| 1931年12月18日、フランス・ピレネー=アトランティック県オロロン=サント=マリーで生まれる。 |
| 1950年代に映画批評家としてのキャリアを開始した。 |
| 上映会でアンドレ・バザンと出逢い、1951年にバザンが共同設立した雑誌『カイエ・デュ・シネマ』の編集に参加するよう頼んだ。 |
| 自らの語るところによると、自分は、すでに同誌の一部となっていたジャック・リヴェットあるいはフランソワ・トリュフォーのようには、映画的な知識も第七芸術に対する溢れる情熱も持っていはいなかった。 |
| 彼の批評的な視線はただ、彼を仲間入れることをアンドレ・バザンに決意させた。 |
| ラバルト固有のヴィジョンは、『カイエ』誌の批評的位置づけに効果的に多大な貢献をしていく。 |
| 共同編集・執筆者たちと同様に、ジャン・ルノワール、ハワード・ホークス、ジョン・フォードといった一定の映画作家たちに対する同様の賞賛を共有した。 |
| また、立ち現れる映画にもたいへんな注意を向け、ヌーヴェルヴァーグ、そしてジョン・カサヴェテス、シャーリー・クラークといったアメリカの新しい独立系映画作家たちのプロモーションに参加した。 |
| この件についての彼の準備は、同僚のいくつかの意見にときおり反対して、イタリアの若い映画を擁護するためにそれをもってくることもあった。 |
| 1964年、『われらの時代のシネアストたち''Cinéastesdenotretemps''』シリーズを開始する。 |
| 同シリーズは、ジャニーヌ・バザンとの共同プロデュースであり、ラバルト自身もいくつかの作品を演出した。 |
| 40年以上にもわたってつづいた同シリーズは、有名なシネアストたちについての52分間の肖像を構成した。 |
| 第一作はルイス・ブニュエルに捧げられ、ラバルトはブニュエルに密着し、批評の範囲内で再認識させることに多大な貢献をした。 |
| 同シリーズはテレビを通じて放映され、『カイエ』誌の批評的ヴィジョンと、映画史の彼のレクチャーはさらに定着した。 |
| ラバルトのドキュメンタリーの足どりは反スペクタクル的である。 |
| スクープを探したりせず、演出は純化し、簡単な解説さえ不在であった。 |
| ドキュメンタリーシリーズ『われらの時代のシネアストたち』は、演出家の世界を転写し、インタヴュアの存在を忘れさせるように誘う。 |
| 1980年代に同シリーズは中断する。 |
| アルテ(ARTE)に局を移り、1990年代の初めに、『映画、われらの時代の''Cinéma,denotretemps''』の名のもとに再スタートする。 |
| このタイトルの変更は、シリーズの連続性と新しい時代の誕生、現在ののみならずときの間にすでに亡くなっている映画に撮られた複数の映画作家たちにおける、この断裂に注意をする作家の意志に結びついている。 |
| 同シリーズの休止の期間、ラバルトが非活動的なままいたわけではない。 |
| 『''Cinéma,cinémas''』と『''Égalecinéma''』という放送を共同作業をした。 |
| そこでは彼の好きなシネアストたちについての違った主題を演出した。 |
| コレオグラファーのウィリアム・フォーサイスについてのドキュメンタリー『''WilliamForsytheautravail''』も演出し、そこでは『われらの時代のシネアストたち』とおなじ原則を採用した。 |
| ラバルトは、すべての以前にひとりの映画批評家でありつづけた。 |
| 記事のなかにあってもカメラの後ろにあっても彼は職業をつらぬいた。 |
| それはつねに、分析の精神であり、パースペクティヴの設定である。 |
| ジャン=リュック・ゴダールの盟友である。 |
| ゴダールの長篇デビュー作『勝手にしやがれ』や『女と男のいる舗道』など初期作品、最近でも『新ドイツ零年』や『JLG/自画像』に出演しているほか、ジャン=ピエール・リモザンなど若手監督の映画、無名監督の短篇に主演するなど、映画の出演歴が華々しく、すでに「批評家の余芸」の域は超えている。 |