| 当時支店長であったツーイーはこれを断り、身辺に危険が及んだ。 |
| このため、ツーイーは家族を連れ、当時イギリス領であった香港へ亡命した。 |
| その後孫文政権に許され、家族は父の仕事の勤務地となった上海へと移った。 |
| 家族は上海のフランス租界で暮らし、イオ・ミンも欧米の文化に親しみながら過ごした。 |
| 一方で母の死後は祖父を通して中国の伝統文化にも親しんだ。 |
| このようにイオ・ミンは東洋と西洋の二つの文化の間で多感な少年時代を過ごした。 |
| イオ・ミンは香港の名門セント・ポール・カレッジを卒業後、上海のセント・ジョンズ・スクールへ進学。 |
| 1935年、17歳の時に渡米し、ペンシルベニア大学建築学科に入学したが、ボザール式の古典的な建築教育と人種差別に嫌気がさし、すぐに退学。 |
| マサチューセッツ工科大学に編入した。 |
| 初めは建築学ではなく工学を専攻したが、彼の才能を見抜いた学部長の強い勧めで、再び建築を学ぶこととなった。 |
| 在学中はル・コルビュジェとフランク・ロイド・ライトに強い影響を受けた。 |
| 1940年、マサチューセッツ工科大学を卒業。 |
| ヨーロッパ留学に向け奨学金を取得したが、当時のヨーロッパは第二次世界大戦の最中であったため、留学を断念。 |
| ストーン・アンド・ウェブスター社に製図工の職を得て働き始めた。 |
| 1942年、中国人のアイリーン・ルーと結婚。 |
| アイリーンが在学していたハーバード大学大学院の教授の誘いで、イオ・ミンも同校の修士課程に入学したが、すぐに休学。 |
| 戦時諜報機関の国防調査委員会に勤務した。 |
| 第二次世界大戦後の1945年、ハーバード大学大学院へ復学。 |
| ヴァルター・グロピウスとマルセル・ブロイヤーの下で学びモダニズム建築を実地で学んだ。 |
| 同時期に学んだ建築家としてフィリップ・ジョンソン、ハリー・サイドラー、ポール・ルドルフらがいる。 |
| 1946年にハーバード大学にて建築学修士号を取得。 |
| グロピウスの設計事務所に勤務し、その後、同大学助教授を務めた。 |
| 助教授を務めて2年程たった1948年、不動産開発業者の社長ウィリアム・ゼッケンドルフの招きにより、ウェッブ&ナップ社(ニューヨーク)で企業内建築家として働き始める。 |
| これは不動産の知識を得ようともくろんでいたイオ・ミンには絶好の申し出であったと同時に、ハーバード大学での約束された地位を捨てるという1つの賭けでもあった。 |
| 建築家として実作は少なく、実力も未知数であったが、いくつかのプロジェクトを経てその実力を示した。 |
| その後もウェッブ&ナップ社建築部門の代表として多数の部下を抱え、多くの都市再開発を手がけた。 |
| 1954年にアメリカ国籍を取得。 |
| 1960年までウェッブ&ナップ社で働いた後、1965年に自身の建築設計事務所「I.M.ペイ&パートナーズ」をニューヨークで設立する。 |
| 1983年にプリツカー賞受賞。 |
| 1989年には事務所名を「ペイ・コブ・フリード&パートナーズ」(Pei,Cobb,Free&Partners)に改称。 |
| 事務所の代表からは退き、I.M.ペイ&パートナーズ時代には事務所の経営上手がけられなかったような、規模の小さな仕事など、自ら選りすぐった仕事に専念している。 |
| 1994年、中国の同済大学より、名誉博士号を授与される。 |
| 石やコンクリート、ガラス、鉄などの抽象的な形、素材への依存から彼はヴァルター・グロピウスの弟子と思われたが、イオ・ミンはほとんどグロピウスの理論に関心を示さなかった。 |
| 彼は建築は時代を反映されるべきではなく、商業的な力からは距離を置くべきだと考えていた。 |
| イオ・ミンはハイ・テクの動向にゆるやかに関係付けられ、かつ洗練されたガラス加工の建造物を構築した。 |
| しかしながら、多くの作品はオリジナルのデザイン・コンセプトによっている。 |
| 彼はしばしば大きなスケールの仕事をし、シャープで幾何学的なデザインで有名である。 |
| 作品の作風から「幾何学の魔術師」との異名を持つことが有名である。 |
| アジア系出身の建築家では、世界的に最も名声を得た一人である。 |