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プロフィール
- エズラ・パウンドとは
- 青年期までのパウンドと同時代人
- ロンドンでの転換
- パリ
- イタリア
- セント・エリザベス
- イタリアへの帰還
- 影響
- 著作(日本語訳)
- 参考文献
- 伝記研究の日本語文献
- 関連人物
- 関連サイト
エズラ・ウェストン・ルーミス・パウンド(EzraWestonLoomisPound、1885年10月30日-1972年11月1日)は、詩人、音楽家、批評家であり、 T・S・エリオットと並んで、20世紀初頭の詩におけるモダニズム運動の中心的人物の一人だった。彼は、幾つかのモダニズム運動、特に、イマジズム()及びヴォーティシズムを推進した原動力であり、批評家ヒュー・ケナー()は、パウンドと会った時のことを語って、「私は、私がモダニズムの中心を目の前にしていることを、突如として了解した」と言っている。
青年期までのパウンドと同時代人
| パウンドは、アメリカ合衆国アイダホ州ヘイリー(Hailey)で生まれた。 |
| 15歳の時、ペンシルベニア大学に入学し、2年間在籍した後にハミルトン・カレッジに移った。 |
| そこで彼は哲学博士号を19歳の時に取得し、すぐにペンシルベニア大学に戻って翌年にはロマンス言語学の学位を取得した。 |
| この間、彼は、著名な二人の詩人ウイリアム・カーロス・ウイリアムズ(WilliamCarlosWilliams)及び、H.D.として知られているヒルダ・ドゥーリトル(HildaDoolittle)と出会って交友を結んだ。 |
| 特に、ヒルダとは一時期婚約していた。 |
| パウンドは、一年足らずウォバッシュ・カレッジ(WabashCollege)で教鞭を執った後、或る一寸した不祥事(女性関係)が元でカレッジを去った。 |
| 1908年、22歳の時彼はヨーロッパに渡ってヴェネツィアに数ヶ月滞在した後、ロンドンに居を定めた。 |
ロンドンでの転換
| 200px|thumb|ヴォーティシストの雑誌''w:en:BLAST(journal)|ブラスト''の1915年戦時号の表紙。 |
| 初期のパウンドの詩は、ラファエル前派等の19世紀詩や、中世のロマンス文学の他、多くの新ロマン主義的・オカルト/神秘主義的哲学を読んだことが刺激となって書かれている。 |
| ロンドンに移住した頃、パウンドは、フォード・マードックス・フォード(FordMadoxFord)及びT.E.ヒューム(T.E.Hulme)の影響下に、詩人としての自分を作り直そうとする試みの中で、詩におけるあからさまに古代的な言い回しや形式を放棄し始めた。 |
| パウンドは、W.B.イェイツのことを、存命の詩人の内では最も偉大だと信じていて、イギリスに来てから彼と交友を結ぶようになり、遂には、このアイルランド詩人の秘書として雇われることになった。 |
| パウンドは、イェイツのオカルト的な信条にも興味を持った。 |
| パウンドとイェイツの二人は、互いに、それぞれの詩作をモダニズム的にするのを助け合った。 |
| 大戦中、パウンドとイェイツとは、イギリス、サセックスのストーン・コテッジ(StoneCottage)で共に暮しながら、日本文学、特に能を研究した。 |
| パウンドは、1914年に、芸術家のドロシー・シェイクスピア(DorothyShakespear)と結婚した。 |
| 第一次世界大戦以前にあって、パウンドは、イマジズム(Imagism)及びヴォーティシズムの登場を引き起こした主要人物だった。 |
| これら二つの運動は、ジェームズ・ジョイス、ウィンダム・ルイス(WyndhamLewis)、ウイリアム・カーロス・ウイリアムズ(WilliamCarlosWilliams)、ヒルダ・ドゥーリトル(HildaDoolittle)、リチャード・オールディントン(RichardAldington)、マリアンヌ・ムーア(MarianneMoore)、レベッカ・ウエスト(RebeccaWest)、アンリ・ゴーディエ=ブルゼスカ(HenriGaudier-Brzeska)等の詩人・芸術家の作品が注目される一助となったものだが、英語でのモダニズム誕生における中心的な出来事と看做しうるだろう。 |
| パウンドは、また、彼の友人エリオットが創作し、新しい詩的感性に一般の注意を向けさせることになった詩作品である『荒地』(TheWasteLand)の編集も行った。 |
| しかし、戦争は、パウンドの近代西洋文明への信頼を打ち砕いた。 |
| 彼は、戦後、『セクストゥス・プロペルティウスへの敬意。 |
| (HomagetoSextusPropertius)』(1919年)及び『ヒュー・セルウィン・モーバリー(HughSelwynMauberley)』(1920年)を出版すると、ロンドンを立ち去った。 |
| これらの詩作品が、併せてパウンドのロンドンでの活躍に対する別れの挨拶であるとしたら、1915年からパウンドが作り始めた『キャントウズ』(TheCantos)は、彼の行く末を指し示すものだった。 |
パリ
| 1920年、パウンドは、フランスのパリに移り住んだが、そこで彼は、現代芸術全体に革命を起こしつつあった芸術家・音楽家・作家のサークルの中で活動した。 |
| 彼は、引き続き『キャントウズ』の詩作に取り組んでいたが、そこには彼の政治及び経済学への没頭が、段々と色濃く反映されて行くようになっていった。 |
| また並行して、批評的散文による著作、翻訳、2つのオペラ全曲(これにはジョージ・アンタイルの助けを借りた)及び幾つかヴァイオリン・ソロ曲の作曲を行った。 |
| 1922年、パウンドは、ヴァイオリニストのオルガ・ラッジ(OlgaRudge)と交渉を持つようになった。 |
| 彼らと、ドロシー・シェイクスピアとの3人は、パウンドの死に至るまで、不安定なmenageatrois(夫・妻・愛人3人の家庭)関係を続けたのだった。 |
イタリア
| 1920年代中頃、パウンドはラパロに移り住んだが、そこでも創作活動に対する触媒であり続けた。 |
| 若き彫刻家ハインツ・ヘンゲス(HeinzHenghes)が一文なしでパウンドの許を訪れた際には、住むべき所と彫刻用の大理石を提供してもらって、急速に石彫の方法を身に付けていったのだった。 |
| 詩人のジェームズ・ロクリン(JamesLaughlin)も、この時に刺激を受けて、多くの著作者に発表手段を与えることになる出版社「ニュー・ディレクションズ」(NewDirections)を発足することになる。 |
| この時代、パウンドは、イタリアのラパッロ(Rapallo)で、広い範囲に渡ってクラシック音楽・現代音楽が演奏されるコンサートを毎年組織していた。 |
| 特に、この音楽活動が、死後忘却されていたヴィヴァルディに対する関心が20世紀になって復活することに役立った。 |
| イタリアにおいて、パウンドはムッソリーニの熱狂的支持者となり、反ユダヤ主義的感情が、彼の著作の中に見えはじめる。 |
| パウンドは、第二次世界大戦勃発後もイタリアに留まり、戦争にアメリカが参加することに反対し、それを阻止するために、ワシントンD.C.内への政治的縁故を利用しようとした。 |
| パウンドは、イタリアのラジオ放送に出演し、文化的な話題に就いて一連の発言を行った。 |
| 成り行き上、彼は政治的な問題にも触れたが、それにより、彼がこの戦争に反対していることと、彼の反ユダヤ主義とがあらわになる場合があった。 |
| 「反ユダヤ主義的」は"anti-Semitic"の訳語。 |
| 「セム語派民族」と「ユダヤ民族」とは同義ではないが、実際には、"anti-Semitic"は「反ユダヤ主義的」の含意で使われている。 |
| 戦争終結が近い頃、パウンドはパリ郊外のアメリカ合衆国陸軍拘留キャンプに投獄され、25日間にわたり開放獄舎に留置された後、テントを与えられた。 |
| ここで、パウンドは、精神衰弱であったと看做された。 |
| 彼は、また、このキャンプで、『ピザン・キャントウズ』(PisanCantos)の草稿を書いた。 |
| 進行中だった作品の、この部分は、パウンドの業績における転換点になっており、彼自身及びヨーロッパの崩壊と、自然の世界における彼の居場所とに就いての省察を加えていて、英語で書かれた最初の生態学的詩作品に属すると考えられている。 |
| 『ピザン・キャントウズ』は、1948年に、アメリカ議会図書館から最初のボーリンゲン賞(BollingenPrize)を受賞した。 |
| 「開放獄舎」は、"opencage"の訳語。 |
| 屋外に置かれていたらしいが、確認が取れていない。 |
セント・エリザベス
| 戦後、パウンドは、アメリカに送還され、反逆罪による告発を受けた。 |
| 彼は、精神障害を理由にして裁判を受けるのに適さないとされて、ワシントンD.C.のセント・エリザベス病院St.ElizabethsHospital)に収容させられた。 |
| 彼は、1946年から1958年までの12年間を、この病院で過ごした。 |
| パウンドは、気まぐれで派手好きな人物であり、それは、控えめに言っても、精神医学用語の「観念及び信念の誇大化」に至る態のものだった。 |
| パウンドに対する精神障害の診断は、彼を裁判無しに効果的に拘留するための国家による迫害の一例だったと広く信じられている。 |
| これと対照的に、著名な精神科医E.フラー・トーリーE.FullerTorrey)は、このムッソリーニの伝道者がセント・エリザベス病院の監督医ウィンフレッド・オーヴァーホルサーWinfredOverholser)により厚遇されていたと確信していた。 |
| オーヴァーホルサーは、パウンドの詩を賞賛していて、パウンドが病院内の個室で暮らすことを許したが、そこでパウンドは、3冊の著作を書き、有名な文学者の訪問を受け、妻や何人かの愛人と夫婦として過ごすことを許されていた(トーリーは、オーヴァーホルサーとパウンドとの関係を、1981年の『今日の心理学』と、その後の『反逆のルーツ』とで暴露している)。 |
| セント・エリザベスにおいて、パウンドは、詩人その他の崇拝者に囲まれ、『キャントウズ』の創作、儒教古典の翻訳を続けた。 |
| パウンドを頻繁に訪れた詩人・芸術家の多くは、彼を最も頻繁に訪れる人々の中には、白人至上主義団体「全国州権党」(NationalStatesRightsParty)の当時の議長が含まれており、彼とパウンドとが、アメリカ南部における人種差別維持への公的支援を結集する最善の戦術・戦略を議論していたものだったことに気づいていたらゾッとしていたことだろう。 |
| パウンドは、彼の友人である多くの詩人・芸術家たち(特にロバート・フロスト)が協調した活動を行った後に、遂に釈放された。 |
| パウンドは、治癒不能な精神障害に陥ったままだが、周囲に対しては危害を加えないと判断されたのだった。 |
イタリアへの帰還
| 釈放後パウンドは、イタリアに戻り、著作活動を続けたが、以前持っていた(創作意欲につながる)確信は失われていた。 |
| 『キャントウズ』創作は続いていたが、彼には、それが芸術上は失敗だったと評価していた節がある。 |
| 彼は、また過去における自分の行動を悔やんでもいたらしく、1967年の、アレン・ギンズバーグとのインタビューにおいて、パウンドは、「反ユダヤ主義と云う愚かでセセこましい偏見」に就いて謝罪している。 |
| 1972年、ヴェネツィアで87歳の誕生日の二日後にその生涯を閉じた。 |
| 墓地はサン・ミケーレ島に在る。 |
影響
| パウンドは、その政治的見解、特にムッソリーニへの支持と反ユダヤ主義によって、多くの批判を受け続けてきた。 |
| しかしながら、彼が20世紀における英文学におけるモダニズム革命で演じた死活的な役割を無視する訳にはいかない。 |
| 詩人としてのパウンドは、長文での自由韻律(“w:en:freeverse”も参照)の採用に最初に成功したうちの一人である。 |
| 彼のイマジズム詩は、特にオブジェクティズム詩人(Objectivists)に影響を与え、また『キャントウズ』は、ギンズバーグなどのビート・ジェネレーションの詩人(Beatpoets)にとって基準となった。 |
| 20世紀初頭以降の殆ど全ての「実験的」詩作品は、彼の恩恵を被っている。 |
| 編集者、仕掛け人としてのパウンドは、イェイツ、エリオット、ジョイス、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、ヒルダ・ドゥリトル、マリアン・ムーア、アーネスト・ヘミングウェイ、D・H・ローレンス、ルイ・ズコフスキー(LouisZukofsky)、バジル・バンティング(BasilBunting)、ジョージ・オッペン(GeorgeOppen)、チャールズ・オルスン(CharlesOlson)、その他の数え切れないほどのモダニズム作家、そしてウェルター・サヴェジ・ランドール(WalterSavageLandor)及びゲィヴィン・ダグラス(GavinDouglas)等の忘れられている初期作家の活躍を助けた。 |
| 翻訳者としてのパウンドは、その言語習熟度は疑問なのだが、プロヴァンス詩、漢詩、能、そして儒教の古典を、近代西洋の読者に紹介するのに力を尽した。 |
| また、彼は、ギリシャ・ラテンの古典を翻訳、擁護し、それらが、古典教育が衰退した時代における詩人に取り命脈を保つのを助けた。 |
| 「漢詩」は、原英文では"Chinesepoetry"である。 |
| 「日本漢詩」と云う物もあるので、訳語として微妙だが、現在の文脈では、「漢詩」と訳すのが一番素直だろう。 |
| パウンドの一見奇矯な理論と政治的活動とを解く鍵は、近年、彼のオカルト及び神秘主義への興味にあるとする説も出てきているレオン・サレット(LeonSurette)による『モダニズムの誕生』(TheBirthofModernism)は、パウンドの思想でのこの側面への、恐らく最良の入門書である。 |
著作(日本語訳)
| 『エズラ・パウンド長詩集成』 城戸朱理訳編、思潮社2006年。 |
| 『ピサ詩篇』 新倉俊一訳 みすず書房 2004年。 |
| 『パウンド詩集』 城戸朱理訳編、<海外詩文庫11> 思潮社 1998年-新書版。 |
| 『エズラ・パウンド詩集』 新倉俊一編訳、<双書20世紀の詩人2>小沢書店 1993年。 |
| 旧版 『エズラ・パウンド詩集』 角川書店1976年。 |
| 『詩学入門』 沢崎順之助訳、冨山房百科文庫 1979年。 |
| 『大祓』、 『仮面』、 『消えた微光』 各小野正和、岩原康夫訳、書肆山田 。 |
参考文献
| カーペンター,ハンフリー(Carpenter,Humphrey)1988年''ASeriousCharacter:TheLifeofEzraPound.''ボストン:HoughtonMifflin.。 |
| ケナー,ヒュー(Kenner,Hugh)1973年。 |
| ロンジェンバッハ,ジェームズ(Longenbach,James)1991年''StoneCottage:Pound,YeatsandModernism.''ニューヨーク、オックスフォード:オックスフォード大学出版局。 |
| ストック,ノエル(Stock,Noel)1970年''LifeofEzraPound.''ロンドン:Routledge&KeganPaul。 |
関連人物
| ユースタス・マリンズパウンドの弟子。 |
| クリフォード・ヒュー・ダグラス(社会信用論を唱えた民間経済学者)。 |
| アーネスト・フェノロサ(その東洋詩文の英訳紹介が大いに影響を与えた)。 |
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22歳の時彼はヨーロッパに渡ってヴェネツィア... |
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1914年
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芸術家のドロシー・シェイクスピア () と結婚... |
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