を発したのは、この時のみである。 |
| トスカニーニはオペラピットを去り、場内の照明が灯り、聴衆も静かに帰ったという。 |
| オーケストラをリハーサルで徹底的に鍛え、妥協を許さない専制的な指揮者であった。 |
| こうした態度はオーケストラのみならずオペラ歌手にまで及んだ(それまでのオペラ上演は歌手中心で、トップ歌手は指揮者の統制を受けないのが普通だった)。 |
| 暗譜能力は驚異的であり、合奏曲約250曲の全パート、オペラ約100曲の譜面と歌詞、更に多くの小品を完璧に覚えていたという。 |
| 元来、トスカニーニはパルマ音楽院では作曲科の学生であった。 |
| ところが学生のときワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を観覧し作曲家になることを断念、そのままチェロ科に移ってしまった。 |
| ラヴェルの「ボレロ」を指揮した際、興奮した会場の聴衆の拍手に、作曲者同席の際の慣例に従ってトスカニーニはラヴェルを立たせて巻き起こる拍手を作曲者に向けようとしたが、テンポの解釈の違いからラヴェルは自分の席に座ったままで、聴衆の拍手には応えようとしなかったという。 |
| この行動はすぐに新聞紙上で騒がれるなど一時は音楽界格好の話題となったが、後にラヴェルはトスカニーニへの手紙の中で、この事件が実は誤解に基づくものであることを説明している。 |
| 非常に短気であり、オーケストラのリハーサルの際には怒鳴り声を発することは頻繁にあった。 |
| 戦前に出演したバイロイト音楽祭では、オーケストラが一音出すたびに「ノー、ノー!」と怒鳴るので「トスカノーノ」というあだ名を付けられていた。 |
| しかし当時のオーケストラ団員は仕事に対するモラルが低く、各々が好き勝手な譜読みをしたり、リハーサルを勝手に休み他所でアルバイトをするような者もいた。 |
| 指揮者が理想どおりの音楽を表現しようとするためには厳しい姿勢を示す必要があった。 |
| トスカニーニの癇癪も計算の内で、弛緩した雰囲気に活を入れるのが目的であった。 |
| オーケストラが指示通りに演奏すると怒ることはなく、リハーサルは極めて短時間で終わった。 |
| リハーサル中に激怒すると、指揮棒を折る、スコアを破く、インク瓶や懐中時計を地面に投げつける、譜面台を壊したりするということもよくあり、コンサートマスターの指を指揮棒で刺してしまい、裁判沙汰になったこともあった。 |
| しかし一通り暴れ終わった後は平然とした顔で「それではリハーサルを始めましょう」と何食わぬ顔でリハーサルを始めた。 |
| また、いかにもイタリア人らしく激しく怒っても翌日には忘れてしまい、まったく後に引くということがなかった。 |
| 翌日も怒りが残るジョージ・セルとは対極をなし、常日頃からオーケストラの団員との会話を図るなどして人間関係の維持には心を砕いたので憎まれるようなことはなかったという。 |
| オーケストラ団員から非常に恐れられていたが、ウィーン・フィルは別であった。 |
| ある時トスカニーニがウィーン・フィルとのリハーサル中に激しく怒り、スコアを両手で持って地面に叩きつけると、高名なチェロ奏者フリードリッヒ・ブックスバウム(ロゼー弦楽四重奏団のメンバー)は自分のパート譜をそっとスコアの隣に置いたという。 |
| しかし、トスカニーニはこの優れたオーケストラに一目置き、リハーサルで憤激することも非常に稀になり良好な関係を保っていた。 |
| 大変な好色家で、共演者の歌手との浮名を流すこともしばしばであった。 |
| それについて妻は常に悩んでいたという。 |
| しかし家族愛は強く家族の人数分のハートを彫刻した腕輪をはめていたり、孫(ホロヴィッツとワンダの娘)ソニアを溺愛し、結果的に断られたものの一時は養子にしてくれるように頼んだことも知られている。 |
| 臨終の際、ソニアが見舞いに来たときトスカニーニは、「おお、ソニア、ソニア。 |
| 来てくれたのか。 |
| おじいちゃん、もうすぐ死ぬからな」と言ったという。 |
| ジークフリート・ワーグナーの死後、相性が合わなかった未亡人のヴィニフレートがナチスに接近すると、トスカニーニは「全てが変わらん限り私は帰らない!」と叫んでバイロイト音楽祭から身を引いた。 |
| さらに1937年、ザルツブルクの路上でフルトヴェングラーと会い口論となった。 |
| 両者は前年のニューヨーク・フィルの引き継ぎをめぐって感情のしこりがあったが、フルトヴェングラーがドイツに留まっていることに対し、トスカニーニは彼がヒトラーの言いなりであると解釈しており、双方は険悪な関係となっていた。 |
| 「あなたはナチだから出ていけ!自由な国と奴隷化された国の双方では指揮する資格はない」、「あなたにまかせるなら出て行きます。 |
| でも音楽家にとって自由な国も奴隷化された国もない。 |
| 演奏するのがたまたまヒトラーの国といって、ヒトラーの部下とは限らない。 |
| 偉大な音楽こそナチスの敵ではないですか!」、「第三帝国で指揮する者は全てナチスだ!」といった内容で喧嘩別れした。 |
| 以後、二人が会うことはなかったといわれる。 |