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ルイス・フロイス
ポルトガル出身のカトリック司祭、宣教師。イエズス会員として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本... |
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フランシスコ・ザビエル
スペイン・ナバラ生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1... |
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戦国時代から安土桃山時代にかけての大名。三城城主。日本初のキリシタン大名であり、長崎港を開港した人物として知られる。同じくキリシタン大名の有馬晴信... |
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中浦ジュリアン
安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンで、天正遣欧使節の副使。ジュリアンは洗礼名。肥前国大村領中浦村領主の子。イエズス会員でカトリック司祭。 |
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伊東マンショ
安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンで、天正遣欧少年使節の正使。イエズス会員でカトリック教会の司祭。マンショは洗礼名、本名は祐益。伊東祐青の子... |
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ヨゼフ・ピタウ
イタリア、サルデーニャ州ヴィッラチードロの生まれ。1945年イエズス会入会。カトリック教会の大司教。イタリア語名はジュゼッペ・ピッタウ(GiuseppePittau... |
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ルイス・デ・アルメイダ(LuísdeAlmeida、1525年?-1583年10月)は戦国時代末期の日本を訪れたポルトガル人。商人であったが、医師の免許を持ち、西洋医学を日... |
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結城了悟
スペイン・セビリャ出身のイエズス会司祭・キリシタン史研究者。帰化名はペトロ岐部と187殉教者の一人結城了雪にちなむ。旧名ディエゴ・パチェコ・ロペス・デ... |
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フランシスコ・カブラル
フランシスコ・カブラル(FranciscoCabral,1529年-1609年4月16日)は戦国時代末期の日本を訪れたイエズス会宣教師。カトリック教会の司祭。日本布教区の責任... |
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原マルティノ
安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンで、天正遣欧少年使節の副使。肥前国(現在の長崎県波佐見町)出身。イエズス会員でカトリック司祭。マルチノ、又... |
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有馬晴信
有馬晴信(ありまはるのぶ、永禄10年(1567年)-慶長17年5月6日(1612年6月5日))は戦国時代、安土桃山時代、江戸時代の大名。肥前有馬氏当主。有馬義貞の次... |
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パウロ三木
パウロ三木(ぱうろみき、永禄7年?(1564年?)-慶長元年12月19日(1597年2月5日))は安土桃山時代のキリシタンでイエズス会員。カトリック教会の聖人で、... |
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ロレンソ了斎
戦国時代後期の日本人イエズス会員。琵琶法師であったがフランシスコ・ザビエルに出会って洗礼を受けた。名説教家として知られ、精力的な布教活動を行い、当... |
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マテオ・リッチ
マテオ・リッチ(MatteoRicci,1552年10月6日-1610年5月11日)はイタリア人イエズス会員・カトリック教会の司祭。中国名は利瑪竇(りまとう、LìMǎdòu)。フラ... |
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イグナチオ・デ・ロヨラ
イグナチオ・デ・ロヨラ(IgnacioLópezdeLoyola、またはInigoOinazLoiola、バスク語:IgnazioLoiolakoa、1491年12月24日-1556年7月31日)はスペイン・バスク... |
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ピエール・ファーヴル
16世紀フランス出身のカトリック司祭でイエズス会創立者の一人。その学識を高く評価され、教皇パウルス3世からトリエント公会議出席を要請されたが、果たせず... |
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松田毅一
日本の歴史学者。香川県高松市出身、大阪市育ち。専門は戦国時代から江戸時代初期の日欧交渉史、特にポルトガル・スペインとの関係史。ヨーロッパ各地(ポル... |
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ガスパール・コエリョ
ガスパール・コエリョ(GasparCoelho、1530年-1590年5月7日)はポルトガル出身で戦国時代の日本で活動したイエズス会司祭、宣教師。イエズス会日本支部の準管... |
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龍造寺隆信
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前の戦国大名。“五州太守”の称号を好んで用い、肥前の熊ともいわれた。仏門にいた時期は「円月坊」、還俗後は「... |
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ジュゼッペ・キアラ
イタリア出身のイエズス会宣教師。禁教令下の日本に潜入したが捕らえられ、拷問の責め苦に耐えかねての強制改宗により信仰を捨て、岡本三右衛門(おかもとさ... |
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プロフィール
- アレッサンドロ・ヴァリニャーノとは
- イエズス会入会まで
- マカオから日本へ
- 日本訪問
- 参考文献
- 関連項目
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(AlessandroValignano、1539年2月15日-1606年1月20日)は、キリシタン時代の日本を訪れたイエズス会員、カトリック教会の司祭。イエズス会東インド管区の巡察師として活躍し、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施した。
イエズス会入会まで
| 1539年、イタリアのキエーティで名門貴族の家に生まれたヴァリニャーノは、名門パドヴァ大学で法学を学んだ後、キエーティの司教をつとめた関係でヴァリニャーノ家と親交のあった教皇パウルス4世に引き立てられてローマで働くことになった。 |
| パウルス4世の後継者ピウス4世もヴャリニャーノの才能を評価し、より重要な任務につかせようとした。 |
| ヴァリニャーノはこれに応えて聖職者となることを決意し、パドヴァ大学で神学を学ぶと1566年にイエズス会に入会した。 |
| 入会後に哲学を深めるため、ローマ学院で学んだが、この時の学友に後のイエズス会総長クラウディオ・アクアヴィーヴァがいた。 |
| 1570年誓願を宣立し、司祭に叙階される。 |
| 1571年から修練院で教えていたが、教え子の中には後に中国宣教で有名になるマテオ・リッチらがいた。 |
| 1573年、総長エヴァラルド・メルクリアンの名代として広大な東洋地域を回る東インド管区の巡察師に大抜擢された。 |
| イタリア出身のヴァリニャーノが巡察師という重要なポストに選ばれたのは、当時のイエズス会内の2大勢力であったスペイン・ポルトガルの影響による弊害を緩和するためであったといわれている。 |
| 彼は1574年3月21日にリスボンを出発し、同年9月にゴアに到着。 |
| 管区全体をくまなく視察した。 |
| インドの視察を終えたヴァリニャーノは1577年9月にゴアを経つと同年10月19日マラッカに入った。 |
マカオから日本へ
| ヴァリニャーノは1578年9月、マカオに到着したが、同地のイエズス会員のだれ一人として中国本土定住が果たせなかったことを知った。 |
| 彼はイエズス会員が中国に定住し、宣教活動をするためにまず何より中国語を習得することが大切であると考えた。 |
| 彼はゴアにあった東インド管区本部の上司に手紙を書き、この任務にふさわしい人物としてベルナルディーノ・デ・フェラリスBernardinodeFerraris)の派遣を願ったが、フェラリスはコーチのイエズス会修道院の院長として多忙をきわめていたため、代わりにミケーレ・ルッジェーリが派遣されることになったYvesCamus, |
| ヴァリニャーノは1579年7月、到着したルッジェーリと入れ替わるように日本へ出発した。 |
| ヴァリニャーノの指示にしたがってルッジェーリは中国語の学習に取り組み、この任務にふさわしい人材としてマテオ・リッチのマカオへの派遣をヴァリニャーノに依頼、ヴァリニャーノがゴアに派遣を要請したことでリッチがマカオに送られ、ルッジェーリとリッチの二人は1582年8月7日から共同で宣教事業に取り組んだ。 |
| 彼ら2人はヨーロッパ人として初めて中国文化と中国語を理解し、ヨーロッパにおける中国学のパイオニアとなった。 |
日本訪問
| ヴァリニャーノが当時の東インド管区の東端に位置する日本(口ノ津港)にたどり着いたのは1579年(天正7年)7月25日のことであった。 |
| この最初の滞在はまで続く。 |
| ヴァリニャーノは日本におけるイエズス会の宣教方針として、後に「適応主義」と呼ばれる方法をとった。 |
| それはヨーロッパのキリスト教の習慣にとらわれずに、日本文化に自分たちを適応させるという方法であった。 |
| 彼のやり方はあくまでヨーロッパのやり方を押し通すフランシスコ会やドミニコ会などの托鉢修道会の方法論の逆を行くもので、ヴァリニャーノはこれを理由としてイエズス会以外の修道会が日本での宣教を行うことを阻止しようとし、後のイエズス会と托鉢修道会の対立につながる。 |
| ヴァリニャーノは巡察師として日本各地を訪れ、大友宗麟・高山右近・織田信長らと謁見している。 |
| 1581年、織田信長に謁見した際には、安土城を描いた屏風(狩野永徳作とされる)を贈られ、屏風は教皇グレゴリウス13世に献上されたが、現在に到るも、その存在は確認されておらず、行方不明のままである。 |
| また、従者として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したためこれを献上し、弥助と名づけられて信長の直臣になっている。 |
| また、この最初の来日では、当時の日本地区の責任者であったポルトガル人準管区長フランシスコ・カブラルのアジア人蔑視の姿勢が布教に悪影響を及ぼしていることを見抜き、激しく対立。 |
| 1582年にカブラルを日本から去らせた。 |
| ヴァリニャーノは日本人の資質を高く評価すると共に、カブラルが認めなかった日本人司祭の育成こそが急務と考え、司祭育成のために教育機関を充実させた。 |
| それはに肥前有馬(現:長崎県南島原市)と近江安土に設立された小神学校(セミナリヨ)、1581年に豊後府内(現:大分県大分市)に設けられた大神学校(コレジオ)、そして1580年に豊後臼杵に設置されたイエズス会入会の第1段階である修練期のための施設、修練院(ノビシャド)であった。 |
| また、日本布教における財政システムの問題点を修正し、天正遣欧少年使節の企画を発案した。 |
| これは日本人にヨーロッパを見せることと同時に、ヨーロッパに日本を知らしめるという2つの目的があった。 |
| 1582年、ヴァリニャーノはインドのゴアまで付き添ったが、そこで分かれてゴアに残った。 |
参考文献
| 矢沢利彦、筒井砂訳『日本イエズス会士礼法指針』キリシタン文化研究会、1970年。 |
| 松田毅一他訳『日本巡察記』平凡社(東洋文庫)、1973年。 |
| 高橋裕史訳『東インド巡察記』平凡社東洋文庫、2005年。 |
| AlessandroValignano,''Catechismuschristianaefidei.''Lisbon:AntoniusRiberius,1586(再版:AntonioPossevino,''BibliothecaSelectaQuaAgiturDeRationeStudioruminHistoria,inDisciplinis,inSalutemOmniumProcuranda.''Roma:TypographiaApostolicaVaticana,1593).UrsApp,''TheBirthofOrientalism'',Philadelphia:UniversityofPennsylvaniaPress,2010(ISBN978-0-8122-4261-4),18-24,139-146頁参照.。 |
| 松田毅一『ヴァリニャーノとキリシタン宗門』朝文社、1992年。 |
| ヴィットリオ・ヴォルピ、原田和夫訳『巡察師ヴァリニャーノと日本』一藝社、2008年。 |
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