| バフェットは1930年にネブラスカ州オマハで証券業を営むハワード・バフェットとレイラ・バフェットとの間に生まれた。 |
| バフェットは幼い頃からビジネスを始めていた。 |
| 例えば祖父からコーラを6本25セントで購入し、それを1本5セントで売ったり、ワシントン・ポストの配達のアルバイト、ゴルフ場のボール拾い、競馬の予想新聞売りなどを行っていたジャネット・ロウ(1999)125頁。 |
| バフェットは11歳の時に初めて株式を購入した。 |
| 姉のドリスと共にシティ・サービスの優先株を1株38ドルで3株購入したのだが、その後、1株27ドルまで下落した。 |
| バフェット達は1株40ドルまで値を戻したところで売却したが、シティ・サービス株は長期的に上昇し続け200ドルになった。 |
| この経験からバフェットは忍耐を学んだと後に述懐しているジャネット・ロウ(1999)124頁。 |
| 1942年に父親が下院議員に当選したためワシントンD.C.に引っ越したが、当時12歳のバフェットは新しい生活になじめず、祖父の家からオマハの学校に中学2年まで通うことになったジャネット・ロウ(1999)155-157頁。 |
| 1943年には自転車を仕事の経費として控除し13歳で初めて所得税を申告した。 |
| 中学では飛び級をしたが、一つ上の友達とうまくなじめなかった。 |
| また成績は芳しくなかったが、新聞配達は継続していた。 |
| 中学を卒業したバフェットはワシントンD.C.に戻り、高校に進学した。 |
| 高校3年のときに友人と中古のピンボール1台を25ドルで購入し、それを理容店に置くという商売を始めた。 |
| この商売は成功し、最終的には週50ドルの利益を稼ぎ出すまでになったジャネット・ロウ(1999)125-126頁。 |
| その後、この事業を退役軍人に1200ドルで売却した。 |
| 1947年にペンシルベニア大学ウォートン・スクールファイナンス学科に入学したが中退し、ネブラスカ大学リンカーン校に編入した。 |
| ネブラスカ大学を卒業後、ハーバード大学ビジネス・スクールに入学しようとしたが断られた。 |
| コロンビア大学で著名な証券アナリストであり、『賢明なる投資家』の著者のベンジャミン・グレアムとデイビッド・ドッドが教職についていることを知ったバフェットはコロンビア大学のビジネススクールに進学し、投資について学んだ。 |
| グレアムが保険会社GEICOの重役であることを知ったバフェットは、電車に乗ってワシントンD.C.のGEICO本社へ向かった。 |
| 門前払いをされそうになったが、中に入れてくれるまでドアを叩き続けたという。 |
| そこでバフェットは当時の副社長、そして後の友人であり、影響を受けたLorimerDavidsonに会ったRogerLowenstein.''Buffett:TheMakingofanAmericanCapitalist.''p.43.。 |
| 1951年に大学院で修士号を取得後、ウォール街で働こうとするが父とグレアムに反対された。 |
| バフェットはグレアムの下でただでもいいから働きたいと懇願するが、ユダヤ人のための雇用を確保しておきたいというグレアムの事情により断られた。 |
| グレアムはユダヤ人で、当時はユダヤ人の就職が困難という社会的な事情がその背景にはあった。 |
| バフェットは故郷オマハに帰り、株式ブローカーとして父の証券会社で働いた。 |
| テキサコガソリンスタンドに資産の20%を投資したが、後に失敗した投資の1つとして語っているジャネット・ロウ(1999)86頁、179頁。 |
| 学んだ知識を使いネブラスカ大学夜間クラスで平均年齢が彼の2倍以上の受講生に"投資原理"を教えた。 |
| この頃にスーザン・トンプソンとデートをするようになる。 |
| 1952年にスーザン・トンプソンと結婚し、婚約時には資産の6%の価値の婚約指輪を贈った。 |
| 後にビル・ゲイツがバークシャーの子会社の宝石店ボーシャイムに指輪を買いに来たときに例に用いて諭しているジャネット・ロウ(1999)190頁。 |
| 1953年に長女スーザン・アリスをもうけ、翌年には2人目の子供ハワードが生まれた。 |