| ウィルコ・ジョンソンはガス工事業者の父と元看護婦の母親の典型的な労働者階級の家庭に3人兄弟の長男として生まれた。 |
| 幼年期~少年期は両親(特に父親)から受ける愛情が少なく、あまり幸福なものではなかったらしい。 |
| 学生時代にはローマーズおよびフラワーポットというバンドを結成し地元の市民ホールや労働者向けのパブなどで演奏していたが、成績優秀であった彼はニューカッスル大学(UniversityofNewcastleuponTyne)で英文学を学ぶためにキャンベイを後にし、しばらくギターから遠ざかる。 |
| 在学中、1968年にティーンエイジャー時代からのガールフレンドであった故 |
| 大学卒業後、ヒッピーとしてインドとネパールを放浪する。 |
| インドから帰国した後、地元の高校で母国語教師をしていたが、新たなバンドを組むためにギタリストを探していたリー・ブリローと幼馴染のジョン・B・スパークスに誘われ、教師を勤めながら彼らのバンドに参加する(後にロックバンドに在籍している教師は教育上好ましくないということで教師をクビになった)。 |
| かくしてドクター・フィールグッドが誕生した。 |
| 粗野で卑猥かつクレイジーな彼らのステージパフォーマンスはパンク・ロック前夜の若者を魅了し、『ダウン・バイ・ザ・ジェティ(DownbytheJetty)』『不正療法(Malplactice)』の2作を発表後、3作目にあたる『殺人病棟(Stupidity)』は英アルバムチャートでナンバーワンを獲得する大成功を収めたが、すでにバンド内には不協和音が流れていた。 |
| バンドのソングライターであり、アルコール類を全く口にしなかったウィルコは、ツアー中もホテルの部屋で1人新曲を書かねばならないプレッシャーに苦しむ一方、他のメンバー3人は大酒飲みであり、ウィルコの隣の部屋で大騒ぎをするなど、3対1の構図が出来上がりつつあった。 |
| 事の真偽は後に譲るが、結果的には4作目の『スニーキン・サスピション(SneakingSuspicion)』完成と同時にウィルコが脱退する形となり、第一期のドクター・フィールグッドは終わりを告げる。 |
| ドクター・フィールグッドを脱退したウィルコはチリ・ウィリ・アンド・ザ・レッド・ホット・ペパーズにも参加していた“ある人物”を迎えて自分のバンドを立ち上げようとしたが、パブロック界の別の人物の策略によって(中傷と受け取られる可能性があるため実名の記載は行わない)、このバンドは立ち消えとなってしまう。 |
| その後、ヴァージン・レコードと契約し、1979年にソリッドセンダース名義でアルバム『電光石火(Solidsenders)』を発表するが成功には至らず、イアン・デューリー(IanDury)の好意で彼のザ・ブロックヘッズに一時的に加入。 |
| アルバム『ラーフター(Laughter)』に参加するが、ここでウィルコは生涯の盟友となる天才ベーシスト、ノーマン・ワット・ロイ(NormanWatt-Roy)に出会う。 |
| ブロックヘッズへの参加は一時的なものであったため、アルバム1枚でブロックヘッズを脱退したウィルコは、ブロックヘッズのバッキングによるシングル「OhLonsomeMe」、ソロ名義でのアルバム『アイス・オン・ザ・モーターウェイ(IceontheMotorway)』、ミニ・アルバム『プル・ザ・カヴァー(PulltheCover)』を発表するが、どれも商業的成功には恵まれなかった。 |
| その後、ウィルコはルー・ルイス(LewLewis)とのジョイントツアーを行ったり、ラッセル・ストラッター(RussellStrutter)をベーシストに、ドラマーは入れ代わり立ち代わりの状態でミュージック・パブ(小規模のライブハウス)でのギグを中心に活動していたが、音楽業界を去ることも考えていたという。 |
| 入れ代わり立ち代わりしていたドラマーがイタリア出身のサヴことサルバトーレ・ラムンド(SalvatoreRamundo)に落ち着きかけていた頃、ベースのラッセル・ストラッターにエディー・アンド・ザ・ホット・ロッズ(Eddie&theHotRods)への参加の話が持ち上がる。 |
| 誠実にウィルコに相談したラッセルに対し、ウィルコは将来性のない自分といるよりホット・ロッズに参加したほうが彼のためになるだろう、という言葉で彼を送り出したという。 |
| ベーシストを失ったウィルコには、まだ数回ギグの予定が残っていた。 |
| その残りのギグを終わらせるためには臨時のベーシストが必要だった。 |
| そこでウィルコが電話をかけた相手がノーマン・ワット・ロイだった。 |
| ブロックヘッズが活動休止状態にあったため、スタジオ・ミュージシャンとして食いつないでいたノーマンは二つ返事でウィルコの話に乗り、簡単なリハーサルを行った後、残り数回のギグを終わらせるためだけのつもりで1985年2月、ウィルコ、ノーマン、サヴの3人でロンドンのハーフムーン・パットニーのステージに立った。 |
| 後に日本で毎年熱烈な歓迎を受けることになるウィルコ・ジョンソン・バンドの誕生である。 |
| 自分達がやったことの記録を残しておくつもりで、ギグを簡単な機材で録音した音源は、ミニ・アルバム『ウォッチ・アウト(WatchOut!WilkoJohnsonLiveinLondon)』として発売された。 |
| 商業的な成功には至らなかったものの、各業界誌紙は「最も危険なギタリスト」と絶賛し、出演依頼の電話が殺到した。 |
| 以来、バンドは週3~5回というハイペースでギグをこなしてゆくことになる。 |
| その1985年秋、彼らのギグを観たスマッシュ(現在はフジ・ロック・フェスティバルの主催で知られるプロモーター)の日高正博社長(OBE)の招聘で、ウィルコは初めて日本の地を踏むことになる。 |
| 以来、毎年のように来日し、会場の規模も大きくなり、ウィルコ、ノーマン、サヴの不動の3人トリオとなったウィルコ・ジョンソン・バンドは本国よりも日本での人気を誇るようになる。 |
| アルバムも日本でのライブ盤を含む5枚をリリースし、クラブチッタ川崎でのライブを収録したビデオもリリースされた。 |
| 初来日時からの鮎川誠との交流も続き、鮎川誠のソロアルバム『ロンドン・セッション#1』『ロンドン・セッション#2』の2枚に全面参加、シーナ&ザ・ロケッツの『ROCKONBABY』へのゲスト参加などを経て1999年にはジョイント・ツアーも行っている。 |
| しかし、14年続いた不動の3人トリオは1999年5月、サヴが家庭の事情でバンドを脱退せざるを得なくなった時に終わりを告げる。 |
| 代わってジーザス&メリーチェインやブロックヘッズの2代目ドラマーとして知られるスティーブ・モンティ(SteveMonti)がドラマーの椅子に座ることになった。 |
| サヴの脱退後、一時的な精神不安定に陥っていたウィルコも、モンティの参加でリスタートを切り、2000年には敬愛するミック・グリーン率いるザ・パイレーツとのジョイント・ツアーを行い、2002年にはフジ・ロック・フェスティバルに出演、2003年にはtheemichellegunelephantのTrippin'ElephantRecordsからニュー・アルバム『レッド・ホット・ロッキン・ブルース(RedHotRockingBlues)』をリリースし、大規模な日本ツアーを行った。 |
| theemichellegunelephantの発言も手伝い、新たな若年層ファンも獲得しつつあったが、翌年、2004年のフジ・ロック・フェスティバル再出演も決定した矢先に人生最大の不幸がウィルコを襲うことになった。 |
| 2004年4月、恋人時代も含め40年間を共に過ごした最愛の妻、アイリーンが大腸癌に冒されていることを告げられる。 |
| 急遽、日帰りできないギグと海外公演を全てキャンセルし、ウィルコはアイリーンに付き添ったが、アイリーンは告知からわずか4ヵ月後の8月4日の早朝、ソールズベリーのホスピスで静かに息を引き取った。 |
| アイリーンの急逝後、わずか3ヶ月でウィルコは本国イギリスでの巡業に復帰し、2005年にはザ・ハムスターズ(TheHamsters)、ジョン・オトウェイ(JohnOtway)と共に「 |
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