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プロフィール
- エフゲニー・プルシェンコとは
- 幼少期
- ジュニア時代
- ソルトレイク五輪まで
- トリノ五輪まで
- トリノ五輪後
- 復帰戦~バンクーバー五輪
- バンクーバー五輪での抗議
- 出場停止と資格回復
- 偉業
- 演技
- ジャンプ
- ステップ
- 主な戦績
- 議員活動
- 生い立ち
- 交友関係
- 私生活
- 好きな食べ物
- 好きなファッション
- 関連サイト
エフゲニー・ヴィクトロヴィチ・プルシェンコ(イヴギェーニイ・ヴィークタラヴィチュ・プリューシンカ、、1982年11月3日-)は、ロシアの男性フィギュアスケート選手(男子シングル)でサンクトペテルブルク立法議会議員。2006年トリノオリンピック金メダリスト。2002年ソルトレイクシティオリンピック及び2010年バンクーバーオリンピック銀メダリスト。世界選手権優勝3回、欧州選手権優勝6回、グランプリファイナル優勝4回。ロシア連邦スポーツマスター。ロシア人名愛称では ジェーニャ。
幼少期
| 1987年2月25日、4歳でフィギュアスケートを始める。 |
| 2か月後には初めての試合に出場、15人中7位に入る。 |
| 6歳から一旦招集されると数か月も続く合宿、日々の練習の合間に学校に行く生活に入る。 |
| 7歳の時にはサマーラで行われた全ソ規模のノービス競技会クリスタルスケート(現在のCISクリスタルスケート)で初優勝、競争相手は全員10~11歳の少年たちで最年少での優勝だった。 |
| 自伝『Другоешоу』より(英訳 |
| 1994年5月に高名なコーチのアレクセイ・ミーシンを頼り、11歳にして家族と離れ、単身サンクトペテルブルクへ移住。 |
| プルシェンコはこの幼少期の経歴ゆえソビエトシステムが生んだ最後の遺産とも呼ばれる。 |
| ソビエトなどの旧社会主義国では五輪は共産主義の優秀さを西側諸国に示す場としてプロパガンダに利用された。 |
| ソ連各地から選ばれた才能ある子供たちは、衣食住をはじめとした競技に必要な全てを国から与えられ、ごく幼い頃から家族から引き離されるなどして、優秀な指導陣のもと英才教育を施された。 |
| しかしこのシステムはソ連解体によって崩壊。 |
| プルシェンコやマキシム・マリニン(トリノ五輪ペア金メダリスト)が所属していたヴォルゴグラードの五輪選手育成学校のリンクも1993年には閉鎖された。 |
| トリノ五輪に出場した選手団がこのシステムによって育てられた事実上の最後の世代で、ロシアでは彼らが第一線から退いたことが2006/2007シーズン以降のロシア選手の国際大会での成績低迷の原因とされている。 |
ジュニア時代
| 当時ミーシンのグループは1994年のリレハンメルオリンピックで金メダリストとなるアレクセイ・ウルマノフや、後に激しいライバル対決を繰り広げる事になるアレクセイ・ヤグディンも師事しているエリート集団だった。 |
| グループに加わった当初はミーシンの関心も低く、12歳で初めて出場した国際的な大会にもミーシンではない別の大人が付き添った。 |
| しかしプルシェンコはここでも頭角を現しミーシンの注目を獲得。 |
| 13歳になるとシニアの大会にも参加するようになる。 |
| 初出場した1996年世界ジュニア選手権(1995年11月26日~12月2日、オーストラリアブリスベン開催)では出場選手中最年少で6位入賞。 |
| 翌年の1997年世界ジュニア選手権(1996年11月24日~12月1日、韓国ソウル開催)では14歳で優勝。 |
| これは2010年現在も史上最年少記録である。 |
ソルトレイク五輪まで
| 1997/1998シーズンからはシニアに本格参戦しISUグランプリシリーズのスケートアメリカとロシア杯、また欧州選手権でも初出場で2位になるなど大健闘。 |
| イリヤ・クーリックの棄権により急遽初出場することとなった1998年世界選手権では、弱冠15歳にして三位表彰台に乗り史上最年少メダリスト(現在も世界記録)となるなど華々しいデビューを飾った。 |
| 1998/1999シーズンからは主要な競技会で優勝を重ねるようになり、1999年世界選手権では前年度より1つ順位を上げ2位になる。 |
| 1999/2000シーズンは欧州選手権まですべて優勝、ロシア選手権と欧州選手権で世界王者ヤグディンに2連勝を果たした。 |
| だが、優勝候補の筆頭に挙げられて臨んだ世界選手権ではフリーで大崩れし、まさかの4位に終わった。 |
| 翌2001年世界選手権では前回王者のヤグディンを抑え初優勝、その他のタイトルも総なめにした。 |
| 勢いはこのまま続くかと思われたが、2001/2002シーズンのグランプリファイナルでヤグディンに敗北すると第2フリーにおいて、技術点は全てのジャッジがプルシェンコの方を評価したが、芸術点では評価が分かれた。 |
| 解説の五十嵐文男からは「技術的には上だが、曲調が頻繁に変わり過ぎて印象に残らない」、ディック・バトンからは「(昨シーズンのフリープログラムを含めて)腰を振るパフォーマンスがジャッジの印象を悪くした」と評価された。 |
| 、これに危機感を抱いたプルシェンコチームは急遽フリープログラムをビゼーのカルメンに変更。 |
| 約1ヵ月後に迫ったソルトレイクシティオリンピックのため猛練習を重ねプログラムを完成させる。 |
| しかしプルシェンコはこの練習により右足首を負傷した。 |
| 迎えたオリンピック本番ではショートプログラム冒頭の4回転トウループで「まさかの実況の刈屋アナのフレーズ。 |
| 今大会まで2シーズンにわたり4回転トウループの転倒がなかった。 |
| 」転倒、4位でフリースケーティングに臨むこととなった。 |
| 自力優勝の可能性が消え背水の陣で臨んだフリーでは、4回転トウループ-3回転トウループ-3回転ループという超高難易度のコンビネーションジャンプに挑戦(3つ目のループはステップアウト)、また3回転アクセル-ハーフループ-3回転フリップというこちらも超高難易度のシークエンスジャンプを成功させるなどして追い上げ2位に浮上、銀メダルに輝く。 |
| だが、そこに喜びの表情はなく、首に掛けられた銀メダルを早々にしまいこんでいた。 |
| 直後の2002年世界選手権は右足首の怪我の悪化を理由に欠場した。 |
トリノ五輪まで
| 2003年に常に表彰台の1位と2位を争っていたライバルのヤグディンが引退すると、2003年世界選手権、2004年世界選手権を2連覇。 |
| 2003年夏に出演した日本のアイスショーで氷の溝にはまり半月板を損傷して以来、故障に悩まされてきたが、自国開催の2005年世界選手権では、ショートプログラムを終えた後かねてより痛めていた股関節の状態も悪化したため棄権。 |
| その後ドイツで鼠径ヘルニアの手術を受ける。 |
| これ以後、デビュー以来プルシェンコのトレードマークとなっていたビールマンスピンは封印された。 |
| 万全とは言えない体調で迎えた2006年のトリノオリンピックでは、ショートプログラムで90点台をマークし、2位に10点以上の差をつけ首位に立った。 |
| フリースケーティングでも4回転トウループ-3回転トウループ-2回転ループを始めとする殆どの技を成功させ、出場選手の中でただ一人160点台をマーク。 |
| 総合得点で2位に30点近い大差をつけるなど、圧倒的な実力で金メダルを獲得した。 |
トリノ五輪後
| 2006/2007シーズンは競技には出場せず休養することを宣言。 |
| この年からアイスショーを活動の中心に移す。 |
| 2007/2008シーズンには競技への復帰を発表し、2007年7月にドイツで以前から痛めていた左膝の半月板除去手術を受けた。 |
| 11月からはコーチのミーシンらと本格的な訓練を開始したが、術後の経過が思わしくなかったためこのシーズンの復帰は断念。 |
| 2008年夏には再手術が予定されていたが、血液循環の治療が一定の効果を上げた事と、復帰がずれ込むことを危惧したため回避。 |
| 6月から8月までミーシンチームのサマーキャンプに帯同し、フィジカルトレーニングを中心に最新の採点基準に合わせた技術習得に励んだ。 |
| 8月にはロシアスケート連盟のテストスケートに臨んだが、古傷の悪化で再びドイツで治療を受けこの年の復帰は断念した。 |
| 2009年春から議員やプロスケーターとしての予定を整理。 |
| アマチュアアスリートの生活に戻り、1日に2回の氷上練習と1回のフィジカルトレーニングを再開。 |
| 夏には恒例のミーシンのサマーキャンプとロシア代表のテストスケートにも参加。 |
復帰戦~バンクーバー五輪
| 2009年9月9日、サンクトペテルブルクフィギュアスケートアカデミーで開催された、サンクトペテルブルク杯第一試合に出場。 |
| ISU非公認の小さな国内地方試合での参考記録ながら、ショートプログラムで95.05点、フリースケーティングでは164.09点、総合259.14点をたたき出し、アマチュア競技に復帰http://fsevents.narod.ru/event/FstLapSpb2009/。 |
| 10月22日からモスクワのメガスポルトで開催された2009年ロステレコム杯では、ショートプログラムで必須要素の「ステップからの三回転」を二回転にするミスのため82.25点、しかしフリースケーティングでは大きなミスもなく158.40点を獲得、総合240.65点で優勝http://www.isuresults.com/results/gprus09/。 |
| 12月24日からサンクトペテルブルクで開催された2010年ロシア選手権でも、同月上旬に膝の古傷を再発させ一時は引退を考えたほどの状態でありながら、ショートプログラムで100.09点、フリースケーティングで171.5点、総合271.59点(ISU非公認試合ゆえ参考記録)で優勝 |
| 2010年1月の2010年ヨーロッパフィギュアスケート選手権ではショートプログラム91.30点で自身の持つ世界最高得点を更新、フリースケーティグ164.36点、総合255.39点で2位のステファン・ランビエールに16.85点もの点差をつけ6回目の優勝。 |
| 2010年2月のバンクーバーオリンピックでは、ショートプログラムで90.85点を獲得し首位に立ち、続くフリースケーティングでもマイナスが付いたのはトリプルアクセルのみという2009/2010シーズンで最もクリーンな演技内容を見せたが、アメリカのエヴァン・ライサチェクに1.86点の逆転を許す。 |
| 2010年初夏にはドイツで競技続行のためアキレス腱付近に出来たのう胞の除去と左膝の半月板清掃という2つの手術を予定していた。 |
| 5月上旬に医師と面談を行い、のう胞は注射針で体液を抜き、両膝はこれまでと同様に関節内への注射で対処、そのほかに脊椎神経を特殊な針で焼く治療法を採用 |
バンクーバー五輪での抗議
| バンクーバー五輪で首位に立ったショートプログラムの直後に、演技構成点のトランジションの項目で他の6人のジャッジと比べて極端に低い点数をつけた3人のジャッジがいることに抗議するようロシアスケート連盟に訴えた。 |
| これは五輪直前にアメリカ人ジャッジのジョゼフ・インマンが「『自分達はトランジッションのことはあまり考えていない』と自らトランジッションが無いことを認めている選手がいるが、こういう場合、我々ジャッジはどう判断すればいいんだろう?」という内容のEメールを60人の同僚ジャッジに送信したことを欧州メディアが「北米によるロビー活動だ」と報じスキャンダル化したことに起因している |
| プルシェンコはショートプログラムで出場選手中唯一4回転トウループ-3回転トウループを成功させ、その他全ての要素も成功またはレベル3以上でそろえたが、3回転までの構成にした2位以下の選手たちとの差はわずかだった。 |
| タチアナ・タラソワは、フリースケーティングに関しては、4回転-3回転の連続ジャンプを成功させたとはいえ精彩を欠いたプルシェンコの演技がライサチェクの演技より劣っていたことは認めるものの、ショートプログラムで3回転-3回転しか跳べなかったライサチェクや高橋大輔とほとんど差の無い点数しか出なかったことを批判した |
出場停止と資格回復
| 2010年3月に行われた世界選手権を怪我を理由に欠場した後、一旦受理されていた本人主催アイスショーへの出演許可を再度取得しなおすよう国際スケート連盟より求められた。 |
| 処分通達から21日以内にローザンヌのスポーツ仲裁裁判所に異議申し立てをすることも出来たが、2014年に自国ロシアで初めて開催される冬季五輪への出場を目指しているため、国際スケート連盟と全面的に争うことは望まなかった。 |
偉業
| 2010年のヨーロッパフィギュアスケート選手権を制したことで、プルシェンコはオーストリアのカール・シェーファー以来74年ぶりの6度以上ヨーロッパを制した男子シングル選手になった。 |
| 現在までの欧州記録はスウェーデンのウルリッヒ・サルコウが1898年~1913年にかけ達成した9度の優勝。 |
| 3位がオーストリアのウィリー・ベックルが1922年~1928年にかけ達成した記録と、プルシェンコが2000年~2010年にかけ達成した6度優勝のタイ記録である。 |
| またバンクーバーオリンピックでの銀メダル獲得によって、スウェーデンのギリス・グラフストロームが1920年~1932年に達成して以来実に78年ぶり、史上2人目となる3つ以上のオリンピックメダルを獲得した男子シングル選手になった。 |
| 金メダルこそ逃しアメリカのディック・バトン以来58年ぶり史上4人目となる五輪連覇の夢はかなわなかったが、3シーズンというこれほど長い休養期間を経て復帰に成功した選手はプルシェンコが初であり、名前のあがったいずれの選手も半世紀以上前に活躍した選手である |
演技
| 16歳で初めての6.0を出して以来(1998年NHK杯:男子最年少記録)、新採点方式に移行するまでに技術点で5つ、プレゼンテーションで70、計75もの満点を獲得した。 |
ジャンプ
| 世界で初めてISU公式競技会で4回転トウループ-3回転トウループ-2回転ループのコンビネーションジャンプを成功させ(1999年NHK杯)、現在までにISU公式競技会で20回近くと、最も多くの『4回転からの3連続コンビネーションジャンプ』を成功させた選手である。 |
| 世界で初めてISU公式競技会で4回転トウループ-3回転トウループ-3回転ループのコンビネーションジャンプを成功させた選手でもある(2002年ロシア杯、2003年グランプリファイナル第2フリースケーティング、2003年世界フィギュアスケート選手権予選)。 |
| 世界で初めてISU公式競技会で4回転コンビネーションジャンプを2度成功させた選手でもある(代々木体育館で行われた2000年グランプリファイナル第2フリーにて、4回転トウループ-3回転トウループと4回転トウループ-3回転トウループ-2回転ループ)。 |
| その他にも世界で初めてISU公式競技会で3回転アクセル-ハーフループ-3回転フリップと(2002年ソルトレイクシティオリンピック)、4回転トウループ-2回転ループのコンビネーションジャンプを成功させた(2004年グランプリファイナルフリースケーテイング)。 |
| エキシビションなどで4回転トウループ-3回転トウループ-2回転ループ-2回転ループ(2001年世界選手権)、3回転トウループ-3回転トウループ-3回転ループ-2回転ループ(2005年ARDGala)、3回転-3回転-2回転-2回転-2回転-2回転(欧州選手権、2006年ロシア選手権)を披露したこともある。 |
ステップ
| トリノオリンピックのショートプログラムのサーキュラーステップでは、驚異的な速さと細やかなエッジワークで最高難度のレベル4(GOE加点2.14)を獲得、フリースケーティングのサーキュラーステップでもレベル4を獲得した。 |
主な戦績
| 最も悪い成績は13歳で参加した1996年フィンランディア杯の7位、最後に表彰台を逃したのは17歳で参加した2000年世界選手権の4位である。 |
議員活動
| 2007年3月にサンクトペテルブルク立法議会選挙に中道左派の第四党公正ロシア・祖国・年金・生活党から出馬し当選。 |
| 7月には2014年冬季オリンピックのソチへの招致運動にも積極的に参加し開催地決定に貢献したが、競技続行にあたって議員活動が妨げになるとして議会へは殆ど出席しておらず、党内外から批判の声もあがっている。 |
| 2010年12月には、ソチ五輪の後で下院選に出馬する希望を表明 |
生い立ち
| 1982年11月3日、ソビエト連邦ハバロフスクのウルガルで、大工の父ヴィクトルと母タチアナの長男として生まれる。 |
| アイスショーやエキシビションでは女装http://jp.youtube.com/watch?v=QzZCc5nQ8-Eや着ぐるみhttp://jp.youtube.com/watch?v=1Al1ZlVz8FMでパフォーマンスを見せたり、トム・ジョーンズの"SexBomb"に合わせ、偽の筋肉が縫い付けられた肌色の襦袢と金色のビキニブリーフだけという滑稽ないでたちでストリップダンスを披露するなどhttp://jp.youtube.com/watch?v=c1T61vX4wm4、奇抜な演技も楽しげにこなす。 |
| 2008年末にはアルメニア共和国の首都エレバンに、現地の国家予算から3割の資金援助を受け運営される私立のフィギュアスケートアカデミーを開設することを発表http://life.ru/news/pr/51281/したが、復帰への集中のため延期されている。 |
好きな食べ物
| イチゴ、ミカン等のフルーツ、チーズケーキ、アイスクリーム、寿司、しゃぶしゃぶ等の日本料理、母親が作ったフライドチキン、ボルシチとペリメニ。 |
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1913年
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かけ達成した9度の優勝 |
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1932年
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達成して以来実に78年ぶり、史上2人目となる3... |
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