| 父はボスニア・ヘルツェゴビナの情報省に勤める特権階級であり、裕福な環境で幼少期を過ごす。 |
| しかし年が経つにつれロックに夢中になり、どんどん素行が悪い友人と付き合うようになったクストリッツァを見かねた両親が、友人のつてで彼をプラハの国立映画学校FAMUへ留学させることを決める。 |
| 18歳だったこの時、クストリッツァは殆ど映画に興味がなかったという。 |
| しかし映画学校に入学するや否や彼の才能はすぐに開花し、初めて制作した短編作品''Guernica''は映画学校の賞を受賞。 |
| 卒業後はサラエヴォに戻り、短編のテレビ作品をいくつか制作した後に、初の長編作となる81年『ドリー・ベルを憶えてる?』でヴェネツィア映画祭新人監督賞を受賞。 |
| 続く85年『パパは、出張中!』ではカンヌ映画祭パルム・ドール、89年『ジプシーのとき』では同じくカンヌの監督賞を受賞。 |
| 主にジプシーを視点としたユーモアとシリアスが混在した独特の作風で、一躍国内だけでなくヨーロッパを代表する映画監督へと名を押し上げる。 |
| また、『パパは、出張中!』制作後には、当時新鋭のパンク・バンドとして国内で人気を博していたネレ・カライリチ率いるZabranjenopušenjeと出会い、意気投合。 |
| ギタリストとしてバンドのスタジオセッションやコンサートへと参加するようになる。 |
| しばらくしてクストリッツァは『ジプシーのとき』の撮影を開始するに伴いバンドから離れるが、彼とネレの友情はこの後も続いていくことになる。 |
| 1990年にアメリカに移住し、コロンビア大学映画学科の講師に就任する。 |
| この時生徒から持ち込まれたシナリオを脚本として採用した初のアメリカ作品『アリゾナ・ドリーム』を制作するが、撮影中にボスニア紛争が勃発する。 |
| この紛争により自宅の略奪や父の死を経験したクストリッツァは、自分たちの国で起きていることを海外に訴える必要があると感じ、『アリゾナ・ドリーム』を完成させたすぐ後に『アンダーグラウンド』の制作に取りかかる。 |
| ユーゴスラビアの50年に渡る紛争の歴史を寓話的に描いたこの作品は、2度目となるカンヌ国際映画祭パルム・ドールをクストリッツァにもたらし、彼の映画監督としての地位をより一層確固たるものにした。 |
| しかし政治的描写に満ちたこの作品は、賞賛と同時に批判も巻き起こすことになる。 |
| 論争に嫌気が差したクストリッツァは「もう映画は撮らない」と引退を表明。 |
| この発言はまもなく撤回されるが、一連の騒動は以後のクストリッツァの作風に大きな影響を与え、特に次作『黒猫・白猫』ではメッセージ性を徹底的に排除したスタイルへと変貌した。 |
| しかし元々クストリッツァ作品の一つの特徴でもあった陽気さとユーモアを追求したこの作品は、『アンダーグラウンド』とは別の賞賛によって迎えられ、ヴェネツィア国際映画祭では銀獅子賞を受賞する。 |
| また、この映画の撮影中、音楽を提供してもらうためにネレ・カライリチに連絡したのがきっかけとなり、クストリッツァはネレのバンドに再び加入する。 |
| エミール・クストリッツァ&ノー・スモーキング・オーケストラと名を改めたこのバンドは、以後彼の映画音楽の殆どを担当することになる。 |
| 2004年には、『アンダーグラウンド』と同じくユーゴ内戦を舞台にしながらも、『黒猫・白猫』のような楽観的な作風を推し進めた作品『ライフ・イズ・ミラクル』を発表。 |
| またクストリッツァは、この映画の撮影で使用したセルビアにある小さな村の景観を気に入り、村ごと買い取りKustendorfという自分の村を作り上げる。 |
| クストリッツァはその村に映画学校やレストランなどを自費で建設し、2008年には建設した映画館で映画祭を開催。 |
| 2009年の第2回にはジム・ジャームッシュ、オリバー・ストーンらが参加し、2010年の第3回にはジョニー・デップがオープニング・セレモニーに登場するなど、盛り上がりを見せている。 |
| 2005年にはカンヌ国際映画祭の審査委員長に選ばれ、2007年には『ウェディング・ベルを鳴らせ!』で同映画祭のコンペティション部門に自身5度目の選出。 |
| しかしキャリア初の映画祭無冠に終わり、クストリッツァは「これからも映画は撮り続けるけど、コンペに出すかは分からない」とコメントした。 |
| また、同年には89年に監督した『ジプシーのとき』をオペラとしてセルフ・リメイクし、パリ公演を成功させている。 |
| 近年になってもノー・スモーキング・オーケストラのツアーの傍ら、複数の新作映画のプロジェクトを常に掛け持つなど、衰えを知らず精力的に活動を続けている。 |