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プロフィール
- エリオ・デ・アンジェリスとは
- 人物紹介
- 経歴
- シャドウ時代
- ロータス時代
- ブラバム時代
- エピソード
- 関連項目
- 外部リンク
- 関連サイト
人物紹介
| 天才肌タイプのドライバーとされる。 |
| ロータスに縁が深く、歴代のロータス・ドライバーの中で、最も長くチームに在籍していた。 |
| またアンジェリスの初優勝は、ロータスにとってコーリン・チャップマン存命中の最後の勝利でもあった。 |
| 大のマシンテスト嫌いだったと言われている。 |
| 後述するようにピアノを嗜んでいたことや、貴族の末裔という家柄もあり、「『F1は貴族のスポーツ』という雰囲気を醸し出した最後のドライバー」、「F1最後の紳士」、「古き良き時代を象徴する最後のドライバー」等と表現されることも多い。 |
経歴
| 貴族の家系の出身。 |
| 父のジュリオは、ローマでセメント会社などを営む富豪であり、パワーボートの選手としても活躍していた。 |
| このような環境の元、幼少の頃からレースの才能を磨いていった。 |
| 1977年、18歳でイタリアF3・ヨーロッパF3に参戦。 |
| イタリアF3では4勝を挙げ初年度でチャンピオンに輝き、ヨーロッパF3でも1勝・3PPを記録(ランキング7位)。 |
| 1978年は、ヨーロッパF2・イギリスF3に参戦。 |
| 前者は最高位3位でランキング14位、後者は1勝を記録してランキング11位となった。 |
シャドウ時代
| 1979年、20歳でシャドウよりF1デビュー、チームメイトは同じくこの年にデビューしたヤン・ラマースだった。 |
| マシンの競争力に苦しみ予選落ちも喫すなど、ラマース共々苦戦を強いられたが最終戦アメリカ東GPで4位入賞を果たした。 |
ロータス時代
| 翌1980年にロータスに移籍し、1978年のチャンピオン・マリオ・アンドレッティと組むことになった。 |
| 第2戦ブラジルGPにて21歳306日で2位表彰台を獲得、当時の最年少優勝記録ブルース・マクラーレンの22歳104日インディ500のみ出走のドライバーを除く。 |
| を破るのではないかと注目を集めたが、結局この年の表彰台は1度に留まった。 |
| しかし、計4度の入賞(2位1回・4位2回・6位1回)で13ポイントを獲得(ランキング7位)、この年1ポイントしか獲得出来なかったアンドレッティを圧倒した。 |
| 1981年は前年の活躍により、チームのエースドライバーに昇格。 |
| 入賞8回を記録したが、この年の最高位は4位で表彰台に登ることはなかった(ランキング8位)。 |
| またチームメイトのナイジェル・マンセルに対し、ポイントでは上回ったが、最高位は予選・決勝共に下回った。 |
| 1982年は、第13戦オーストリアGPでケケ・ロズベルグとのバトルを0.05秒差で制し、初優勝を飾った。 |
| 表彰台はこの優勝時のみであったが、計7回の入賞を記録しランキング9位、総ポイントや入賞回数で、マンセルを圧倒した。 |
| 1983年は、入賞が5位1回と前年以上に苦しいシーズンとなり(ランキング17位)、総ポイント・最高位・入賞回数共にマンセルを下回った。 |
| しかし第13戦ヨーロッパGPで初PPを獲得している。 |
| それまでのアンジェリスは、チームの一時低迷もあり、安定して結果を出しているとは言い難い状態だった。 |
| しかし、1984年は予選で1PPを含めた4回のフロントロー、決勝で7戦連続を含めた11回の入賞(うち表彰台4回)と、上位陣の常連となり、ドライバーズ・ランクでも自身最高となる3位の成績を収めた。 |
| 第3戦サンマリノGPにて、アラン・プロスト失格による繰り上がりながら自身2勝目を記録。 |
| これを含めて開幕から7戦連続で入賞するなど(最終的な入賞は11回)着実にポイントを積み重ね、最終的にはランキング5位となった。 |
| 一方でチームには、4年間に渡って組んだマンセルに代わり、デビュー2年目のアイルトン・セナが加入していた。 |
| 元々のエースはアンジェリスとして扱われており、リタイヤの多いセナに対し、安定してポイントを積み重ねた為、第9戦西ドイツGP終了時点では17ポイントリードしていた。 |
| しかし当初から速さでは後塵を拝し(予選成績はアンジェリスの3勝13敗)、また第10戦オーストリアGP以降は、セナも5連続表彰台と安定して結果を残した為、最終的には5ポイント差で敗れている(セナのランキングは4位)。 |
| 入賞しても表彰台圏外でのフィニッシュが多かったアンジェリスに対し(表彰台は3回)、セナは5戦連続入賞も含めた6回の入賞時に、全て表彰台に上っており、また勝利数でも上回っていた(2勝)。 |
| この中で、チームは次第にセナに傾いていったとされ、結局この年を最後に6年間所属したロータスからブラバムへ移籍することとなった。 |
ブラバム時代
| 1986年のブラバムのマシン「BT55」は、車高を極限まで低くした特殊な形状だった。 |
| 安定性を高めることを狙った結果だったが、BMWのターボエンジンを傾け、ホイールベースを極端に長くせざるを得なくなる等、様々な面で支障をきたし、かえって安定性は低下。 |
| 扱いにくい上マシントラブルも続出し、アンジェリスは第4戦モナコGP終了時点でノーポイントだった。 |
| これらの状況を打開すべく、チームはモナコGPから3日後の5月14日に、フランスのポール・リカール・サーキットでの合同マシンテストに参加。 |
| しかしその最中に、高速S字カーブを走行中にリアウイングが突如脱落し、クラッシュ。 |
| 大きな事故であったにもかかわらず、この事故で受けた怪我後の検死によると、この時に負った傷は片方の鎖骨骨折のみだったとされている。 |
| 自体は致命傷にはならなかったが、救出の遅れにより出火したマシンに長時間取り残された為に一説には、不慣れなマーシャルが防火服を着用していなかった上に、気が動転していた為に必要以上に消火剤をマシンに浴びせてしまい、その勢いで火災の煙がコックピットに流れて充満し酸欠状態となった為と言われている。 |
| 書籍によっては、マーシャルが駆けつける際に消火器を忘れたとも記述がある。 |
| 「セナを殺した男たち」(ジョー・ホンダ、ベストセラーズ、1994年)pp.150、窒息し酸欠状態となってしまう。 |
| 病院に搬送されるも脳死状態となり、翌15日に死亡した。 |
| 葬儀はローマにて行われ、2万人の参列者が別れを告げたと言われている。 |
| この事故を契機として、テスト実施時においてもグランプリ開催時と同等の安全対策、マーシャルの配置がされるようになった。 |
| F1では1994年第3戦サンマリノGPを迎えるまで、死亡事故が起こることは無かった。 |
エピソード
| 新人の頃、イタリア人ドライバーだった事もあり、将来は繋がりの深かったフェラーリに行くのではないかと言われていた。 |
| しかしある時エンツォ・フェラーリの計らいでテストを受けた際、エンツォの勘気エンツォがチャンスを与える意味で受けさせたテストだったにもかかわらず、多額のサラリーを要求した為と言われている。 |
| を蒙ってしまい、フェラーリ入りが立ち消えてしまった。 |
| 後にアンジェリスは、この時の事をかなり後悔したという。 |
| ロータス時代にチームメイトだったマンセルは「エリオは本物の紳士だった。 |
| 最初は色々問題があったが後には友人になった」と評している。 |
| また、セナは後年にマクラーレンでゲルハルト・ベルガーと組んだ際、「チームメイトとこんなに良好な関係を築けたのはエリオ以来」と語っている。 |
| またピアノが得意だったことでも知られ、その腕前はプロ級だったという。 |
| 1982年のFISA・FOCAの争いの最中、それに対するべくドライバー達が集まった際、諫めるように皆の前で演奏を披露したこともある。 |
| 喫煙や飲酒を普通にしていた。 |
| あるパーティの席上でタバコを吸いながら酒を飲むアンジェリスに知人がその事を指摘したが、「君、人生にはこんな楽しいことだってあるんだよ」と笑って反論したという。 |
| ジャン・アレジはアンジェリスを尊敬しており、ヘルメットはアンジェリスのものにアレンジを加えたデザインを使用している。 |
| 妹のファビアーナは、アンジェリスの死後レーサーのロス・チーバーと結婚したが、後に離婚している。 |
| ロータス時代後期のアンジェリスはチームマネージャーのピーター・ウォーによってチームメイトのマンセルとは微妙な関係になったが、それでも1985年にウィリアムズに移籍したマンセルがフランスGPの予選中にクラッシュ、病院へ搬送されたとき、そのマンセルの安否を気遣って病院へ電話をかけてきたのがアンジェリスだった。 |
| そのためアンジェリスの事故死に対してマンセルは「彼は友人だった」と元チームメイトに対し哀悼の言葉を述べた。 |
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1977年
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18歳でイタリアF3・ヨーロッパF3に参戦 |
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1979年
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20歳でシャドウよりF1デビュー、チームメイト... |
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