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プロフィール
- ウィリアム・セシルとは
- 出自
- 経歴
- エリザベス1世の宰相として
- 子供
- 小説内のイメージ
- 小説
- 映画
- 参考文献
ウィリアム・セシル(WilliamCecil)は初代バーリー男爵(1520年-1598年)-本項で詳述。第2代ソールズベリー伯(1591年-1668年)-初代ソールズベリー伯 ロバート・セシルの息子、1.の孫。--- ウィリアム・セシル(WilliamCecil,1520年9月13日-1598年8月4日)はイングランド女王 エリザベス1世の宰相、初代バーリー男爵(1stBaronofBurghley)。
出自
| 歴史家によって、セシルの出身を下級貴族とするか裕福な商人とするか分かれるが、いずれにしても、名門貴族ではない。 |
| この当時、枢機卿などの聖職者以外では、名門貴族の出身ではない人物が重要な職務に就くことはなかったようである。 |
| あまり出身階級が高くない人物がエリザベス1世の側近に多いが、セシルもまたその一人であり、ケンブリッジ大学出身のプロテスタントで、弁護士でもあった。 |
| エリザベスが即位する前、10年近くにわたって彼女の財産管理を任されていた。 |
| その際の手腕によって信頼を得たともいわれる。 |
| AlisonWeirの『ChildrenofHenryVIII』によると。 |
| 1548年頃、Parliament(現・英国議会)の一員となり、また当時の摂政サマセット公の秘書をしていた。 |
| この当時の表記はMrCecil。 |
| 1553年のエドワード6世の死に際しては、ジェーン・グレイ擁立派には加わらず(枢密院の一員だったが、ジェーン擁立の署名はしていない)、メアリ1世の擁立に関わるが、プロテスタントだったため、熱烈なカトリックであるメアリの統治下では、公の場に出ることを許されなかった(枢密院は貴族によって構成されるため、当時は貴族であったと思われる)。 |
経歴
| 1520年、リチャード・セシルとその妻ジェーンのたった一人の男子として生まれる。 |
| ケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・カレッジに入学し、教官だったロジャー・アスカム(彼はエリザベスの恩師でもある)やジョン・チークの元で、ギリシア語の教養を磨いた。 |
| 6年間の在学期間を経て卒業。 |
| ジョン・チークの妹メアリーと反対を押し切って結婚し、1542年に長男トーマスを儲けるが翌1543年にメアリーと死別。 |
| 3年後の1546年にアントニー・クック卿の娘ミルドレッドと再婚した。 |
| このミルドレッドはかのフランシス・ベーコンの伯母となる人で(彼女の妹アンがベーコンの母)、アスカムをして女王ジェーン・グレイと並び英国で最も教養ある女性と評せしむほどの賢婦人であった。 |
| セシルは当初サマセット公エドワード・シーモアの元で働いた。 |
| サマセット公はエドワード6世の叔父で、護国卿の地位にあった。 |
| 彼が起こした1547年のスコットランド侵攻(ピンキー・クルーの戦い)に際しては軍法会議の判事を務めている。 |
| この時同僚だったウィリアム・パッテンがその際の記録を "''ExpeditionintoScotland''"として出版するに当たっては、自身の資料を提供してこれを助けている。 |
| セシル自身の回想によれば、1543年に初めて英国議会にその議席を得たという。 |
| 現存する不完全な記録ではそのことを確認できないが、1547年にはスタンフォードの選挙区から選ばれたことが分かっている。 |
| 1548年、セシルは「護国卿の請願審議官(MasterofRequests)」と言われる立場で、サマセット公が設けた貧民救済のための私的法廷に奉職していた。 |
| またサマセット公の個人秘書的な仕事もしていたことから、1549年のサマセット公の失脚は彼にとって文字通りの危機であった。 |
| これに対してウィリアムはサマセット公の政敵ウォリック伯ジョン・ダドリーに近付き、その信任を得てエドワード6世の秘書官に就任する。 |
| 一方サマセット公は一度は政界に復帰するものの、間もなく1551年10月、ノーサンバランド公となったダドリーの手で再び逮捕される(翌年処刑)。 |
| セシルがナイトの地位を得たのはまさにその直前のことで、道連れを免れての彼の出世は周囲の賞賛を浴びた。 |
| さらに翌4月にはガーター勲章を受けるが、先の経験から権勢家に盲従する危険には十分に気を払っていた。 |
| 1553年、エドワード6世が死の床につくと、ノーサンバランド公は息子と結婚したジェーン・グレイを女王にしようと策動した。 |
| これにセシルは最後まで反対し、最後まで必要な書類に署名することを拒んだ。 |
| この抵抗は文字通り命を賭してのもので、彼は死を覚悟して妻に別れの手紙を書いている。 |
| だが結局、最後には署名を余儀なくされた。 |
| 1558年、エリザベス1世の即位に伴い、枢密院議員および首相(石井美樹子監修『女王エリザベス』による)に任命される。 |
| 一般にはChiefSecretary(第一秘書)に任命されたとしていることが多い。 |
| この職が事実上の一番の相談役である(小西章子『華麗なる2人の女王の闘い』)ことから、便宜上、首相に任命したと呼んだようである。 |
| この時点ではSirWilliamであって、高位の貴族ではない。 |
| 1571年、バーリー男爵に叙される。 |
| 次の宰相でソールズベリー伯爵に叙されたロバート・セシルは息子。 |
エリザベス1世の宰相として
| 歴史上完璧な宰相というものがいるとしたら、ウィリアム・セシルであるとまで評価する歴史家もいるようである。 |
| エリザベス1世に死ぬまで忠実な臣下として仕え、主君の不興を買ってでも諌言をする、信用に足る人物と書かれている歴史書も複数ある。 |
| エリザベス1世には「私の精霊(MySpirit)」とまで呼ばれていた(ヒバートの『女王エリザベス』による)。 |
| ただし、女王に結婚するよう勧めていた点に関しては、セシルの頭の固さ、能力の限界と指摘されていることもある。 |
| その老練さ故か、エリザベス1世を主人公にした小説、漫画、映画などでは父親ほどの年齢に描かれることも多いが、実際は13歳年上で、それほど高齢ではない。 |
| エリザベス1世の「愛人」ロバート(ロビン)・ダドリーの妻の殺害、メアリ・ステュアートに対する工作など、エリザベスがしたかもしれない汚い仕事に関しては、女王の意を汲み「宰相が勝手にやった」ことにして手を下したのではないかと書く歴史家も多い。 |
| 晩年、高齢のために体が弱ってからも、職を辞すことを許されず、代わりに女王の前で椅子に座ったまま職務を遂行することを許された。 |
| 没年が女王と5年しか変わらないため、エリザベス1世の治世のほとんどに携わった。 |
子供
| 最初の結婚で産まれた長男トーマスに期待したが、二度目の結婚で産まれた次男ロバートが父を助け、父の死後は宮廷内での役割を継いだようである。 |
| トーマスは2代目バーリー男爵、初代エクセター伯となり、ロバートは初代ソールズベリ伯となった。 |
| そのほか、長女アンはオックスフォード伯と結婚した。 |
小説内のイメージ
| エリザベス1世を主人公にした小説でも、即位前の危ない時期に「今宮廷に来ると危ない」と警告したり(我が名はエリザベス)、現在の政治情勢についての情報をマメに届ける(Beware,PrincessElizabeth)などの役割で登場することが多い。 |
| その有能さのために、サマセット公を葬り去ったノーサンバランド公が、政敵は処刑しながら、その首席秘書だったセシルは自分の側近に付けたというエピソードもある小説内。 |
| 歴史書では未確認。 |
| エドワード6世の時代。 |
| 次男のロバート・セシルとウィリアム本人をあわせた「セシルズ」が、エリザベスの「愛人」がとかく大きな勢力となる宮廷で、それに対抗して宮廷を二分する勢力であったとする小説(Queenofthisrealm)もある。 |
| エリザベスの生涯変わらぬ恋人だったとする小説(王女リーズ)もあるが、これは英語圏ではまず出てこない発想であるようだ。 |
| なお、この小説ではあとがきで、エリザベスの恋人であるというのは全くの創作であると断っている。 |
小説
| 榛名しおり『王女リーズ』。 |
| CarolynMeyer''Beware,PrincessElizabeth''。 |
| JeanPlaidy''Queenofthisrealm''。 |
| マイルズ,ロザリンド『我が名はエリザベス』上下巻。 |
参考文献
| 石井美樹子監修『エリザベス女王』小学館。 |
| 小西章子『華麗なる二人の女王の闘い』朝日新聞社。 |
| 小林章夫『イギリス名宰相物語』講談社現代新書。 |
| JaneDunn''Elizabeth&Mary''VintageBooks。 |
| ヒバート,クリストファー『女王エリザベス』上下巻。 |
| AlisonWeir''ChildrenofHenryVIII''(''ChildrenofEngland''の改題)。 |
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1520年
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とその妻ジェーンのたった一人の男子として生... |
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1543年
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初めて英国議会にその議席を得たという |
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