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ルイ13世
ブルボン朝第2代のフランス国王(在位:1610年5月14日-1643年5月14日)。初代アンリ4世の子。母はマリー・ド・メディシス。ブルボン朝創成期の王である。父王... |
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アンリ2世
ヴァロワ朝第10代のフランス王(在位:1547年-1559年)。フランソワ1世と王妃クロード・ド・フランス(ルイ12世の王女)の次男。メディチ家出身のカトリーヌ... |
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カトリーヌ・ド・メディシス
フランス王アンリ2世の王妃。フランス王フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母后。1519年、イタリアのフィレンツェでウルビーノ公ロレンツォ2世・デ・メ... |
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ルイ14世
ブルボン朝第3代のフランス国王(在位:1643年5月14日-1715年9月1日)。ルイ13世の長子。妃はスペイン国王フェリペ4世の娘マリー・テレーズ(マリア・テレサ... |
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リシュリュー
カトリック教会の聖職者にしてフランス王国の政治家。1624年から死去するまでルイ13世の宰相を務めた。西部フランスの小貴族の三男として生まれ、聖職者の道... |
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アンリ3世
弟
ポーランド最初の選挙王( 在位:1573年 - 1575年)、およびヴァロワ朝最後のフランス王(在位:1574年 - 1589年 )。アンリ2世の四男、母はカトリー... http... |
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フランソワ1世
ヴァロワ朝第9代フランス王(在位:1515年-1547年)。シャルル5世の曾孫でルイ12世の従兄に当たるアングレーム伯シャルル・ドルレアンと、サヴォイア公フィリ... |
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シャルル9世
ヴァロワ朝第12代フランス王(在位:1561年-1574年)。父はアンリ2世、母はカトリーヌ・ド・メディシスで、フランソワ2世の弟、アンリ3世の兄である。 |
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レオナルド・ダ・ヴィンチ
レオナルド・ダ・ヴィンチ(LeonardodaVinci,1452年4月15日-1519年5月2日)はイタリアのルネサンス期を代表する芸術家で、万能人(uomouniversale,ウォモ・ウニ... |
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フランソワ2世
ヴァロワ朝第11代フランス王(在位:1559年-1560年)。父はアンリ2世、母はカトリーヌ・ド・メディシスで、シャルル9世、アンリ3世の兄である。スコットラン... |
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アンヌ・ドートリッシュ
4歳で即位したルイ14世の摂政となり、ジュール・マザラン枢機卿とともに息子の代わりに政治を執った。マザランとは極秘結婚をしたと言われるほどに親密であっ... |
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アントワーヌ
父
16世紀フランス、ヴァロワ朝末期の貴族でブルボン家の当主。ヴァンドーム公(ducdeVendôme)。ナバラ女王ジャンヌ・ダルブレ(フアナ3世)と結婚してナバラ王... |
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ルイ2世
コブスの中にあるコンテンツの単語とウィキペディアの中にある単語を結びつけるコンテンツです。リンクされたキーワードをクリックするとその意味を表示しま... |
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ルイ12世
ヴァロワ朝第8代のフランス王(在位:1498年-1515年)。シャルル5世の曾孫。「民衆の父」(lePèreduPeuple)と呼ばれた。 |
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フランソワ
フランスの軍人でギーズ公、ジョワンヴィル公、オマール公。渾名はバラフレ(balafré:傷跡のある、という意)であった。ユグノー戦争で活躍したが、プロテス... |
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フォンテーヌブロー派
フォンテーヌブロー派(仏:、英:SchoolofFontainebleau)はフランス・ルネサンス期に宮廷で活躍した画家のグループである。名の伝わらない画家も多い。フラ... |
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ルイ11世
フランス・ヴァロワ朝の王(在位:1461年-1483年)。慎重王(lePrudent)と呼ばれる。 |
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プロフィール
- アンリ4世とは
- 出自と幼少期
- ユグノー戦争
- 即位と王国平定
- 再婚
- 統治
- 死後
- 家系
- 子女
アンリ4世(、1553年12月13日-1610年5月14日)は、ブルボン朝初代のフランス国王(在位:1589年8月2日-1610年5月14日)、およびナバラ国王(在位:1572年6月9日-1610年5月14日)。ユグノー戦争で叔父コンデ公 ルイが戦死したため、年少にしてユグノー(フランスのプロテスタント)の盟主となる。1572年、自身の婚礼に際して企てられたサン・バルテルミの虐殺に遭遇したが、改宗して難を避け、1576年に脱走して再びプロテスタントに復帰し、1589年の アンリ3世の暗殺により王位を継承する。その後カトリックに改宗して国内を平定し、1598年にナントの勅令を発布してカトリ ...
出自と幼少期
| アンリはブルボン家のヴァンドーム公アントワーヌを父に、フランス王フランソワ1世の姪であるナバラ女王ジャンヌ・ダルブレを母に、フランス南西部のポーで生まれた。 |
| 母ジャンヌ・ダルブレは熱心なプロテスタントであり、その影響で父ヴァンドーム公もプロテスタントに帰依していた。 |
| 当時のフランスではカルヴァン派プロテスタント(ユグノー)が勢力を増し、カトリックとの対立が高まり、有力な王位継承権を持つ家柄であるブルボン家当主の父アントワーヌがこのユグノーの盟主となっていた。 |
| 1559年にアンリ2世が事故死し、フランソワ2世が即位する。 |
| フランソワ2世の治世下では王妃メアリー・ステュアート(スコットランド女王)の親族であるギーズ家が権勢を振っており、ギーズ公フランソワは熱狂的なカトリックだった。 |
| 宗派間の対立が高まり、ギーズ公フランソワは1560年のアンボワーズの陰謀事件で多数のプロテスタント貴族を粛清している。 |
| フランソワ2世は1560年に早世し、弟シャルル9世が即位する。 |
| 本来ならブルボン家当主のアントワーヌが摂政を務めることになるが、この時は母后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政に就任し、アントワーヌは王国総代官(軍最高司令官職)となった「聖なる王権ブルボン家」P15。 |
| 翌1561年に7歳のアンリは父アントワーヌに呼び寄せられて宮廷に入った「聖なる王権ブルボン家」p15。 |
| 摂政カトリーヌ・ド・メディシスはカトリックとプロテスタントの融和を図るものの、対立は更に激化してしまい、その最中にアントワーヌがカトリックに寝返り改宗してしまう。 |
| 熱心なプロテスタントのジャンヌ・ダルブレは宮廷を去り、幼いアンリはカトリックに強制的に改宗させられた「聖なる王権ブルボン家」p17。 |
ユグノー戦争
| 1562年、ギーズ公のユグノー虐殺事件(ヴァシーの虐殺)を契機にユグノー戦争が勃発する。 |
| プロテスタント信仰に忠実な叔父コンデ公ルイ1世がユグノー陣営の盟主となり、ジャンヌ・ダルブレもこれに加わった。 |
| 一方、改宗した父アントワーヌはカトリック陣営の司令官として戦うが、ルーアン包囲戦で戦死してしまい、幼いアンリがブルボン家の当主となった。 |
| 1563年にアンボワーズの和議が成立して戦争は一旦終わる。 |
| 1564年、シャルル9世と王太后カトリーヌ・ド・メディシスが全国巡幸に出発し、アンリもこれに随行した。 |
| この巡行中にサロン=ド=プロヴァンスに立ち寄った際、著名な占星術師ノストラダムスからアンリが将来国王になると予言された逸話が伝わる「聖なる王権ブルボン家」p20。 |
| 1567年に和平は破綻し、再び戦争が始まる。 |
| アンリは母ジャンヌにベアルンへ連れ帰され、ユグノー陣営に加わった「聖なる王権ブルボン家」p23。 |
| ベアルンでカトリックの反乱が起こると、アンリは初めて軍隊の指揮を執り、見事に撃退している。 |
| アンリは母とともにユグノーの本拠地ラ・ロシェルに入った。 |
| 1568年、ジャルナックの戦いでユグノー盟主の叔父コンデ公が戦死してしまう。 |
| このため若いアンリが盟主となり、軍隊の指揮はコリニー提督が執ることになった。 |
| 戦争ではユグノーは苦戦するものの、やがて有能なコリニー提督の指揮の下で勢いを盛り返し、1570年に和議が成立して終わった。 |
| カトリーヌ・ド・メディシスはカトリックとプロテスタントとの融和のため、アンリと王妹マルグリットとの婚姻を提案する。 |
| 母ジャンヌは両人の宗派の違いから悩むが、最終的にはこの婚姻に同意した。 |
| この結婚同意から程ない1572年6月にジャンヌは急死し、アンリはナバラ王位を継承した(スペイン名でエンリケ3世)。 |
| 同年8月18日、ナバラ王アンリは王妹マルグリットとの結婚式を挙げる。 |
| ところが8月24日、結婚式参列のためパリに集まっていたコリニー提督をはじめ多くのユグノー貴族が、カトリック派のギーズ公アンリの兵によって虐殺された(サン・バルテルミの虐殺)。 |
| カトリックは貴族だけでなくプロテスタントの民衆まで無差別に虐殺を始め、数千人が殺された。 |
| 虐殺はフランス各地にも広がり、死体がパリ市内の至る所に放置される中で、アンリは従弟のコンデ公アンリ1世とともに強制的にカトリックに改宗させられ、宮廷に幽閉された。 |
| 虐殺を契機に戦争が再開すると、ナバラ王アンリはカトリック側で参戦している「聖なる王権ブルボン家」p31。 |
| 途中休戦を挟みつつ戦争が続く中、1574年にシャルル9世が死去する。 |
| 弟アンリ3世は前年の1573年にポーランドの国王に迎えられていたが、兄の訃報を受けるとただちにポーランドを出奔して帰国し、フランス王に即位した。 |
| ナバラ王アンリは幾度かの宮廷脱出の試みの失敗「聖なる王権ブルボン家」p31-32の後、1576年2月3日の狩猟大会中に逃走に成功する「聖なる王権ブルボン家」p33。 |
| その後しばらく戦争の情勢を観望したナバラ王アンリは、同年5月にユグノー有利の和議が成立すると6月13日にプロテスタントに再改宗し、ユグノー陣営の盟主となった「聖なる王権ブルボン家」p33。 |
即位と王国平定
| カトリック陣営はギーズ公アンリを首領とするカトリック同盟を結成して巻き返し、またも戦争が再開する。 |
| 1584年、王弟アランソン公フランソワの死に伴い、ナバラ王アンリは筆頭王位継承権者となった。 |
| 宗教戦争にフランス王位継承問題もからみ、アンリ3世とカトリック同盟のギーズ公アンリ、そしてユグノー盟主のナバラ王アンリによる、三アンリの戦いと呼ばれる様相を呈するようになった。 |
| 危機感を覚えたギーズ公は、アンリ3世に圧力をかけて1585年にヌムール勅令を出させ、ナバラ王アンリの王位継承権を無効とさせる。 |
| ローマ教皇シクストゥス5世もこれに同調する教書を出す。 |
| 不利になったナバラ王アンリだったが、穏健派カトリック貴族の協力を得て、1587年のクートラの戦いではカトリック軍に大勝すること成功している「聖なる王権ブルボン家」p40。 |
| アンリ3世は交渉による和平を模索するが、1588年5月にパリで起こったバリケードの日事件を契機としてギーズ公は国王アンリ3世に、自らの推すブルボン枢機卿シャルル(ナバラ王アンリの叔父)を王位継承者と認めさせることに成功し、カトリックが優位に立った。 |
| だが、巻き返しを図るアンリ3世は同年12月、ギーズ公とその弟ギーズ枢機卿ルイを暗殺した。 |
| カトリック同盟と敵対したアンリ3世はナバラ王アンリのユグノー軍と合流して、カトリック同盟の本拠地パリの奪回を図るが、1589年8月にアンリ3世もまた熱狂的なドミニコ会士の凶刃に倒れた。 |
| アンリ3世は死の床にナバラ王アンリを呼んで王位を託し、同時にカトリックへの改宗を勧めた「世界の歴史8絶対君主と人民」p36。 |
| 8月2日、アンリ3世が死去してヴァロワ朝は断絶した。 |
| 35歳のナバラ王アンリがフランス王位を継承してアンリ4世となり、新たにブルボン朝が開かれることになる。 |
| しかし、スペインの後ろ盾を持つカトリック同盟はローマ教皇から破門されていたアンリ4世を認めず、ブルボン枢機卿に「シャルル10世」を称させて新国王に擁立し、アンリ4世に戦いを挑んだ「聖なる王権ブルボン家」p44-46。 |
| アンリ4世は各地を転戦してカトリック同盟と戦いつつパリ攻略を目指すが、頑強な抵抗を受け容易に陥落できなかった。 |
| アンリ4世は、カトリック信者が圧倒的なパリがプロテスタントの王を受け入れることがないと悟る。 |
| 1593年7月にアンリ4世は寵妃ガブリエル・デストレへ「とんぼ返りを打つことにする」と手紙を書き送っている「世界の歴史7文芸復興の時代」p271「世界の歴史8絶対君主と人民」p38。 |
| 同年7月25日、アンリ4世はサン=ドニ大聖堂で司祭の祝福を受けてカトリックに改宗した「聖なる王権ブルボン家」p47。 |
| 巷間知られるところによれば「''Parisvautbienunemesse''」(パリはミサを捧げるに値する都市である)と語ったとされる「世界の歴史15近代ヨーロッパへの道」p167。 |
| これによって、なおカトリックが優勢であったフランス国民の広汎な支持を受けることに成功し、1594年2月27日にシャルトル大聖堂で正式に成聖式(戴冠式)を執り行うことができた(本来はランス大聖堂で行わねばならないが、この時点では未だカトリック同盟の勢力下にあった)。 |
| その後、地方の各都市も続々とアンリ4世に帰順し、カトリック同盟は瓦解した。 |
| ブルターニュではスペインの支援を受けたメルクール公が抵抗を続けており、1595年にアンリ4世はスペインに宣戦布告をしてブルターニュ平定を行った。 |
| メルクール公が降伏し、スペインとの和平交渉も始まった1598年4月30日にアンリ4世はナントの勅令を発した。 |
| 同勅令はカトリックをフランスの国家的宗教であると宣言しつつ、プロテスタントに多くの制約はあるものの信仰の自由を認め、フランスにおける宗教戦争の終息を図ったものであった。 |
再婚
| サン・バルテルミの虐殺のため、不幸な結婚となったアンリ4世と妻マルグリットとの関係は冷え切ったものであり、子供もいなかった。 |
| 後にマルグリットは一人でオーヴェルニュのシャトー・ウッソンに移り住んでいる。 |
| アンリ4世はローマ教皇にマルグリットとの結婚の無効を認めてもらうことで、すでに3人の子供を生んでいるガブリエル・デストレを正式な妻に迎えたいと望んでいた「聖なる王権ブルボン家」p53-54。 |
| 同年、教皇からマルグリットとの結婚が無効であったとの宣言が下され、1600年にアンリ4世はメディチ家のマリー・ド・メディシスと結婚した。 |
統治
| まず、内戦で疲弊したフランスを立て直すために、側近であったシュリー公マクシミリアンに国家経済の再建、農業の促進、開墾地の拡大、公共事業の活発化などの政策を行わせた。 |
| 行政面では、税の支払いの見返りに官職の世襲を保証するポーレット法を定め、また金融家から地域の税金を前借りして代わりに徴税を請け負わせる徴税請負人制度を作り、財政の再建に努めている「世界の歴史22近代ヨーロッパの情熱と苦悩」p256。 |
| 1610年5月14日、アンリ4世は馬車に乗ろうとした際に狂信的なカトリック教徒のフランソワ・ラバイヤック(FrançoisRavaillac)に刺し殺された「世界の歴史17ヨーロッパ近世の開花」p257。 |
| 5月27日にラバイヤックはパリで惨たらしい方法による公開死刑に処されている「聖なる王権ブルボン家」p60。 |
| アンリ4世はサン=ドニ大聖堂に埋葬され、8歳の王太子ルイがルイ13世として即位し、成人する1617年まで母后マリーが摂政として政務を執ることになった。 |
死後
| アンリ4世の遺体はフランス革命後の1793年に墓から暴かれ、頭部は切断されて行方不明となった。 |
| その後頭部は各地を転々としたが、死後400年経った2010年になって、法医学者の鑑定によって正式にアンリ4世のものと確認された |
家系
| 母方の祖母マルグリット・ド・ナヴァールはフランソワ1世の姉であり、アンリ4世はヴァロワ朝末期の3人の王(フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世)および最初の妃マルグリット・ド・ヴァロワの又従兄弟に当たる(そのため妃マルグリットとは婚姻の無効が成立しえた)。 |
| ただし、王位継承権自体は直接にはこの血縁および婚姻関係でなくサリカ法に基づき、カペー家の男系支流であるブルボン家の家長であったことによるものである。 |
| 一方、ナバラ王位は女系継承が認められており、母ジャンヌ・ダルブレの死によりアンリ4世が継承することになった。 |
| ナバラ王の血筋を遡ると、同様にフランスとナバラの王を兼ねたカペー朝末期のルイ10世に至る。 |
| ただし、曾祖母カタリナの時代にナバラ王国は大部分がスペインに併合されており(スペイン側でも歴代スペイン王がナバラ王の称号を用いている)、ルイ10世の時代より領土は大幅に縮小している。 |
| なお、祖母マルグリットはナバラ王アンリ・ダルブレとは再婚であり、最初の夫アランソン公シャルル4世はアンリ4世の父方の祖母フランソワーズ・ダランソンの兄であった。 |
| シャルル4世とフランソワーズの家系アランソン家は王位継承権を持つヴァロワ家の有力な支流であったが、シャルル4世の死により断絶していた。 |
| 父ヴァンドーム公アントワーヌの家系はブルボン=ヴァンドーム家といい、元来ブルボン家でも傍系であったが、祖父シャルルの時代に本流が断絶したためブルボン家家長となり、ヴァロワ家断絶後のフランス王位継承権を得ることになった。 |
| また、カトリーヌ・ド・メディシスの母方の祖母ジャンヌ・ド・ブルボン=ヴァンドームはシャルルの父ヴァンドーム伯フランソワの姉であった。 |
| さらに、シャルルの妹アントワネットはギーズ公クロードに嫁いで嫡男フランソワやスコットランド王妃メアリー・オブ・ギーズをもうけており、アンリ4世はフランソワ2世の王妃でもあったスコットランド女王メアリーや、敵対関係にあったギーズ公アンリの又従弟でもあった。 |
| 加えて、アントワーヌの母方の祖母マルグリット・ド・ロレーヌはロレーヌ公ルネ2世の妹でギーズ公クロードの叔母に当たり、アンリ4世とギーズ家とはロレーヌ家の血を通じてもつながりがあった。 |
| なお、マルグリット・ド・ナヴァールの父シャルル・ドルレアンと母ルイーズ・ド・サヴォワが共にブルボン家本流の血を引いている。 |
| シャルルの母マリー・ド・リュクサンブールはルクセンブルク家の最後の末裔であるが、神聖ローマ皇帝やボヘミア王の家系となった本流でなく、分家の子孫である。 |
| ジャンヌ・ダルブレの父方の祖母カトリーヌ・ド・フォワと母方の祖父シャルル・ドルレアンは共にボヘミア王ヨハンの娘ボンヌの血を引いているので、アンリ4世はルクセンブルク家本流とも血のつながりはあることになる。 |
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1559年
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アンリ2世が事故死し、フランソワ2世が即位する |
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1560年
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早世し、弟シャルル9世が即位する |
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