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プロフィール
- アントニ・ガウディとは
- 誕生
- 幼少時代
- 学生時代
- 前半生の主な作品
- 後半生
- 死
- 設計手法
- 評価
- 参考文献
- 関連サイト
アントニ・ガウディ(カタルーニャ語:AntoniPlàcidGuillemGaudíiCornet,1852年6月25日-1926年6月10日)は、スペイン、カタルーニャ出身の建築家。19世紀から20世紀にかけてモデルニスモ( アール・ヌーヴォー)期のバルセロナを中心に活動した。サグラダ・ファミリアをはじめとしたその作品は アントニ・ガウディの作品群としてユネスコの世界遺産に登録されている。スペイン語(カスティーリャ語)表記では、アントニオ・ガウディ(AntonioPlácidoGuillermoGaudíyCornet)。
誕生
| アントニ・ガウディは、1852年6月25日午前9時半ファン・バセゴダ・ノネル『ガウディ』美術公論社、1992年、p.25.、カタルーニャ州タラゴナ県に、父フランセスク・ガウディ・イ・セラと母アントニア・クルネットコルネットの表記もある。 |
| ・イ・ベルトランの5人目の子として生まれた。 |
| 一家の次女マリアと長男のフランセスクはそれぞれ幼くして亡くなったため、三男アントニは長女のローザ、次男のフランセスクとの3人姉弟の弟として成長した。 |
| ガウディの出生地とされる場所には、レウスとその近郊の村リウドムス(Riudoms)の2箇所がある。 |
| レウス説は、洗礼を受けた聖ペラ教会の台帳や学校に提出された書類に基づくものである。 |
| その一方で、ガウディはリウドムスのマス・デ・ラ・カルデレラ(MasdelaCalderera)で生まれ、洗礼をレウスで行なったとも伝えられている。 |
| バセゴダ、pp.22-29.。 |
| ガウディ家の先祖は17世紀初頭にフランス、オーヴェルニュ地方からリウドムスへやってきた。 |
| リウドムス出身の父フランセスクは、銅板を加工して鍋や釜を作る銅細工師であり、「銅細工師の家」の意味をもつマス・デ・ラ・カルデレラは彼の仕事場であった。 |
| ガウディは父方・母方ともに銅細工職人という家系に生まれたことが、空間を把握するという、自らの建築家としての素地となったと考えていた。 |
| ロベール・デシャルヌ、クロヴィス・プレヴォー『ガウディ――芸術的・宗教的ヴィジョン』鹿島出版会、1993年、p.18.。 |
| 画像:Casadegaudi-reus.png|ガウディの生家。 |
| 画像:Mascalderera.jpg|マス・デ・ラ・カルデレラ(父の仕事場)。 |
幼少時代
| 一家は母アントニアの出身地であるレウスで暮らした。 |
| ガウディはラファエル・パラウの小学校に入学、その後、フランセスク・バランゲー(フランシスコ・ベレンゲール)の学校に移った。 |
| ファン・ヘンスベルヘン『伝記ガウディ』文藝春秋、2003年、p.28.バランゲーには同じ名前をもつ息子がおり、のちにガウディの助手となる。 |
| ガウディは6歳になるまでにリウマチにかかり、痛みのひどい時にはロバに乗って移動することもあった。 |
| 病弱だったため、他の子どもたちと同じように遊ぶことは難しかったが、この頃にクリスマスの飾りのために紙細工で風変わりな家を作っていたという逸話がある。 |
| また、授業で鳥の翼は飛ぶためにあると説明した教師に対し、鶏は翼を走るために使っている、と反論したという話は、幼いガウディが自らの周囲にある物の造形をよく観察していたことを示すエピソードとして知られる。 |
| 鳥居徳敏『アントニオ・ガウディ』SD選書197、鹿島出版会、1985年、pp.48-50.後年、ガウディは自然を「常に開かれて、努めて読むのに適切な偉大な書物である入江正之『ガウディの言葉』彰国社、1991年、p.116。 |
| 」と語っている。 |
| 1863年、ガウディは貧しい家庭の子弟のために設立されたピアリスト修道会(Piarists)の学校に入学する。 |
| この学校でガウディはエドワルド・トダ・イ・グエイ(エドゥアルド・トダ・イ・グエル)とジュゼプ・リベラ・イ・サンス(ホセ・リベラ・イ・サンス)という友人を得る。 |
| トダの回想によれば、3人が発行した雑誌『エル・アルレキン』(「アルレッキーノ」の意)でガウディは挿絵を担当し、学校演劇の際には大道具や小道具を制作した。 |
| 当時のガウディの絵にはレウス出身でイタリアで活躍した画家マリア・フォルトゥニ(MariàFortuny)の影響が指摘されている。 |
| ファン・ヘンスベルヘン、pp.42-43.。 |
| ガウディ、トダ、リベラの3人はレウスに近いタラゴナのローマ遺跡やポブレー修道院への小旅行もしている。 |
| 特に当時、廃墟となっていたポブレー修道院については、トダが中心になって作った修復計画が立てられ、水彩で描かれた概略図が残っている。 |
| ポブレー修道院へガウディたちが足を運んだ時期については、1867年と1869年の2つの説がある。 |
| 修復計画においてガウディが設計を担当したとも言われるが、実際にはトダが大半の作業を行ない、ガウディはそれに賛意を示したものと考えられている。 |
| 中山公男「略伝――人と作品」、中山・磯崎・粟津編『ガウディ全作品1 芸術と建築』六耀社、1984年、pp.424-425.後年、外交官としてアフリカやアジアを訪れ、エジプト学にもかかわったトダは、実際にポブレー修道院の再建に取り組んだ。 |
| Wikipediaスペイン語版、EduardoTodayGüellを参照。 |
| 画像:Tarragoneamphithéatreromain.JPG|タラゴナのローマ遺跡(世界遺産)と地中海。 |
| 画像:PobletMonastery.jpg|ポブレー修道院(世界遺産)。 |
学生時代
| 1873年から1877年の間、ガウディはバルセロナで建築を学んだ。 |
| 学校では、歴史や経済、美学、哲学などにも関心を示したほか、ヴィオレ・ル・デュクの建築事典を友人から借りて熱心に読んでいたとも伝えられる。 |
| また、学業と並行していくつかの建築設計事務所で働き、バルセロナのシウタデラ公園の装飾やモンセラートの修道院の装飾にもかかわった。 |
| 1878年に建築士の資格を取得している。 |
| 当時のバルセロナ建築学校校長で建築家のアリアス・ルジェン(エリアス・ロジェント、EliesRogent)は、ガウディについて「彼が狂人なのか天才なのかはわからない、時が明らかにするだろう」と言ったと伝えられる。 |
| {{Citeweb。 |
| 同年、ガウディはパリ万国博覧会に出展するクメーリャ手袋店のためにショーケースをデザインした。 |
| この作品を通じてガウディの才能を見初めたのが、繊維会社を経営する富豪エウセビオ・グエル(エウゼビ・グエイ)であった。 |
| グエルは、その後40年あまりの間パトロンとしてガウディを支援し、グエル邸、コロニア・グエル教会地下聖堂、グエル公園などの設計を依頼した。 |
| 1883年にはサクラダ・ファミリアの専任建築家に推薦される。 |
| 画像:Parcdelaciutadella.jpg|シウタデラ公園落水館。 |
| 画像:ParcdelaCiutadellaLion.jpg|シウタデラ公園欄干の装飾。 |
| 画像:MontserratMonestry.JPG|モンセラート修道院。 |
前半生の主な作品
| 太字で示したものは、アントニ・ガウディの作品群として世界遺産に登録されている。 |
| レイアル広場の街灯(1878-1879年)。 |
| 手袋屋のショーケース(1878年)。 |
| マタロの労働組合本部(1878-1882年)。 |
| ごく一部ではあるが、ガウディが初めて木材を用いて放物線状のデザインを表現した。 |
| ジベール薬局の装飾(1879年)。 |
| ガラーフの狩猟小屋パビリオン(1882年)。 |
| カサ・ビセンス(1883-1885年)。 |
| サンタンデールのエル・カプリッチョ(1883-1885年)。 |
| グエル別邸のパビリオンと厩舎(1884年)。 |
| グエル邸(1886-1889年)。 |
| アストルガの司教館(1887-1893年)。 |
| サンタ・テレサ学院(1889-1894年)。 |
| カサ・デ・ロス・ボティネス(1891-1892年)。 |
| カサ・カルベット(1898-1900年)。 |
| コロニア・グエル教会地下聖堂(1898-1914年 未完)。 |
| グエル公園(1900-1914年)。 |
| ボデーガ・デ・ガラーフ(1901年)。 |
| ミラリィエス別邸の門と塀(1902年)。 |
| カサ・バトリョ(1904-1906年)。 |
| カサ・ミラ(1905-1907年)。 |
| サグラダ・ファミリア付属学校(1909年)。 |
| パルマ大聖堂の修復(1914年)。 |
| File:Casavicens.jpg|カサ・ビセンス。 |
| 画像:Parcguell.jpg|グエル公園。 |
| 画像:Casabatllo2.jpg|カサ・バトリョ。 |
| File:CasaMilà-Barcelona,Spain-Jan2007.jpg|カサ・ミラ。 |
後半生
| 150px|thumb|聖体の祝日で「聖体の行列」に並ぶ晩年のガウディ(1924年)。 |
| ガウディは後半生を熱心なカトリック教徒として過した。 |
| 1914年以降、彼は宗教関連以外の依頼を断り、サグラダ・ファミリアの建設に全精力を注いだ。 |
| しかし、親族や友人の相次ぐ死によるガウディの仕事の停滞とバルセロナ市が財政危機に見舞われたことによってサグラダ・ファミリアの建設は進まず、同時に進めていたコロニア・グエル教会堂の建設工事は未完のまま中止されてしまう。 |
| さらに1918年、パトロンのエウゼビ・グエイが死去した。 |
| 彼は取材を受けたり写真を撮られたりするのを嫌うようになり、サグラダ・ファミリアの作業に集中するようになった。 |
| File:Sagradafamilia-overview.jpg|サグラダ・ファミリア。 |
死
| 1926年6月7日、ガウディはミサに向かう途中、路面電車に轢かれた。 |
| 晩年身なりに気をつかわなかったため、浮浪者と間違われて手当てが遅れ、事故の3日後に73歳で息を引き取った。 |
| 女性恐怖症であったらしく、終生独身であった。 |
設計手法
| 彼の建築は曲線と細部の装飾を多用した、生物的な建築を得意とし、その独創的なデザインは多くの建築家や芸術家に影響を与えた。 |
| ガウディの自然への賛美がもっとも顕著に表れた作品が、コロニア・グエル教会地下聖堂のガウディ設計部分である。 |
| 生前に描かれた設計図はスペイン内戦で焼失している。 |
| 外尾悦郎『ガウディの伝言』光文社新書、2006年、pp.33-34.彼は、設計段階で模型を重要視し、設計図をあまり描かなかった。 |
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1852年
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アントニ・ガウディは、午前9時半、カタルー... |
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1863年
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ガウディは貧しい家庭の子弟のために設立され... |
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