| 1786年10月、彼はイギリス海軍の船''Sirius''の船長に任命され、同時にオーストラリア東海岸のイギリスの流刑植民地であるニューサウスウェールズの総督に任命された。 |
| この任命はジョージ・ローズによるものであるとされ、アーサーの牧場の近所に住んでいた彼は、アーサーの牧場での経験をよく知っていた。 |
| 彼が8ヶ月かかる危険なオーストラリアまでの航海の船員を集めるのは困難を極めた。 |
| 彼は新しい植民地で何が見つかるか分からなかったため、必要なものはすべてイギリスから運ばなければならなかった。 |
| 航海のための援助はほとんどなく、彼の農業や建設、手工業の経験がある人物が船員に含まれるべきだという考えは却下された。 |
| 778人いた囚人のうちの多くがロンドンのスラムの窃盗犯だった。 |
| 彼は海兵隊の部隊と植民地を経営する役人数人とともに植民地に向け出航した。 |
| 11隻の船が参加した初の航海は、1787年5月13日に開始された。 |
| 1788年1月18日先頭の船がボタニー湾に到着した。 |
| 彼はジョセフ・バンクスの勧めに従い、安全な停泊所がなく、水源がないとの理由でこの地は入植するのに適さないと決めた。 |
| 数日間の探検の後、彼はポート・ジャクソンに行くことを決め、1月26日には海兵隊と囚人たちがポート・ジャクソン近郊のシドニー湾に到着した。 |
| 入植の初期は物資は限られ、食料の生産は急を要したがシドニー近郊の土地はやせており、混乱と困難を極めた。 |
| さらになれない気候、そしてほとんどの囚人が農業の知識を持っていなかったことがそれに拍車をかけた。 |
| 農業器具は少なく、囚人たちは農業労働には反抗的であった。 |
| そのため植民地は長期間厳しい飢餓状態に陥った。 |
| 多くの点で自らを統制しなかった海兵隊員たちは、囚人の統制には関心を示さなかった。 |
| そのためアーサーは、囚人の中から監視員を選び他の囚人を監督させなければならなかった。 |
| これは1811年以後のLachlanMacquarieによる改革で最高潮に達した囚人解放の始まりとなった。 |
| 彼はニューサウスウェールズは流刑植民地としてだけでは経営することができないとの認識を示した。 |
| そのころHenryとSuzannahKableの二人の囚人が航海中に荷物を盗まれたとしてある船の船長を訴えようとした。 |
| 当時イギリスの囚人には訴訟を起こす権利はなかったが、彼は訴訟を起こす権利を認めるだけでなく、二人の囚人を支持し、訴えられた船長に補償を命じた。 |
| 彼はイギリスを出発する前に「植民地には奴隷制は存在せず、従って奴隷は存在しない。 |
| 」と語っていた。 |
| だがこれにもかかわらず彼は統制を重んじており、鞭打ちや絞首刑は日常茶飯事だった。 |
| 彼はまた先住民アボリジニーのEora族(シドニー周辺に居住した)に対する政策を実施しなければならなかった。 |
| 彼は住人に対してEora族を公正に扱わなくてはならないと命じ、彼らを殺した者は絞首刑にするとした。 |
| 彼はBennelongというEora族に力を貸し、後に彼をイギリスに連れて行った。 |
| Manlyという海岸で誤解が生じ彼はEora族に背中をやりで突かれたが、使用人に口外しないように言った。 |
| その後入植者がEora族を不当に扱っている中で、彼はEora族の信頼をたたえ帰還した。 |
| しかし、すぐに天然痘などのヨーロッパ人に持ち込まれた病気によってEora族の人口は急激に減少した。 |
| 彼が直面していた一番の問題は大規模な土地の譲渡を求めた軍人たちに関してであった。 |
| 軍人たちは食糧の生産を第一に求められていたが、彼らは食糧生産よりも土地を得ることに熱心になっていた。 |
| 結果として壊血病が流行し、1788年にアーサーは物資を取り寄せるためにケープタウンへ船を派遣しなければならなくなった。 |
| そして食糧の配給制が開始され、食糧の窃盗をした者は絞首刑に処された。 |