| 1886年9月には自身のエンジンつきワゴンを公開の場で走らせている。 |
| 車輪は自転車用を使用していた。 |
| デュリア兄弟がアメリカ初のガソリンエンジンのラナバウトを作ってから3年後のことだった。 |
| ランサム・E・オールズがミシガン州ランシングで、そしてヘンリー・フォードがデトロイトで、それぞれの自動車を発表した年である。 |
| 翌1897年3月15日にウィントン・モーター・キャリッジ・カンパニーを設立。 |
| 米国における自動車メーカー創成期の一社となる。 |
| ウィントンの自動車は"ホースレス・キャリッジ"(horse-lesscarriage:馬なしの車両)"とも"ウィントン・バギー"とも呼ばれた。 |
| タイヤは同じオハイオのグッドリッチのつくったゴムタイヤを履いていた。 |
| このタイヤはニューマチック(Pneumatictire)と日本でも呼ばれた空気入りのゴムタイヤで、ウィントンは米国で最初にこのタイヤを使ったのである。 |
| すでに試作車を2台作っており、それは完璧な車となっていた。 |
| 1897年5月、クリーブランド競馬場で、10馬力のエンジンを載せ33.64mph(54.14km/h)を記録する。 |
| ところが、この快挙に対し、世間はその耐久性と実用性を懐疑の目で見た。 |
| ウィントンは人々を啓蒙するためのプロモーションに力を入れるようになる。 |
| 一年後の1898年3月24日、ペンシルベニア州のロバート・アリソンが自動車を購入する。 |
| 小売された自動車としては米国初であった。 |
| サイエンティフィック・アメリカン誌に掲載されたウィントンの広告を見たのが購入のきっかけだった。 |
| 彼の自動車は当時では、先進の技術とパワーをもっていたとされている。 |
| 水冷で6馬力の単気筒を水平に置いた(横に寝せた)エンジンを車両後部に配置したリアエンジン・リアドライブ式。 |
| トランスミッションは前進2速で後退付、三輪自転車でジェームズ・スターレーが発明しカール・ベンツが自動車に応用したチェーン駆動で後軸に装着されたディファレンシャルに伝達する方式。 |
| この方式は広く用いられるようになる。 |
| チェーンは車両進行方向に回転し、エンジンの出力軸とディファレンシャル入力軸は車両横方向に向いていた。 |
| ハンドルはまだレバー式(かじ棒式)。 |
| (これは英語ではティラー(tiller)と呼ばれるもの。 |
| ) ウィントンはのちには独自のステアリング・ホイールを考案する。 |
| 25台を製造し年内に21台を販売したが、そのうちの一台は、ジェームス・ウォード・パッカードが購入していた。 |
| のちのパッカードの創立者である。 |
| パッカードはウィントンに客として意見していたが、かなり突っ込んだ意見をいわれ、それを疎んじたウィントンから、「そんなに車をご存知なのであればご自身で作ってみてはいかが」といわれたのがパッカード自動車創業の動機となっている。 |
| パッカード社の創業期のさまざまなエピソードでもウィントン社に対してかなりのライバル心を燃やしていたことが伺える。 |
| ウィントン社のサービス体制の悪さ、品質の悪さなどについて比較コメントする一方、レースでも対抗していた。 |
| (下記のアメリカ横断も参考)。 |
| ウィントンは、翌年100台以上を販売し、ガソリンエンジン車では米国で一番のメーカーとなっていた。 |
| これにより、ペンシルベニア州のH.W.コラーが米国初の自動車ディーラーを開業。 |
| 販売した車を送り届けるため、ウィントンは米国初のキャリア車(自動車運搬車)も作っている。 |
| right|thumb|220px|1899WintonStanhope。 |
| 彼は1899年にメカニックを乗せ自身でクリーブランドからニューヨーク市まで800マイルの耐久走行をした。 |
| 道路はまだ整備されておらず、馬で通るような道のりをそれでも80時間でたどり着いた。 |
| しかし、このときは全く話題にもならなかった。 |
| このため、彼は2年後の1901年に、今度は記事を書かせるためにレポーターを同伴しほぼ同じ道のり700マイルを47時間で通り抜けている。 |
| 会社の株を公開し、1901年には鉄道王で有名なヴァンダービルトがウィントンの会社の株を買ったと知れ渡ると、会社のイメージは飛躍的によくなった。 |