| 生まれたとき、父親のイマヌエル・ノーベル職業は発明家・建築家でも発明で夢中で建築の仕事は余りしてなかった。 |
| -->は破産したばかりだったが、家族と別れてロシアで興した事業が成功。 |
| 1842年には父親の住むサンクトペテルブルクに向かい、科学者ニコライ・ジーニンに師事。 |
| のちに親の事業を手伝う。 |
| ここでの主な仕事はロシア軍を相手にした機雷の製造・設置だった。 |
| やがてクリミア戦争が起きると、軍から大量の注文で大儲けをするが、1853年の戦争終結と同時に注文が止まったばかりでなく、軍がそれまでの支払いも延期したため事業はたちまち逼迫し父は1859年に再び破産する。 |
| 1850年から二年間、欧米7カ国を旅行して科学について広い知識を得る。 |
| その際パリでテオフィル=ジュール・ペルーズの科学講座を受講している(アスカニオ・ソブレロは彼の生徒の一人)。 |
| ノーベル本人は1855年にニトログリセリンのことを知る。 |
| しかし、この爆薬は狙って爆発させることが難しいという欠点があったので起爆装置を開発。 |
| 1862年にサンクトペテルブルクで水中爆発実験に成功。 |
| 1863年にはスウェーデンで特許を得てストックホルムの鉄道工事で認められるが、軍には危険すぎるという理由で採用を拒まれる。 |
| 1864年には爆発事故で弟エミール・ノーベルと5人の助手が死亡。 |
| ノーベル本人も怪我を負う。 |
| この事故に関してはノーベル本人は一切語っていないが、父イマニュエルによればニトログリセリン製造ではなくグリセリン精製中に起きたものだという。 |
| この事故で当局からストックホルムでの研究開発が禁止されたためハンブルクに工場を建設。 |
| また合成者のアスカニオ・ソブレロ(AscanioSobrero)に対し充分な対価を支払った。 |
| 1865年ニトログリセリンの製造業を開始する。 |
| 衝撃に対する危険性を減らす方法を模索中、ニトロの運搬中に使用していたクッション用としての珪藻土とニトロを混同させ粘土状にしたものが爆発威力を損なうことなく有効であることがわかり、1866年ダイナマイトを発明する。 |
| 彼の莫大な利益を狙うシャフナーと名乗る軍人が特許権を奪おうと裁判を起こしたがこれに勝訴し、1867年ダイナマイトに関する特許を取得する。 |
| しかしシャフナーによる執拗な追求はその後も続き、アメリカ連邦議会にニトロの使用で事故が起きた場合、責任はノーベルにあるとする法案まで用意されたため、軍事における使用権をシャフナーに譲渡。 |
| 1871年、珪藻土を活用しより安全となった爆薬をダイナマイト(ギリシア語で「力」)と名づけ生産を開始。 |
| 50カ国で特許を得て100近い工場を持ち、一躍世界の富豪の仲間入りをする。 |
| 1876年には結婚相手を見つけようと考え、女性秘書を募集する広告を5ヶ国語で出し、5ヶ国語で応募してきたベルタ・キンスキーという女性を候補とする。 |
| しかしベルタには既にアートゥル・フォン・ズットナーという婚約者がおり、ノーベルの元を去ってフォン・ズットナーと結婚した。 |
| この2人の関係はノーベルの一方的なものに終わったが、キンスキーが「武器をすてよ」などを著し平和主義者だったことが、のちのノーベル平和賞創設に関連していると考えられている。 |
| そして1905年に女性初のノーベル平和賞を受賞。 |
| また同年、当時20歳のゾフィー・ヘスと出会い、交流が始まる。 |
| ゾフィーには218通の手紙を残した。 |
| しかし1891年に、ゾフィーが他の男の子供を宿していることが分かり2人の関係は急速に冷えた。 |
| ノーベルの死後、ゾフィーはこれらの手紙をノーベル財団に高額で買い取らせることに成功したためすべてが残っており、またノーベル財団により公開もされている。 |
| 1878年、兄ルードヴィとロベルトと共に現在のアゼルバイジャンのバクーでノーベル兄弟石油会社を設立。 |
| この会社は1920年にボリシェヴィキのバクー制圧に伴い国有化されるまで存続した。 |
| 1884年、フランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を授与される。 |
| 1888年、兄ルードヴィが死去。 |
| この時、ノーベルと取り違えて死亡記事を載せた新聞があり、見出しには「死の商人、死す」とあった。 |
| さらに本文には「アルフレド・ノーベル博士: 可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物が昨日、死亡した」と書かれており、このことからノーベルは死後の評価を気にするようになったというフランス通信社 |
| 1890年、知人がノーベルの特許にほんのわずか変更を加えただけの特許をイギリスで取得。 |
| ノーベルは話し合いでの解決を希望したが、会社や弁護士の強い意向で裁判を起こす。 |
| しかし1895年最終的な敗訴が確定する。 |
| 1894年武器製造工場を買い取り、武器製造業に進出する。 |
| 1895年、持病の心臓病が悪化しノーベル賞設立に関する記述のある有名な遺言状を書く。 |
| 病気治療に医師はニトロを勧めたが、彼はそれを拒んだ。 |
| 1896年12月7日、サンレモにて脳溢血で倒れる。 |
| 倒れる1時間前までは普通に生活し、知人に手紙を書いていた。 |
| 倒れた直後に意味不明の言葉を叫び、かろうじて「電報」という単語だけが聞き取れたという。 |
| これが最後の言葉となった。 |
| 急ぎ親類が呼び寄せられるが、3日後に死亡した。 |
| 生涯独身であり、子供はいなかった。 |
| 死の床にも召使がいただけで、駆けつけた親類は間に合わず誰もいなかった。 |
| 現在、ノーベルはストックホルムのNorrabegravningsplatsen(北の墓地)に埋葬されている。 |