| 100px|thumb|エリーザベト王妃。 |
| 100px|thumb|ルートヴィヒ2世。 |
| エリーザベトは当時のヨーロッパ宮廷一といわれた美貌に加え、身長172cmと背が高く、ウエスト50センチで体重は50キロという驚異の体形の持ち主だった。 |
| 美貌と痩身であることに執念を燃やし過酷なダイエットや美容方法でそれを維持していたが、年を取るにつれて皺とシミだらけになった顔を分厚い黒のベールと革製の高価な扇や日傘で隠すようになり、それが彼女の晩年の立ち居振る舞いを表す姿として伝説となっている。 |
| 交友関係では、ヴィクトリア女王とは親しくなかったが、その息子のエドワード7世とは、ルドルフ皇太子と共に親しかったという。 |
| 他には、フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアンの妃で義妹のベルギー王女シャルロッテとの仲は険悪だったが、同名のルーマニア王カロル1世妃エリーザベト(カルメン・シルヴァの筆名で知られる)とは、ドイツ王家出身、皇后でありながら君主制・貴族制度の否定、王侯貴族に対する激しい憎悪、王侯貴族等の気に入らない人物に対する辛辣な批判、浪費癖、現実離れした夢想家、破綻した結婚への嫌悪感、宮廷での孤立、死への異常なまでの関心、詩作、古代ギリシア文化への傾倒等、数え切れない程多くの共通点があり親交があった。 |
| 彼女は詩人の中では、「革命詩人」と呼ばれるハインリッヒ・ハイネを好み、彼の事を深く尊敬し、「師」と呼んでいた。 |
| また、エリーザベトはハイネの作品を知り尽くしていて、専門家として彼女に教えを乞いに来る人もいた程だった。 |
| 従兄の子で「狂王」と呼ばれるバイエルン王ルートヴィヒ2世とも一時期親しかったという。 |
| 彼らは世間や堅苦しい宮廷を嫌って逃避行を繰り返し義務を放棄して快楽に耽り、精神を病んで奇行を連発する桁外れの浪費家同士で意気投合したとされるが、ルートヴィヒ2世は彼女に片思いをしていたため(ルートヴィヒ2世は同性愛者だったため、あくまでも純粋な友情に過ぎないとする説もある)、王の前途を心配したエリーザベトは妹のゾフィーと婚約させようと計画した。 |
| しかし、ルートヴィヒ2世は全く関心を示さず、婚約は破棄された。 |
| エリーザベトはこれに激怒し、二人の仲は険悪になり、それが後にルートヴィヒ2世急速に現実逃避を悪化させ国費を浪費する遠因になったとも考えられる。 |
| だがエリーザベトは、ルートヴィヒ2世が逝去した際にはたいへんなショックを受け、家族の皆が深刻に心配する程精神状態が悪化した。 |
| 1865年には、前年にエリーザベトの肖像画も描いた宮廷画家ヴィンターハルターから彼女の話を聞いたフランス皇后ウジェニーがエリーザベトに興味を持ち、翌年オーストリアのバート・キッシンゲンで保養に行く際に私的に表敬訪問したいと申し出たが、彼女は気乗りがしなかったらしくこの申し出を断っている。 |
| しかし1867年6月19日、ナポレオン3世がメキシコ皇帝の座に就けたマクシミリアンがケレタロで銃殺刑に処されたため、この年の8月にナポレオン3世とウジェニーが、オーストリアとの一種の調停訪問をもくろみ、ザルツブルクでの2人の美貌の皇后の対面が実現した。 |
| マクシミリアンの事があったため、ザルツブルク市民はフランス皇帝夫妻を冷ややかに迎えたが、2人の美しい皇后が見られるという事には大変関心を寄せた。 |
| そしていざ実物を見てみると、王族の出ではないウジェニーではあったが、エリーザベトの生まれつき兼ね備えた威厳と美しさに何ら遜色ないと市民達の目に映った。 |
| ただし保守的なザルツブルク市民達は、ウジェニーの服装が最新のパリ・モードにそってスカートの裾があだっぽく絡げてあるため、足がのぞいて見えるのをはしたない事と見なした。 |
| 2人の皇后が並んで立つと、長身のエリーザベトに比べ、ウジェニーの方がだいぶ小柄だったという。 |
| またエリーザベトはイギリスのアレクサンドラ妃の美貌と自身の美貌とどちらが優れているかを気にしていたが、実際はアレクサンドラは非常に背が低く胴長短足である上、首に醜い手術痕があり、頭には奇妙なへこみがある等、容姿はエリーザベトより劣っていた。 |
| しかしエリーザベトにも、面長で顎がしゃくれている点や、極端な撫で肩、鼻の穴が大きいヴィクトリア女王も「鼻の形は美しくない」と洩らしていた)、手足が丸太のように太いという欠点があった。 |
| 特に本人が最も気にしていたのは、歯並びが悪く黄ばんでいる事だった。 |
| 見合いの席でゾフィー大公妃はそれを指摘し、彼女に「歯を磨くように」と言いつけている。 |
| エリーザベトはそれを気にするあまり、毎日懸命に歯を磨き、人前では常に口をきつく結んで殆ど話さず、話す時には扇子で口を隠していた。 |
| しかし、肖像画ではれらの欠点は見事に隠され、美化されている。 |
| 夫のフランツ・ヨーゼフに宛てて書いた手紙の確かにヴィクトリア女王はとても親切な方でした。 |
| でも、私にとっては得体が知れないのです…という言葉からわかるとおり、エリーザベトは人の好き嫌いが激しく気難しい性質だったので、ゾフィー大公妃の選んだ気に入らない女官を全員解雇して周囲をお気に入りのハンガリー人侍女のみで固め、女官には徹底的に控えめに振舞う事、ウィーンから離れた生活に耐え自分の旅行について来続ける事、数時間ぶっ続けの激しい速歩について来続ける事、生涯独身を貫く事等を要求した。 |
| また自分とは正反対の、良妻賢母として知られる女帝マリア・テレジアを敬愛し、病人や障害者、貧しい民衆に同情するなどの一面もあったが、最後まで皇后・妻・母としての役目を果たすことを一切放棄かつ拒否し続け、欲望のままに放縦な生活を送り続けた。 |
| エリーザベトの贅沢ぶりは凄まじく、宝石・ドレス・名馬の購入、若さと美しさを保つ為の桁外れの美容への出費、ギリシアのコルフ島に絢爛豪華な城「アキレイオン」の建設、彼女個人あるいは皇室の所有するあらゆる宮殿・城・別荘の増改築、彼女専用の贅を尽くした船や列車を利用しての豪華旅行等を税金で行っていた。 |
| たが、生来の気まぐれな性質から一箇所にとどまる事ができず、乗馬や巨費を投じて建てたアキレイオン等にもすぐに飽きてしまった。 |
| 皇后でありながら君主制を否定した「進歩的な女性」と評されることもあるエリーザベトだが、実際の彼女は尊大、傲慢、狭量かつ権威主義的であるのみならず、皇后・妻・母としての役目は全て放棄かつ拒否しながら、その特権のみほしいままに享受し続け、皇后としての莫大な資産によってヨーロッパ・北アフリカ各地を旅行したり法外な額の買い物をしたりする等、自己中心的で傍若無人な振る舞いが非常に多かった。 |
| 当時のベルギー大使夫人は、この女性は本当に狂っています。 |
| こんな皇后がいるのにオーストリアが共和国にならないのは、この国の国民がまだ寛大だからですと書いている。 |
| ただしハンガリー統治に関しては非常な関心と情熱を傾けたため、過去に近隣の大国に翻弄され、分割・被支配と様々な苦難の歴史をたどったハンガリーが現在平和な独立国家となった礎を築いた人物として、今もハンガリーの人々には慕われている。 |