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つながりの強いひと
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プロフィール
- エディ・メルクスとは
- 史上最強のロードレース選手、エディ・メルクス
- 経歴
- 人物
- エピソード
- 所属チーム
- グランツール
- ステージレース
- ワンデーレース
- トラックレース
- ブランドとしてのエディ・メルクス
- 関連項目
- 関連サイト
史上最強のロードレース選手、エディ・メルクス
| ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアをそれぞれ5回ずつ、ブエルタ・ア・エスパーニャを1回制覇しており、ツール・ド・フランス通算ステージ34勝、単年ステージ8勝、マイヨ・ジョーヌ着用日数96日はいずれもツール・ド・フランスにおける最高記録である。 |
| また世界選手権でも3回(アマチュア時代も含めれば4回)優勝。 |
| さらにミラノ〜サンレモを7回、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュを5回制するなどクラシックでも数多くの記録を残し、1シーズン54勝というシーズン最多勝記録も保持している(ちなみにシーズン50勝以上を3回達成している)ほか、パトリック・セルキュとタッグを組んでトラック競技でも勝利を重ね、16年間の競技生活で通算525勝(うちプロ時代に425勝)をあげた。 |
| ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアの両方を制する「ダブルツール」を1970年、72年、74年の3回達成。 |
| 74年はさらに世界選手権も制して「トリプルクラウン」を史上初めて達成した選手でもある。 |
| 全盛期だったモルテニ所属時代には、その攻撃的な走り、出場する全てのレースで勝利を目指した貪欲さから、他の選手たちに「人食い(TheCannibal)」の異名で恐れられた(但し、本人曰く、他の選手から直接この名で呼ばれたことはないとのこと |
| その数々の伝説的偉業により、ロードレース・ファンからはファウスト・コッピと並んで「カンピオニッシモ」(伊:Campionissimo―チャンピオンの中のチャンピオン)と呼ばれている。 |
| ちなみに長い自転車レースの歴史の中で、カンピオニッシモの称号を持つのはこの二人だけであり、2年連続ダブルツールを達成したミゲル・インドゥラインや、ツール・ド・フランスを7連続総合優勝したランス・アームストロングでさえ与えられていない。 |
経歴
| 1961年に16歳で競技を始めたが、1964年には19歳の若さで東京オリンピックのベルギー代表のロード選手に選ばれ来日。 |
| さらにアマチュア世界選手権を制するなど、すでに大器の片鱗を見せ始めていた。 |
| 1965年にプロに転向。 |
| 翌1966年にいきなりミラノ〜サンレモで優勝して衝撃のデビューを飾ったものの、この年は、大きな勝利はこの1つにとどまった。 |
| しかし1967年はミラノ〜サンレモの連覇を皮切りにヘント〜ウェヴェルヘムやフレッシュ・ワロンヌなどのビッグレースで優勝。 |
| ジロ・デ・イタリアではステージ2勝を挙げ、世界選手権も制し、一気にトップレーサーとなる。 |
| 1968年にはパリ〜ルーベを制覇したほか、ジロ・デ・イタリアで初めての総合優勝を遂げ、1969年はパリ〜ニースの総合優勝を皮切りにクラシックレースも次々制覇。 |
| その勢いのままツール・ド・フランスでもステージ6勝を含む総合優勝を達成。 |
| そして1970年にはジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスの両方を制して「ダブルツール」を達成。 |
| 最強の座を確たるものにした。 |
| 1971年もツール・ド・フランスの連覇を始め、ミラノ〜サンレモ、フレッシュ・ワロンヌ、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ、ジロ・ディ・ロンバルディアと数々のクラシックで優勝。 |
| さらには世界選手権で2度目の優勝を達成した。 |
| 1972年には自身二度目の「ダブルツール」達成。 |
| さらにメキシコでアワーレコードに挑戦。 |
| 49.43195kmの新記録を叩きだし、世間からは「これを塗り替えることは永遠に不可能」とまで言われた。 |
| さらに1973年はジロ・デ・イタリアとブエルタ・ア・エスパーニャで優勝したほかパリ〜ルーベで3回目、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュで4回目の優勝を飾るなどクラシックでも大活躍した。 |
| 1974年には前人未到となる三度目の「ダブルツール」を達成。 |
| ツール・ド・フランスでは史上最多となるステージ8勝という圧倒的な成績を残した。 |
| さらにこの年は世界選手権も制して史上初の「トリプルクラウン」を達成。 |
| 栄光の絶頂を極めた年となった。 |
| そして1975年も春のクラシックシーズンを絶好調で終えるが、ツール・ド・フランスでは、ベルナール・テブネの前に苦杯を喫し、2位に終わる。 |
| しかし、これはメルクスの力が衰えたからではなく、第14ステージの山頂ゴール手前でメルクスを嫌う観客にボディブローを叩きこまれたのが原因であり、これによって次のステージから急激に体調を崩したうえ、落車して顎を骨折。 |
| ものを咀嚼できない状態になった。 |
| そのため体調はさらに悪化し血を吐くまでになり、誰もがリタイアすると思ったが最後まで走りぬき、しかも優勝をあきらめずに何度もアタックをかけ、周りを驚愕させた。 |
| しかし、その無茶がたたって、以後は急速に走りに精彩を欠くようになり、1976年に7回目のミラノ〜サンレモ制覇を達成したのを最後に大きなレースでの勝利からは見放されてしまう。 |
| 結局1978年に引退。 |
| 引退後はウーゴ・デローザに指導を受け、ブリュッセル郊外でバイクフレームの制作工場を興した(詳細は後述)。 |
| そのほか現在ベルギーの自転車関係の団体の委員を歴任。 |
| 1996年にはベルギーの国威高揚に貢献したということでベルギー王室からも男爵の爵位を贈られている。 |
| 2010年現在はベルギーオリンピック委員会の委員を務めるほか、ツアー・オブ・カタール及びツアー・オブ・オマーンの運営にも関与している。 |
人物
| 勝利に対する執着はすさまじく、時には愛娘と遊んでいるときの競争でさえ勝ちを譲らないこともあった。 |
| また、レースでは、よくスタート直前までリアスプロケット部分を隠していた(歯数が多ければ登りで勝負、少なければ平地で逃げを狙うかスプリントに絞っているなど、どんな作戦を立てているかをある程度推察されてしまうため)。 |
| かつてツール・ド・フランスでは全ステージ優勝を狙って走っていたと発言したことがある。 |
| 実際、1968年のジロ・デ・イタリアと1969年のツール・ド・フランスでは総合優勝に加えて山岳賞とポイント賞まで独占するという空前絶後(現在でも唯一無二)の結果を残しているほか、1970-72年のツール・ド・フランス、1973年のジロ・デ・イタリア、ブエルタ・ア・エスパーニャでも複数の賞を獲得しており、奪える勝利は全て奪う姿勢を貫いていた。 |
| 他人どころか自分に対しても容赦がなく、1970年のモン・ヴァントゥへの頂上ゴールでは、ゴール後に酸素吸入を必要とするほどのペースで走り、ステージ優勝こそしたもののダメージは大きく、危うくリタイアしかけた。 |
| また、チームドクターから疲労の蓄積によりアタックをやめるよう忠告されていたにも関わらず、真っ先に集団を飛び出してしまった事もある。 |
| 1975年のツール・ド・フランスでの無茶が彼の選手生命を縮めたことは間違いなく、本人も「あれをしなければもう少し走れただろう」とその旨を認める発言をしている。 |
| また、1968年のツール・ド・フランスについても出場していたら優勝できただろうと語っており、もし妨害などがなければ1968-1975年にわたって8連覇(あるいはそれ以上)を達成していた可能性も十分にあった。 |
| 選手のドーピングに関しては厳しい非難をしているが、ランス・アームストロングが薬物使用を疑われたときには、真っ先に擁護した(しかしデビュー当時のランスはメルクスのことを知らず、所属していたモトローラチームが使用していたフレームの「EddyMerckx」のロゴを見て、「エディ・マークス(メルクスの英語読み)って誰だい?」と発言し「カンピオニッシモ、エディ・メルクスを知らないとは」と周囲を驚ろかせた)。 |
| 1969年のジロ・デ・イタリア第15ステージを勝利しながらも、同レース終了後のドーピング検査で陽性が発覚したため、マリア・ローザ着用のまま、レースから除外されたhttp://www.cyclingrevealed.com/timeline/Race%20Snippets/GdI/GdI_1969.htm。 |
| 選手時代からヘビースモーカーで、アワーレコード挑戦後にも一服つけていた。 |
| 引退後も変わらず、サポートカーや審判車に乗りながらタバコを吸っている光景が時折、映し出されていた。 |
| 息子のアクセル・メルクスも父と同様プロのロードレーサーとなった。 |
| もっぱらアシストとしての仕事が多かったため成績は父に遠く及ばないが、2000年のベルギー選手権優勝、2004年アテネオリンピック銅メダルオリンピックのメダルは父が獲得することができなかった数少ない勲章である。 |
| もっとも自転車競技がオリンピックでプロに開放されたのは1996年のアトランタオリンピックからであり、父は東京オリンピック以外は出場権がなかった、などの成績を残し、2007年のツール・ド・フランス完走を最後に引退した。 |
エピソード
| 現役時代は機材に異常なこだわりを見せる選手として有名であり、レースの前日であろうとフレームの改良を指示して、当日朝一番で届けさせることもしょっちゅうだった。 |
| デビュー当初はチームで使用しているフレームが気に入らず、自費で別メーカーのフレームを購入し、チームカラーにペイントして使用していたこともある。 |
| ポジション調整にもこだわりを見せており、スタート直前まで微調整をしていることは日常茶飯事で、レース中に逃げを決めている時であっても1度自転車を降りてチームメカニシャンを呼びサドル高を調整させたという伝説まで残している(この様子は市販のDVDで確認出来る)。 |
| こうしたこだわりは彼自身の性格もあるが、1970年にトラックレースの最中、クラッシュに巻き込まれて背中と腰を痛めてしまい、以後その痛みに悩まされ続けたためでもある(この時は頭部も強打して一時意識不明になっていた)。 |
| 軽量化にも熱心で、現在に至るロードバイクの軽量化はメルクスから始まったといえる。 |
| ギアやハンドルなどのパーツに穴をあけて肉抜き加工を施すことも多く、72年のアワーレコード挑戦時には5.75kgという極限まで軽量化を実現したチタンパーツを使用したスペシャルバイクを使用した(当時のロードバイクの平均重量は10kg前後)。 |
| このバイクはベルギーのブリュッセルの地下鉄にある、彼の名を冠した「エディ・メルクス駅」のホームに展示されている。 |
| このように自転車に対しては革新的な姿勢を見せたメルクスだが、着るサイクルウェアについては保守的で、ウール素材のレーサージャージを愛用し続けた。 |
| ファンから「メルクスと言えばウール」とまで評されたのは有名である。 |
| メルクスがアワーレコード(49.431km)を記録した時、これを破れる選手はいないと言われていた。 |
| その後ファニーバイクを用いたアワーレコードの記録更新が相次いだが、2000年の国際自転車競技連合(UCI)の規則改正により、アワーレコードには「通常のロードレース用自転車を用いること」が義務付けられたため、それらの記録は全て無効とされている。 |
| それを踏まえた上での2010年現在のアワーレコードは49.700kmであるが、メルクスの記録との差はわずかであり(メルクスより0.3kmしか速くなっていない)、通常のロードレース用自転車において機材の進歩が著しいことを考えれば、メルクスの残した記録がいかに圧倒的だったかが分かる。 |
所属チーム
| 66-67年プジョー-BP。 |
| 68-70年ファエマ(68-69年Faema、70年Faemino-Faema)。 |
| 71-76年モルテニ。 |
| 78年C&A。 |
グランツール
| ジロ・デ・イタリア9位(2勝)。 |
| 20px20px20pxジロ・デ・イタリア総合優勝ポイント賞山岳賞(4勝)。 |
| 20px20px20pxツール・ド・フランス総合優勝ポイント賞山岳賞(6勝)。 |
| 20pxジロ・デ・イタリア総合優勝(3勝)。 |
| 20px20pxツール・ド・フランス総合優勝山岳賞(8勝)。 |
| 20px20pxツール・ド・フランス総合優勝ポイント賞(4勝)。 |
| 20pxジロ・デ・イタリア総合優勝(4勝)。 |
| 20px20pxツール・ド・フランス総合優勝ポイント賞(6勝)。 |
| 20px20pxジロ・デ・イタリア総合優勝ポイント賞(6勝)。 |
| 20px20pxブエルタ・ア・エスパーニャ総合優勝ポイント賞(6勝)。 |
| 20pxジロ・デ・イタリア総合優勝(2勝)。 |
| 20pxツール・ド・フランス総合優勝(8勝)。 |
| ツール・ド・フランス総合2位(2勝)。 |
ステージレース
| ツール・ド・ロマンディ総合優勝カタルーニャ一周総合優勝。 |
| パリ〜ニース総合優勝。 |
| パリ〜ニース総合優勝(4勝)。 |
ワンデーレース
| 20px1964年優勝(アマチュア)。 |
| 20px1967年優勝(プロ)。 |
| 20px1971年優勝(プロ)。 |
| 20px1974年優勝(プロ)。 |
ブランドとしてのエディ・メルクス
| メルクスは引退後、現役中に使用していたフレーム制作を依頼していたウーゴ・デローザに師事した後、自身の名を冠したフレームメーカーを創業した。 |
| 現在では、ただ有名選手の名を冠しただけのメーカーでは無く、積極的にフレームの改良を行い、ビギナー向けからTT用のフレームまで制作するレーシングブランドとして確立した。 |
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1945年
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ベルギー出身の自転車プロロードレースの選手... |
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1961年
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16歳で競技を始めたが、1964年には19歳の若さ... |
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投票数
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| ふりがな |
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