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プロフィール
- ウォルト・ホイットマンとは
- 幼少年期
- 創作活動初期
- 『草の葉』
- 南北戦争
- 健康の悪化と死
- セクシュアリティ
- 影響
- 関連サイト
ウォルター・ホイットマン(WalterWhitman,1819年5月31日–1892年3月26日)はアメリカ合衆国の詩人、随筆家、ジャーナリスト、ヒューマニスト。超越主義から写実主義への過渡期を代表する人物の一人で、作品には両方の様相が取り込まれている。アメリカ文学において最も影響力の大きい作家の一人でもあり、しばしば「自由詩の父」と呼ばれる。発表当時の作品に対する評価は大きく割れ、特にその代表作の詩集『草の葉』は性的表現があからさまなところから「わいせつ」と評された。ニューヨーク州ロングアイランドに生まれ、ジャーナリスト、教師、公務員として働き、南北戦争に志願看護師として従事する傍ら、詩を出版する。活動初期には、禁酒 ...
幼少年期
| ウォルター・ホイットマンは1819年5月31日、ニューヨーク州ロングアイランド、ハンティントン、ウェスト・ヒルズにて、クエーカー教徒の両親、ウォルターとルイザ(LouisaVanVelsorWhitman)のもとに生まれた。 |
| 9人兄弟の2番目であったウォルターはMiller,17、父と区別するために、すぐに「ウォルト」という愛称をつけられたLoving,29。 |
| 父ウォルターは7人の息子のうち3人までにアメリカ合衆国の指導者の名前をつけている。 |
| すなわち、アンドリュー・ジャクソン、ジョージ・ワシントン、トマス・ジェファソンである。 |
| その他に、長男のジェシー(Jesse)、6か月で夭逝した男子、そして末男エドワードがいる。 |
| ウォルトが4歳の時、一家はウェスト・ヒルズからブルックリン区に移り、投資の失敗も一因となって住む家を転々としたLoving,30。 |
| ホイットマンは幼少期を、家庭の経済的困窮のために、全般的に落ち着かなく、不幸せな時代だったと回顧しているReynolds,24。 |
| そんな中にあった幸せな瞬間の一つが、1825年7月4日の独立記念祭で、ラファイエットに高く抱き上げられ、頬に接吻を受けた時であったと述べているReynolds,33–34。 |
| 11歳で正式な学校教育を終えLoving,32、家庭の経済事情から、仕事を始める。 |
| 初めは2人の弁護士の雑用係として、次いでロングアイランドの週刊紙『パトリオット』(''Patriot''、編集長はサミュエル・クレメンツ(SamuelE.Clements))の印刷見習工として働きReynolds,44、ここで印刷機や組版について学んだKaplan,74。 |
| 時には埋め草に「ほろっとくる小話」("sentimentalbits")を書いたこともあったかもしれないCallow,30。 |
| その後、クレメンツが2人の友人とともに、エリアス・ヒックスの死体を掘り返し、頭部の石膏型を作ろうとして騒動になるということが起きるCallow,29。 |
| この騒動の余波か、直後にクレメンツは『パトリオット』を去ったLoving,34。 |
創作活動初期
| その次の夏、ホイットマンはブルックリンの別の印刷職人、エラストゥス・ウォルシントン(ErastusWorthington)のもとで働くReynolds,45。 |
| 春に一家はウェスト・ヒルズに戻ったが、ウォルトはブルックリンに留まり、ホイッグ党系の有力週刊紙『ロングアイランド・スター』(''Long-IslandStar'')編集長のアルデン・スプーナー(AldenSpooner)の店で働き始めた。 |
| 『スター』にいる間に、ホイットマンは地元図書館に足繁く通い、街の弁論会に入り、劇場にも足を運ぶようになるCallow,32。 |
| そして、『ニューヨーク・ミラー』紙上に匿名で作品をいくつか発表するKaplan,79。 |
| 16歳を迎えた1835年5月、ホイットマンは『スター』を、そしてブルックリンを去りKaplan,77、ニューヨークにて植字工になるCallow,35。 |
| 職場がどこであったか思いだせないと、後年ホイットマンは語っているKaplan,81。 |
| その後も仕事を探したが、印刷出版業集積地域での大火事および1837年大恐慌に至る不況が重なり、難航したLoving,36。 |
| 1836年5月、ロングアイランド・ヘンプステッドに住んでいた家族のもとに戻るCallow,36。 |
| 1838年春まで、断続的に方々の学校で教鞭をとったが、教職には満足していなかったLoving,37。 |
| 教職をしばらく試した後、ニューヨーク・ハンティントンに戻り、自身の新聞『ロングアイランダー』(''Long-Islander'')を創刊する。 |
| ホイットマンは出版者、編集者、印刷工、販売、配達までをすべて自ら担った。 |
| 10ヶ月後、出版所をE.O.Crowellへ売り渡し、Crowellによる最初の号は1839年7月12日に出版されたReynolds,60。 |
| ホイットマンが出版した『ロングアイランダー』は一部も残っていないLoving,38。 |
| 1839年夏、ホイットマンはジャマイカ地区の『ロングアイランド・デモクラット』(''LongIslandDemocrat''、編集長JamesJ.Brenton)の植字工となるが、すぐにこの職を去り、1840年冬から41年春にかけて再び教壇に立ち、その後5月にはニューヨークへ移ったKaplan,93–94。 |
| ニューヨークでは主に『ニューワールド』紙にて、詩人でジャーナリストのパーク・ベンジャミン・シニアや批評家ルーファス・ウィルモット・グリスウォルドのもとで下働きをしたCallow,56。 |
| その後1940年代は、ブルックリン・イーグル紙で2年間編集に携わるなどさまざまな新聞社を転々としつつ、散文や詩をフリーランスで発表しつづけたReynolds,83–84。 |
『草の葉』
| ファイル:Whitman-leavesofgrass.gif|left|thumb|ウォルト・ホイットマン、37歳。 |
| 『草の葉』、FultonSt.,Brooklyn,N.Y.の口絵。 |
| ガブリエル・ハリソンによるダゲレオタイプ(原本逸失)を基とするサミュエル・ホルヤーによる鉄版画。 |
| ホイットマン自身の言によれば、何年ものあいだ「普通の報酬」("theusualrewards")のために働いた後、彼はついに詩人になることを決意したKaplan,185。 |
| 当初は、当時の文学趣味に合わせたさまざまな大衆的文学のジャンルを試していたReynolds,85。 |
| 詩集『草の葉』の原型となる作品は、すでに1850年に着手しておりLoving,154、生涯、手を加えつづけることとなるMiller,55。 |
| ホイットマンが書こうとしたのは、真にアメリカ的な叙事詩でありMiller,155、聖書の韻律を利用した自由詩の形式を用いたKaplan,187。 |
| 1855年6月末、ホイットマンは『草の葉』の初版を見せて兄弟を驚かせた。 |
| 弟ジョージは「読むに値しないと考えた」Callow,226."didn'tthinkitworthreading"。 |
| ホイットマンは『草の葉』初版を自費で刊行し、地元のとある印刷所にて商売の合間に印刷してもらいLoving,178、795部を刷ったKaplan,198。 |
| 初版では題名のない12編の詩を収めたわずか95ページの小冊子であった。 |
| 作者名は記されていなかったが、代わりにサミュエル・ホルヤー(SamuelHollyer)によるホイットマンを描いた版画が口絵に掲載されていたCallow,227。 |
| 『草の葉』はラルフ・ワルド・エマーソンから高い評価を受け、エマーソンはホイットマンに5ページに及ぶ称賛の手紙を書き、また友人たちの間でも絶賛したKaplan,203。 |
| このエマーソンの評価のおかげもあってCallow,232、『草の葉』初版は広い範囲で読まれ、相当の関心を獲得したがReynolds,340、同時にその「わいせつ」性についての批判も一部から受けたLoving,414。 |
| 地質学者ジョン・ピーター・レスリーはエマーソンに書いた手紙の中で、『草の葉』は「くずで、卑俗、わいせつ」("trashy,profane&obscene")で、著者は「もったいぶったばか」("apretentiousass")だと記しているKaplan,211。 |
| 1855年7月11日、『草の葉』刊行の数日後、ホイットマンの父は65歳でこの世を去ったKaplan,229。 |
| 『草の葉』は、初版刊行後からの数か月の間に、性的に不適切な側面への注目が強まった。 |
| このことから、すでに印刷、製本されていた第二版の売り出しを、出版者が拒否する寸前にまで至ったがReynolds,348、最終的には、20篇の詩を新たに追加した第二版が1856年8月に発売されたCallow,238Kaplan,207。 |
| 1860年Loving,238、次いで1867年に改訂、再版を重ね、ホイットマンの生涯を通じて更に数度の改訂が行われた。 |
| アモス・ブロンソン・オルコットやヘンリー・デイヴィッド・ソローなど幾人かの著名な作家は、わざわざホイットマンを訪ねるほどこの作品を評価したReynolds,363。 |
| 『草の葉』の最初の数版の刊行の時期、ホイットマンは経済的に困難な状況に陥り、再びジャーナリストとして働かざるを得なくなった。 |
| 1857年5月からは、ブルックリンの『デイリー・タイムズ』(''DailyTimes'')に勤務しCallow,225、編集者として紙面を監修、書評、社説を執筆したReynolds,368。 |
| 1859年には職場を去ったが、これが解雇によるものかホイットマン自身の選択であったかは不明であるLoving,228。 |
| ホイットマンは日々の記録や日誌をこまめに記すほうであったが、1950年代後半は自身についてはほとんど書き残していないReynolds,375。 |
南北戦争
| ファイル:WaltWhitman-Brady-Handy.jpg|thumb|ウォルト・ホイットマン、1860年頃。 |
| 南北戦争開戦の頃、ホイットマンは北軍を鼓舞する愛国的な詩「叩け!叩け!太鼓を!」"Beat!Beat!Drums!")を発表したCallow,283。 |
| ホイットマンの弟ジョージはユニオン(北部諸州)軍に入り、ウォルトに最前線の生々しい様子を詳しく記した手紙を送ってきていたReynolds,410。 |
| 1862年12月16日、『ニューヨーク・トリビューン』紙に掲載された戦死者・戦傷者名簿中に「G・W・ホイットモア中尉」("FirstLieutenantG.W.Whitmore")の名を見たホイットマンは、それが弟ジョージではないかと思いKaplan,268、即座に南部へ向かったReynolds,411。 |
| 途中で財布を盗まれ、「馬車に乗ることができず、昼も夜も歩き続け、情報を得ようと、高い地位にある人に会おうと」したと、後にホイットマンは記しているCallow,286.原文:"Walkingalldayandnight,unabletoride,tryingtogetinformation,tryingtogetaccesstobigpeople"。 |
| やがて頬に軽い傷を負っただけで無事であったジョージに会うことができたが、傷ついた兵士たちの姿や、積み上げられた兵士たちの切断された手足の光景に強く衝撃を受けたホイットマンは、二度とニューヨークには戻らない覚悟で1862年12月28日、ワシントンD.C.へ向けて出発した。 |
| ワシントンD.C.では、友人のチャーリー・エルドリッジのつてで陸軍主計官の事務局で時間給の仕事を得、空いた時間は陸軍病院で志願看護師として働いたCallow,293。 |
| ここでの経験は、1863年、ニューヨークのとある新聞に発表した「偉大なる病人軍」("TheGreatArmyoftheSick")Kaplan,273および、12年後に発表した書籍『戦争の思いで』(''MemorandaDuringtheWar'')Callow,297にまとめられている。 |
| 当時、彼はエマーソンを頼って、政府での職を得ようとしている。 |
| エマーソンは、友人ジョン・トローブリッジを介して、財務省長官サーモン・チェイスへ推薦状を送り財務省での職の斡旋を依頼したが、チェイスの返答は『草の葉』のようないかがわしい本の著者は雇いたくないというものであったCallow,295。 |
| 11月30日には弟ジョージがヴァージニアでアメリカ連合国軍に捕らえられLoving,281、12月3日には別の弟アンドリュー・ジャクソンが結核とアルコール依存症により死亡したKaplan,293–294。 |
| 詩人であり、ダゲレオタイピスト、また『サタデー・イブニング・ポスト』編集者であったオコーナーが、ホイットマンのために内務副長官のウィリアム・トッド・オットーに手紙を書いてくれたのであったLoving,283。 |
| ホイットマンは1865年1月24日に勤務を開始し、1200ドルの年俸を得ることとなったReynolds,455。 |
| 新しく内務長官に就任した、前アイオワ州代表上院議員のジェームス・ハーランによる解雇であった。 |
| ハーランの解雇は「ほとんど自分の机に座っていない」何人かの職員に対してのものであったが、ホイットマンに関しては、『草の葉』1860年版を目にしたハーランが道徳的観点から解雇に及んだ可能性もあるLoving,291。 |
| エイブラハム・リンカーンに捧げられ、ホイットマンとしては伝統的な形式で書かれたこの詩は、ホイットマンの生前にアンソロジーに収められた唯一の作品であるKaplan,309。 |
| 後にホイットマンは、「中にはほんとうに面白い人々がいる」「ぼくが変わったものが大好きなのは知っているだろう」と記しているLoving,293.原文:"Therearerealcharactersamongthem","andyouknowIhaveafancyforanythingoutoftheordinary."。 |
| 1866年8月、『草の葉』の新しい版の準備のため1か月の休暇をとったが、出版元探しが難航し、出版は1867年にずれこんだKaplan,318–319。 |
| 1868年2月、ウィリアム・マイケル・ロセッティの力により、イギリスで『ウォルト・ホイットマン詩集』(''PoemsofWaltWhitman'')が刊行されたCallow,326。 |
健康の悪化と死
| ニュージャージー州カムデンに移り、弟ジョージのもとに家賃と食費を払って滞在した後、1884年にはミクル通りに自宅を購入したHaas,Irvin.''HistoricHomesofAmericanAuthors''.Washington,DC:ThePreservationPress,1991:141.ISBN0-89133-180-8.。 |
| メリーは彼女とともに猫と犬を各1匹、2羽のコキジバト、1羽のカナリアなど多数の動物を連れてきたReynolds,548。 |
| 死を目前にして、ホイットマンは家形の花崗岩製霊廟を4000ドルで注文しLoving,479、建設中の現場をたびたび訪れたKaplan,49。 |
| 公式記録における死因は「左側肋膜炎、右肺の消耗、一般的な粟粒結核および柔組織腎炎」であったReynolds,588.原文:"pleurisyoftheleftside,consumptionoftherightlung,generalmiliarytuberculosisandparenchymatousnephritis."。 |
セクシュアリティ
| 1924年、老境に入ったエドワード・カーペンターは、若き頃のホイットマンとのエロティックな出会いを、ガヴィン・アーサーに語り、アーサーがこれを自身の日記に詳細に記しているKantrowitz,Arnie." |
影響
| モダニスト詩人のエズラ・パウンドはホイットマンを「アメリカの詩人……彼''が''アメリカだ」と呼んでいるPound,Ezra."WaltWhitman",''Whitman'',RoyHarveyPearce,ed.EnglewoodCliffs,NJ:Prentice-Hall,Inc.,1962:8.原文:"America'spoet...He''is''America."。 |
| ホイットマンの放浪的な生活様式は、1950年代から60年代のビート・ジェネレーションおよびその指導的立場にあったアレン・ギンズバーグやジャック・ケルアックなどの作家たち、またアドリエンヌ・リッチやゲーリー・スナイダーなどの反戦詩人たちに受け継がれたLoving,181。 |
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1819年
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ニューヨーク州ロングアイランド、ハンティン... |
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1835年
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ホイットマンは『スター』を、そしてブルック... |
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