| ウェーベルンは寡作家であり、生前に出版された作品は、わずか31曲しかない。 |
| ピエール・ブーレーズが監修・指揮したウェーベルン全集のCDは、作品番号のない作品を含めてさえ、ディスク6枚分で間に合っている新録音版は6枚組み。 |
| ロンドン交響楽団などによる旧全集は、主に作品番号つきの作品の録音であるが3枚組みである。 |
| しかしながらウェーベルンの後進への影響は大きく、とりわけ戦後の前衛音楽への影響は濃厚であった。 |
| 後期作品は十二音技法が使われ、密度の薄い音響体と冷たい情感が特徴的だが、緻密に構成され、凝縮され、それでいて明晰な構造を持ち、音高以外の要素も組織的に扱おうとする傾向が見られるなど、トータル・セリエリズムの前兆とみなすこともできる。 |
| これがブーレーズやシュトックハウゼンなどに影響を与えている。 |
| 一方、ケージは、ウェーベルンの独自な時間感覚やリズム構成をとらえて、「音楽の神髄とは間合いと呼吸にあることを教えた作曲家である」という趣旨の発言をしている。 |
| ストラヴィンスキーは、シェーンベルクと互いの作曲姿勢に反発し合ったにもかかわらず、秘書で指揮者のロバート・クラフトの手引きで十二音技法に精通するようになってからは、ヴェーベルンへの傾倒のもとに自らの晩年様式を開花させていった。 |
| ある程度の長い経歴を持つ作曲家がそうであるように、ウェーベルンは時期ごとに音楽を変化させていった。 |
| それでもなお、次のような特徴を挙げることができる。 |
| あらゆる音符が明晰に聞き分けられるほど、非常に簡素な響きのテクスチュア。 |
| 念入りに選び出された音色。 |
| 実に事細かな演奏者への指示。 |
| 特殊奏法の頻繁な利用(管楽器のフラッタータンギングや弦楽器のコル・レーニョ奏法など)。 |
| しばしば長7度音程を越える旋律の跳躍。 |
| 楽曲の極度の短さ(《弦楽四重奏のための6つのバガテル》(1913年)は全体を通して演奏しても3分しかかからない)。 |
| シェーンベルクに入門してから完成させた最初の作品が、管弦楽のための《パッサカリアニ短調》作品1(1908年)である。 |
| 構成的には、ブラームスの《交響曲第4番》フィナーレの前例に倣っているが、和声的に見ると進歩的で、オーケストレーションは尊敬していたブルックナーやマーラーの影響が認められるものの、個性的になっている。 |
| また、変奏される主題には、お互いに逆行形の反行形を成している部分があり、この主題が弦のピツィカートによって途切れ途切れに提示されるなど、後期作品を彷彿とさせるものがある。 |
| パッサカリアは古い音楽形式のひとつであり、後にウェーベルンが見せた古い音楽形式への関心(たとえば《交響曲》や《弦楽三重奏曲》にみられるカノンの利用)の萌芽が見出される。 |
| 作品3の《5つの歌曲》(1909年)以降の作品でウェーベルンは無調を用いている。 |
| 無調期の作品では、《弦楽四重奏のための5つの楽章》作品5(1909年)や、《管弦楽曲のための6つの小品》作品6(1910年)などが比較的よく演奏される。 |
| 《管弦楽のための5つの小品》作品10(1913年)などによって極限にまで短く凝縮された音楽は、《4つの管弦楽歌曲》作品13(1918年)あたりからさらに複雑さを極めてゆくようになる。 |
| 12音技法を用いた最初の例は、《3つの宗教的民謡''DreigeistlicheVolkslieder''》作品17(1925年)で、これ以降の作品はすべて12音技法で作曲された。 |
| 器楽曲でその最初の例は、《弦楽三重奏曲》作品20(1927年)である。 |
| つまり《弦楽三重奏曲》は、12音技法に伝統的な楽式を融和させようとした最初の試みといってよい。 |
| 《交響曲》作品21(1928年)に至って作風に変化が現れ、《弦楽三重奏曲》までの極度の複雑さに変わり、簡素な明瞭さが現れるようになる。 |
| ウェーベルンの音列技法は、しばしば非常に手が込んでおり、12の音列のうち4音ずつのグループが形作られ、3つのグループが互いに互いの変形であるかのように関連づけられている。 |
| ウェーベルン作品の統一感はそこにあるが、しばしば音列の旋律線は、より細かく分断されて、一つ一つの音が別々の楽器の音色をまとわされている。 |
| ウェーベルンの最後の作品群は、作曲様式における新たな発展の可能性を暗示している。 |
| たとえば2つのカンタータは、以前の作品よりも大きなアンサンブルを採用しており、所要時間が長くなり(第1番は9分、第2番は16分)、響きの密度はいくぶん濃密である。 |
| 音列作法はより単純で、盛期作品に認められる音列の内的な動機的連関は見いだされない。 |
| 突然の不幸な事故死により、ウェーベルンが《カンタータ第2番》作品31(1943年)の後に、新しい方向に沿ってどこに辿り着こうしていたのかを見定めることは、誰にもできなくなった。 |
| 図形による作曲も考案していたと伝えられるが、証拠は残っていない。 |