| 1926年7月4日、イタリア系移民の子供としてブエノスアイレスで生まれる。 |
| 家は自小作農を営んでおり、ディ・ステファノは10代の頃にその手伝いをしていたことで90分間走れるスタミナがついたと語っているボール2004163頁。 |
| 12歳の時に、ラス・カルダレスというクラブに入団。 |
| CAリーベル・プレートに目をつけられる。 |
| 15歳の頃、リーベル・プレートのユースチームに入り、1943年に''"LaMaquina"''(機械)と呼ばれ当時世界トップクラスの強さを誇っていたトップチームとプロ契約。 |
| 前線に優秀な選手が揃っていたことから1946年ウラカンにレンタル移籍した。 |
| しかし、リーベル・プレートとウラカンとの試合でディ・ステファノは試合開始15秒で得点を挙げた。 |
| ウラカンでは66試合に出場して55ゴールという高い得点力を示し、翌年にリーベル・プレートへ復帰した。 |
| アドルフォ・ペデルネラを移籍へと追いやり、そのシーズン27得点を挙げ得点王となる。 |
| その内の1点はペデルネラが移籍したCAアトランタ相手にアウェーで決めたものであり、その敗戦でアトランタは降格が決定。 |
| 試合後に相手サポーターからの襲撃を受けて病院に運ばれたボール2004164頁。 |
| 1947年コパ・アメリカ、ボリビア戦でアルゼンチン代表デビューを果たし、同大会で6得点を上げ優勝に貢献する。 |
| 同大会では、最優秀選手に選ばれた。 |
| 1949年、給料問題や労働条件をめぐるゼネラル・ストライキによりコロンビアリーグのミジョナリオスへ移籍。 |
| 当時のミジョナリオスは地元の財界人の出資によって経済力が非常に強く、ディ・ステファノがリーベル・プレートで共にプレーしたペデルネラら有力選手を多く抱えていた。 |
| 4シーズンで292試合に出場、267ゴール記録、1951年(31得点)、1952年(20得点)には得点王になる。 |
| この活躍によりコロンビアサッカー連盟からのコロンビア代表への強い要請を受け(当時は複数の国の代表でプレーが可能だった)、コロンビア国籍を取得しコロンビア代表としても出場した。 |
| 1952年にミジョナリオスが親善試合のためにスペイン遠征をした。 |
| ディ・ステファノは試合前にミジョナリオスの会長、レアル・マドリードの会長サンティアゴ・ベルナベウと共にラジオに出演。 |
| ベルナベウは、この時の感想を「あの男は名選手の匂いがする」と地元記者に語った。 |
| ミジョナリオスのほかにノルウェーのクラブであるノルシェーピングも親善試合に招かれ、地元マドリードを本拠地とするレアル・マドリードを含めた3つのクラブで三者間トーナメントが行われた。 |
| ノルシェーピングとの試合は2-2の引き分けに終わったが、ミジョナリオスの2得点は共にディ・ステファノによるものであった。 |
| レアル・マドリードとの試合では4-2で勝利し、ここでもまた2得点を決めた。 |
| この活躍によってベルナベウはディ・ステファノの獲得を目指した。 |
| しかし、当時FCバルセロナのチーフスカウトをしていたジョゼップ・サミティエールもレアル・マドリード時代のコネクションでその試合の観戦チケットを入手しており、バルセロナも同選手の獲得に興味を示したボール2004153-154頁。 |
| この2クラブの激しい争奪戦の末、1953年にレアル・マドリードへと移籍した。 |
| 最初に移籍話を持ちかけたのはバルセロナであり、1954年までディ・ステファノの保有権を持っていたリーベル・プレートに400万ペセタを支払った。 |
| その後、レアル・マドリードは同じようにミジョナリオスに150万ペセタを支払った。 |
| この件に関して、FIFAは先に交渉を行ったバルセロナの取引を認めた。 |
| しかし、その直後にスペインサッカー連盟は外国人選手の移籍に関する規約を改正し、バルセロナへの移籍を阻止。 |
| 当時のバルセロナの会長であるマルティ・カレトはマドリードへ赴いてベルナベウと話し合いの場を持ち、ユヴェントスFCへの移籍という条件と共にディ・ステファノを手放すことを容認した。 |
| その対談後にスペインサッカー連盟はレアル・マドリードとバルセロナで交互に1年ずつプレーさせる共同保有の取引を持ちかけた。 |
| この取引を承諾したカレトはカタルーニャのメディアから大きなバッシングを受けて辞任。 |
| バルセロナはこの取引に応じず、レアル・マドリードから550万ペセタを受け取ることによって選手の全保有権を譲渡したボール2004160-161頁。 |
| 1953-54シーズンの3試合目となるラシン・サンタンデール戦でデビューを飾ると、初ゴールも記録。 |
| 初のエル・クラシコでは4得点を挙げた。 |
| 11シーズンでリーグ通算301得点、UEFAチャンピオンズカップ通算49得点、リーグ優勝8回、コパ・デル・レイ優勝1回、インターコンチネンタルカップ優勝1回、5度のリーグ得点王、1957年、1959年と2度のバロンドール受賞などの輝かしい成績を残した。 |
| またディ・ステファノを擁したこのチームは、1955-1956シーズンから1959-1960シーズンまでチャンピオンズカップ5連覇という偉大な記録を打ち立てた。 |
| そして、その年から始まったインターコンチネンタルカップにおいてもコパ・リベルタドーレス優勝者のペニャロールを下し初代王者となる。 |
| また、プレーのみでなくチーム作りにも影響を与えた。 |
| フランシスコ・ヘントがレアル・マドリードに移籍してきた当初は他のクラブにレンタル移籍させる予定だったが、ディ・ステファノの強い希望によってクラブはヘントをチームに留まらせた。 |
| また、普段の練習では素晴らしいプレーを見せるものの実際の試合ではあまり活躍することができなかったヘントを活かすため、ベルナベルに対して「ヘントがもっとプレーに関われるように、彼にパスを出せる左サイドMFを入れてほしい」と獲得を要請し(ベルナベウによると、自分がパスしたボールをまた返してくれるプレーヤーが必要と語り)、アルゼンチン時代の友人であるエクトル・リアルを推薦したボール2004170-172頁。 |
| 一方で1959年にチームメイトとなったジジは1958年のFIFAワールドカップで最優秀選手に選ばれたほどの実力者だったにも関わらず、彼と上手くいかなかったことでたった一年でチームを去っている。 |
| 1962年、再びチャンピオンズカップ決勝まで駒を進め、前年優勝したSLベンフィカと対戦した。 |
| その試合は5-3でレアル・マドリードが敗北を喫し、ディ・ステファノは無得点に終わるも、試合後にエウゼビオから「史上最も完成された選手」と賞賛された |
| 同大会では7得点を挙げ、チームメイトのフェレンツ・プスカシュらと共に得点王に輝いた。 |
| 1956年にはスペイン国籍を取得し、1957年1月30日のオランダ戦でスペイン代表デビューも果たしている。 |
| スペイン代表では4年間しかプレーしていないにも関わらず、エミリオ・ブトラゲーニョが更新するまで代表最多得点を保持していた。 |
| 1962年、スペイン代表としてFIFAワールドカップに招集されたものの、怪我によって出場することができず |
| 1963年8月、プレシーズントーナメント参加のためカラカスにいたディ・ステファノは反政府ゲリラによって誘拐される。 |
| この事件はヨーロッパのほぼ全ての主要紙で報じられ、ベネズエラ政府が戦車部隊を出動させるほどの騒ぎとなった。 |
| 解放された後、トーナメント最終戦のサンパウロFC戦で短時間のみプレーした。 |
| 1964年にサンティアゴ・ベルナベウからテクニカルスタッフのオファーを受けるも、自身はまだ現役を続けるつもりであったためそのオファーは決裂し、レアル・マドリードを去ることとなった。 |
| そして、現役時代はライバルであるバルセロナに所属し、スペイン代表で共にプレーしたこともあるラディスラオ・クバラに誘われ、クバラが監督をしていたエスパニョールに移籍。 |
| エスパニョールでのデビュー戦の相手は前所属のレアル・マドリードであり、その試合はエスパニョールが敗北した。 |