| バーや労働者のストライキの時の組合の集会などにかかわって小金を稼いだ。 |
| 19歳のときにテキサスへ行ったが、そこで彼は最初の妻メアリー・ジェニングスと出会って結婚し、3人の子供たちをもうける。 |
| しかし彼は、ダストボウル時代の到来とともに、カリフォルニアに移住するオクラホマ州人のオーキー(季節労働者)の後に従って、テキサスに彼の家族を残して旅立った。 |
| これらの若い時期の旅行で見た貧困はのちの彼の作品に大いに影響を与え、彼の歌の多くが労働者階級が直面する状態に取材している。 |
| ガスリーは生涯の社会主義者かつ労働組合活動家であり、デイリー・ワーカー紙、人民世界紙に常設コラム「ウディ・セズ」を執筆した。 |
| 1930年代中頃に、ガスリーはラジオパートナーであったマクシーン・「左利きのルー」・クリスマンと共に、商業ベースの「ヒルビリー」音楽と伝統的なフォークミュージックの放送演者としてロサンゼルスおよびカリフォルニアにおいて名声を得た。 |
| ポピュリスト志向のニューディール民主党員によって所有されていた商業的ラジオ放送局KFVDに出演する一方で、ガスリーは、後にダストボールバラードにまで昇華することになる若干のプロテストソングを書き演奏し始めた。 |
| 1935年から1937年まで、カリフォルニアでフォークソングや反体制ソングなどでラジオの人気歌手となり、1939年から1940年にかけてニューヨークに移り住み、左翼とフォークミュージック界に受け入れられた。 |
| また彼は彼の最初であろう本物のレコーディングを行った。 |
| これは数時間の会話と歌、およびアルバム、ダストボールバラードから成るもので、アメリカ議会図書館に勤務する音楽学者アラン・ロマックスが録音し、ニュージャージー州カムデンのビクター・レコードに収められた。 |
| 彼は自叙伝「BoundforGlory」邦訳は中村稔・吉田廸子訳『ギターをとって弦をはれ』、晶文社、1975年を書き始め、1943年に完成し出版された。 |
| 1940年にガスリーは彼の最も有名な歌「我が祖国」Thislandisyourland) を書いたが、これは、一部は彼の放浪中の経験、また一部はアーヴィング・バーリンの歌「神よアメリカを祝福したまえ」GodblessAmerica)に対する反発によってインスパイアされたものである。 |
| ガスリーはベルリンの歌が非現実的で自己満足的であると嫌悪し、ケイト・スミスがラジオでそれを歌うのを聞くことがもう嫌であった。 |
| このメロディーは、1930年頃にカントリー/ブルーグラスのグループ、ザ・カーター・ファミリーによって歌われ最もよく知られたゴスペル「世界が燃える時」に基づいていた。 |
| ガスリーは最後の節で階級の不平等を敢然と主張した、彼の反資本主義感が丸出しであるが、この節は後のレコーディングに省かれていることが多い。 |
| ガスリー自身も時々省いていたようである。 |
| 1941年5月にガスリーは、内務省とボネビル電力管理局から、コロンビア川および連邦ダムの建物に関する歌を書くことを委嘱された。 |
| このうち最も知られているのは、「ロールオン・コロンビア」と「グランド・クーリー・ダム」である。 |
| 1941年ピート・シーガーやその他の人たちと共に「オルマナック・シンガーズ」(AlmanacSingers)を立ち上げる。 |
| ガスリーは元来オルマナック・シンガーズと一緒に反戦の歌を書き歌ったが、結局は彼らは、彼らが関係した共産主義的な周辺人物とともに、反ファシスト運動に参加した。 |
| ガスリーは彼のギターに有名なスローガン「この機械はファシストを死なせる」と書いた。 |
| 彼は米国の商船隊に加入し、そこで仲間のフォークシンガー、シスコ・ヒューストンと共に兵役についた。 |
| その後米国の陸軍にも入った。 |
| 1944年にガスリーは、フォークウェイズ・レコードのモーゼス・"モー"・アッシュに出会い、続く数年間はそこで「我が祖国」を始めとする何百もの作品を録音した。 |
| 彼は1942年にマージョリー・マツィアに求婚し始め、そして1945年に陸軍の賜暇の間に彼女と結婚した。 |
| 彼らはコニーアイランドのマーメイド通りの家に引っ越して4人の子供たちと住んだ。 |
| 4人の子供のうちの一人キャシーは4歳で火災で死んだが、このことは彼の重度のうつ病の原因になった。 |
| ガスリーの息子のアーロ・ガスリーは彼自身が有名なシンガーソングライターになった。 |
| この期間に、ガスリーは童謡のコレクション「母と子のための好きになる歌」を書き録音した。 |
| これらにはアーロが9歳の時に書かれた歌「おやすみなさいリトルアーロ(おやすみなさいリトルダーリン)」を含む。 |
| 同時に、ガスリーはまだ時事問題の歌を書いていた。 |
| 1948年のカリフォルニア州オークランドからメキシコに追放される28人のメキシコ人農場労働者を運んでいる飛行機の墜落事故は、詩「追われ人(ロスガトスの飛行機事故)」をインスパイアした。 |
| この詩は10年後にマーティン・ホフマンによって曲がつけられ、この歌はそれ以来ピート・シーガー、ボブ・ディラン、ザ・バード、ドリー・パートンおよびウディーの息子のアーロ・ガスリーのような奏者によってカバーされた。 |
| 同時期に、やはり移民の出稼ぎ労働者の闘争に共鳴して「実りの牧場」が書かれた。 |
| 1940年代後半にはガスリーの健康は悪化しはじめた。 |
| そしてハンチントン病の徴候を示して、彼の行動は非常に不規則になった。 |
| 彼は彼の家族を置き残し、ランブリン・ジャック・エリオットと一緒にカリフォルニアに旅行して、そこで3回目の結婚をしてもう1人の子供をもうけた後、最終的にニューヨークに戻った。 |
| 彼はアルコール依存症と統合失調症を含む種々の病気と誤診の繰り返しののち、1954年についにハンチントン病(Huntington'sDisease)と診断される。 |
| ハンチントン病は遺伝性の神経障害であり、ガスリーには母方の家系から遺伝されたものと思われる。 |
| 病状は途中好転した時期もあるが、入退院を繰り返し、1967年10月3日クイーンズのクリードムーア精神病院で亡くなった。 |
| ガスリーは3回結婚しており、その妻との間に何人かの子どもがいるが、その1人は幼少期に悲劇的な死に見舞われている。 |
| 子どもたちの中でも比較的知られているのは、やはり歌手としてのキャリアをなしたアーロで、1947年の生まれである。 |