| ところが1968年、ソ連のチェコスロバキア侵攻、いわゆる「プラハの春」が彼の人生、そして後のアメリカ移住、帰化に際して大きな影響を与える。 |
| またその後に起こったマルチナ・ナブラチロワのアメリカ亡命も、彼のその後に大きく影響している。 |
| 1978年にプロ入り。 |
| 1981年の全仏オープンで、21歳にして初めての4大大会決勝進出を果たす。 |
| この時レンドルは、大会4連覇を達成したビョルン・ボルグに1-6,6-4,2-6,6-3,1-6のフルセットで敗れた。 |
| 1982年から1989年まで、8年連続で全米オープン決勝進出を果たしたが、最初の2回はジミー・コナーズに連敗している。 |
| 1983年2月8日、初めて世界ランキング1位になった。 |
| しかしこの年は、年末の全豪オープン決勝でもマッツ・ビランデルに敗れる。 |
| 最初期は4大大会準優勝が4度あり、“万年準優勝”のイメージがあった。 |
| 1984年の全仏オープンで、レンドルはついに宿願の4大大会初優勝を達成する。 |
| クレーコート(赤土)の本大会を苦手にしてきたジョン・マッケンローとフルセットを戦い、3-6,2-6,6-4,7-5,7-5で2セット・ダウン(先に相手に2セットを取られた状態)からの大逆転勝利を収めた。 |
| しかし全米オープン決勝ではそのマッケンローに完敗し、3年連続の準優勝になる。 |
| 1985年の同大会決勝戦でマッケンローに雪辱を果たし、4年連続の決勝進出でついに全米オープン初優勝を実現させた。 |
| 以後1987年まで大会3連覇を達成。 |
| 1986年の全仏オープンで2年ぶり2度目の優勝。 |
| この年はウィンブルドンでも初の決勝進出を果たしたが、当時18歳のボリス・ベッカーに完敗している。 |
| 1987年の成績も全仏優勝、ウィンブルドン準優勝、全米優勝となる。 |
| ウィンブルドン決勝戦ではオーストラリアのパット・キャッシュに敗れて、2年連続の準優勝に終わった。 |
| 苦手な芝生コートのウィンブルドン選手権は、レンドルにとって“鬼門”の大会となった。 |
| どうしても優勝したかったレンドルは、当時自分専用の芝生コートを作るなど対策を練ったが、プロテニス選手が最も優勝したいと願う“聖地”のタイトルだけは、どうしても手が届かなかった。 |
| 1988年はマッツ・ビランデルが年間3冠を獲得した年になり、レンドルも全米オープン決勝戦でビランデルに「4時間55分」の激闘の末に4-6,6-4,3-6,7-5,4-6のフルセットで敗れ、大会4連覇を逃している。 |
| レンドルは1985年から「157週」連続で世界ランキング1位の座を保持してきたが(連続保持記録は男子歴代3位)、それもビランデルに止められた不本意な年だった。 |
| 1989年1月、全豪オープンでついに宿願の初優勝を達成。 |
| 1987年までの全豪オープンは、クーヨン・テニスクラブの芝生コートで行われていたが(レンドルの苦手なコート)、1988年からメルボルン市のナショナル・テニスセンターのハードコートに移転した。 |
| ハードコートになった全豪で、レンドルは前年のソウル五輪金メダリスト、ミロスラフ・メチージュを破って優勝した。 |
| 全米オープン決勝進出はこの年が最後になり、ボリス・ベッカーに敗れる。 |
| 1990年の全豪オープンで大会2連覇を達成。 |
| しかし全米オープンの準々決勝で、当時19歳のピート・サンプラスに敗れ、ここでの連続決勝進出記録が止まった。 |
| (当時、まだ伸び盛りだったサンプラスを、レンドルは直前の練習パートナーとして自宅のテニスコートに招待している)1991年の全豪オープンで3年連続の決勝進出を果たすが、ボリス・ベッカーに敗れて大会3連覇を逃した。 |
| これがレンドルの最後の4大大会決勝戦となる。 |
| キャリア通算で男子歴代2位の「19度」の進出となり、「8勝11敗」で終わった。 |
| キャリアが晩年に入ってから、レンドルは1992年7月にアメリカ市民権の取得を認められた。 |
| 1994年に腰痛の悪化のため、34歳で現役を引退した。 |
| 2001年に国際テニス殿堂入りを果たしている。 |