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つながりの強いひと
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コービー・ブライアント
アメリカ合衆国のバスケットボール選手。ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。北米プロバスケットリーグNBAのロサンゼルス・レイカーズに所属。ポジション... |
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デレック・フィッシャー
デレック・フィッシャー(DerekLamarFisher,1974年8月9日-)はアメリカ合衆国のバスケットボール選手。アーカンソー州リトルロック出身。185cm、95kg。NBAの... |
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プロフィール
- エルジン・ベイラーとは
- 生い立ち
- 大学キャリア
- ミネアポリス・レイカーズ (1958 - 1960)
- 新天地と盟友
- 宿敵と61
- 悲鳴をあげる肉体
- コーチキャリア
- 業績
- エピソード
- 関連サイト
エルジン・ガイ・ベイラー(ElginGayBaylor、1934年9月16日-)はアフリカ系アメリカ人の元バスケットボール選手。ワシントンD.C.出身。身長196cm、体重102kg。1960年代、アメリカ男子プロバスケットボールリーグNBAの名門、ロサンゼルス・レイカーズで活躍した、史上最高のスモールフォワードの一人と目される往年の名選手である。シアトル大学でプレーした後、1958年のNBAドラフトで全体1位指名を受けてレイカーズに入団。以後、新人王受賞、オールNBA1stチーム選出10回、NBAオールスターゲーム出場11回を誇るリーグを代表する選手として活躍した。彼と ジェリー・ウェストを擁したレイカーズは強豪として60年代を過 ...
生い立ち
| エルジン・ガイ・ベイラーは1934年、ワシントンD.C.の貧しい家庭に生まれた。 |
| 人種隔離政策が敷かれていた1930年代当時のアメリカの首都では、公共のプレーグラウンドでもアフリカ系アメリカ人の立入が厳しく制限されていたため、ベイラーがバスケットボールを始めることができたのは10代になってからだった。 |
| サウスウエスト・ボーイズクラブ、ブラウン中学校を経て、フェルプス高校に進学。 |
| 同校には1952年まで在籍し、1年生時には平均18.5得点、2年生時には平均27.6得点を記録。 |
| カートーゾ高校との試合では44得点をあげている。 |
| コート上では華やかな成績を収めていたベイラーだが、学業面では順調とは言い難く、1952年にフェルプス高校を中退。 |
| 家具店で働く傍ら、地域のレクリエーション・リーグでバスケットをプレーした。 |
| 1953年、新設したスピンガーン高校に編入。 |
| 6フィート5インチ(約196cm)、190ポンド(約86kg)の逞しい青年に成長した姿で再び高校バスケットのコートに現れたベイラーは、黒人としては初めてオール・メトロポリタンチームに選出され、さらに地区の年間最優秀選手にあたるSSAリビングストーントロフィーを受賞した。 |
| ベイラーはインターハイ2部リーグの8試合で平均36.1得点をあげ、また1954年2月3日に行われた古巣のフェルプス高校との試合では彼の得点力が爆発。 |
| 前半だけで31得点をあげ、後半には4ファウルを犯し、あとファウル一つで退場という状況の中でさらに32得点を追加。 |
| 最終的にはコロンビア特別区新記録となる63得点を記録した。 |
大学キャリア
| 素晴らしい成績を残して1954年にスピンガーン高校を卒業したベイラーだったが、学業での不振が祟り、バスケット名門大学からの勧誘は皆無だった。 |
| しかしスポーツ無名校のアイダホカレッジ(:en:AlbertsonCollegeofIdaho)からはバスケットとフットボールで奨学金を獲得。 |
| ベイラーはアイダホカレッジでの1954-55シーズンに平均31.3得点18.9リバウンドという成績を残すが、1954‐55シーズン終了後、アイダホカレッジはスポーツ奨学生への支援を縮小し、バスケットコーチも解雇。 |
| そのあおりを受けたベイラーもアイダホカレッジを去らなければならなくなった。 |
| ところがこの中退が、ベイラーにとっては思わぬ幸運となった。 |
| 翌1955-56シーズンをシアトルのアマチュア・アスレチック・ユニオンチーム、ウエストサイド・フォードで過ごしたベイラーは、ここでの活躍がスカウトの目に留まり、シアトル大学への編入が決定。 |
| 無名校のアイダホカレッジよりも遥かに格上のシアトル大でプレーするという大きなチャンスに恵まれたのである。 |
| ベイラーはカレッジバスケのトップリーグでも大いに活躍。 |
| 1956-57シーズンは平均29.7得点20.3リバウンドを記録。 |
| 平均32.5得点19.3リバウンドを記録した1957‐58シーズンにはシアトル大チーフタンズをNCAAトーナメント決勝へと導いた。 |
| 決勝では伝説の名将、アドルフ・ラップ指揮するケンタッキー大学と対決。 |
| シアトル大は72-84で敗退するが、ベイラーはトーナメントMVPにあたるMostOutstandingPlayerを受賞した。 |
| シアトル大での2年のプレーで一気に名を挙げたベイラーはついにプロのスカウトからも注目を浴びるようになり、1958年のNBAドラフトではミネアポリス・レイカーズ(後のロサンゼルス・レイカーズ)から全体1位指名される。 |
| ベイラーは1955-56シーズンを大学でプレーしていないため、まだ1年間大学でプレー出来る資格を持っており、ベイラー自身シアトル大に残るつもりだった。 |
| しかしNBA最初期の1940年代後半から50年代前半にかけて5度の優勝を果たすも、偉大なセンター、ジョージ・マイカン引退後は成績が低迷し、フランチャイズ崩壊の危機に陥っていたレイカーズは、何としてもベイラーと契約を結びたかった。 |
| レイカーズはベイラーを熱心に勧誘し、当時としては破格の年2万ドルという契約を提示。 |
| 彼らの熱意についに折れたベイラーは、1958-59シーズンからのレイカーズ入団を決意した。 |
| 当時のレイカーズのオーナー、ボブ・ソートは1971年のロサンゼルスタイムズ紙のインタビューで、もしベイラーを獲得できなかったら「クラブは破産していただろう」と語っている。 |
| ベイラーの同期にはハル・グリア、ガイ・ロジャーズ、ウェイン・エンブリーらがいる。 |
ミネアポリス・レイカーズ (1958 - 1960)
| ベイラーのプロデビューは華々しいものだった。 |
| ベイラーはルーキーイヤーとなる1958-59シーズンにリーグ第4位となる平均24.9得点、第3位となる15.0リバウンドを記録。 |
| アシストでも高水準の平均4.1アシストと、彼のオールラウンドな才能を遺憾なく発揮した。 |
| NBAオールスターゲームにも選ばれ、24得点11リバウンドをあげてオールスターMVPをボブ・ペティットと共同受賞。 |
| 当然のように新人王を受賞すると共に、オールNBA1stチームにも選出され、早くもリーグ最高峰の選手の一人として認められた。 |
| 前年19勝53敗に沈んだレイカーズもベイラーの活躍で33勝39敗まで大幅に勝率を回復させた。 |
| プレーオフでは1回戦でデトロイト・ピストンズを2勝1敗で破ると、デビジョン決勝にて今後NBAファイナル進出を賭けて幾度となく争うことになるボブ・ペティット擁するセントルイス・ホークスと対戦。 |
| 前年プレーオフ進出すら逃したレイカーズは前年チャンピオンチームのホークスを4勝2敗で破るという波乱を巻き起こし、ついにファイナル進出を果たして、ボストン・セルティックスとの初対決を迎えた。 |
| こうしてNBA史上最大の闘争として名高いレイカーズとセルティックスのライバル関係は始まったが、同時にベイラーの計8回にも及ぶファイナル敗退も始まった。 |
| レイカーズはビル・ラッセル、ボブ・クージー、ビル・シャーマンらを擁する磐石のセルティックスに屈辱の4戦全敗を喫したのである。 |
| 翌1959-60シーズンを控えて、フロント陣はレイカーズをよりベイラーに適したチームにするため、ベイラーにとってはシアトル大時代の恩師であるジョン・カステラーニをヘッドコーチに抜擢。 |
| 黄金期のレイカーズの主力選手の一人だったヴァーン・ミッケルセンは引退し、ドラフトではルディー・ラルッソを指名。 |
| シーズン中にもディック・ガーメイカーやラリー・ファウストらを放出した。 |
| しかしベイラーは軍の召集のために夏のトレーニングキャンプには不参加となってしまい、準備不足のまま新シーズンを迎えた新生レイカーズはシーズン序盤から大きく負け越し、カステラーニはシーズン中にコーチを解任され、後任にはジム・ポラードが就いた。 |
| 結局レイカーズは前年度割れの25勝50敗に終わったが、ベイラーは好調で仇敵セルティックス戦では当時のリーグ記録だったジョー・ファルクスが保持する1試合63得点を破る64得点をあげた。 |
| 個人成績は平均29.6得点16.4リバウンド。 |
| 通算2,074得点は従来なら得点王に輝いてもおかしくない成績だったが(当時のスタッツリーダーは平均ではなく通算で決められていた)、この年に怪人、ウィルト・チェンバレンがNBAデビューを飾り、37.6得点という前代未聞の数字を残して得点王の座をさらった。 |
| 以後もベイラーは得点やリバウンドで高い数字を記録していくが、同時代にこのチェンバレンやビル・ラッセルらが存在したため、ついぞスタッツリーダーを獲得することはなかった。 |
| レギュラーシーズンのチーム成績は低迷したレイカーズだったが、プレーオフでは、1回戦で上位シードのピストンズを2戦2勝で破り、デビジョン決勝ではホークス相手に第7戦まで粘るという健闘を見せ、ベイラーはポストシーズン中に平均33.4得点を記録した。 |
新天地と盟友
| シーズン終了後にチームオーナーのボブ・ソートはフランチャイズをミネアポリスからロサンゼルスに移転することを決定。 |
| これによりレイカーズはアメリカ西海岸初のNBAチームとなり、NBAは名実共に全米規模のプロリーグとなった。 |
| レイカーズはこの大都市ロサンゼルスに根を下ろすことで大きく発展していくことになるが、西海岸のバスケットファンにいち早くNBAとレイカーズの存在を認めさせるうえで、ベイラーというスター選手の存在は欠かせなかった。 |
| そしてレイカーズはロサンゼルスへの移転に先立って、1960年のNBAドラフトでさらにもう一人のスター選手の獲得に成功する。 |
| 後にザ・フォーラムの英雄となる全体2位指名されたウェストバージニア大学出身のジェリー・ウェストは、ベイラーにとっても得難い盟友となった。 |
| またチーム移転と同時にジム・ポラードは解任され、代わりにフレッド・シャウスが新ヘッドコーチに就任した。 |
| ロサンゼルスへの移転と共にベイラーは全盛期を迎える。 |
| 1960-61シーズン序盤の11月1日、ニューヨーク・ニックス戦では71得点25リバウンドを記録。 |
| 28本のフィールドゴールと15本のフリースローを決めた71得点は自身が保持する記録を更新するNBA新記録となった。 |
| 翌シーズンにはウィルト・チェンバレンが同じニックス相手に100得点という金字塔を達成するが、ニックス所属のリッチー・ゲリンは後に振り返って「断然エルジンのパフォーマンスの方が素晴らしかった」「ウィルトの試合では、彼ら(チェンバレンが所属するフィラデルフィア・ウォリアーズのチームメート)がウィルトのために記録を作ろうとしていた。 |
| エルジンの71得点は誰の手も借りてない。 |
| 彼は自然の成り行きで得点していたんだ」と語っている。 |
| シーズン成績はチェンバレンに次ぐリーグ2位となる平均34.3得点、リーグ4位となる19.8リバウンド(ベイラーのキャリアハイ)、リーグ8位となる平均5.1アシストだった。 |
| ベイラーの大車輪の活躍とウェストの加入でチーム成績も上向き、前年より11勝分増の36勝43敗を記録。 |
| プレーオフ1回戦ではお馴染の相手、ベイリー・ハウエル擁するデトロイト・ピストンズを3年連続で破り、デビジョン決勝にてやはりお馴染み、3年連続の対戦となるセントルイス・ホークスと対決。 |
| この年も第7戦までもつれた末に3勝4敗で惜敗したが、レイカーズは1シーズンで早くもロサンゼルスのファンやハリウッドスターの心を掴み、当時のホームアリーナ、ロサンゼルス・メモリアル・スポーツ・アリーナのコートサイドにはドリス・デイやダニー・トーマス、ダイナ・ショア、パット・ブーンら著名人らの姿が見られるなど、レイカーズのロサンゼルス移転は大成功となった。 |
宿敵と61
| 翌1961-62シーズンも引き続きベイラーは好調を維持。 |
| ベイラーのキャリアにおいてハイライトの一つにあげられる12月8日のフィラデルフィア・ウォリアーズ戦では、フィラデルフィアの怪物、チェンバレンがベイラーの記録を破る78得点をあげたのに対し、負けじとベイラーも63得点31リバウンドをあげ、トリプルオーバータイムの末にレイカーズを勝利に導いた。 |
| ベイラーはこの時正に全盛期の只中に居たが、この貴重な時期をベイラーは「軍の召集」によって奪われ、ベイラーは平日の大半をワシントン州フォートルイスにある陸軍基地で過ごし、レイカーズの試合には週末だけ出場することになった。 |
| フォートルイスとロサンゼルスをバスで行き来する日々を強いられたベイラーだったが、試合では移動と二重生活の疲れを微塵も見せず、シーズン成績は平均38.3得点(キャリアハイ)18.6リバウンド4.6アシストという素晴らしい数字を記録。 |
| ベイラーは48試合の出場に留まったものの4年連続となるオールNBA1stチームに選ばれ、同時にウェストも1stチーム入りを果たしている。 |
| 前回の対戦、ほぼベイラーのワンマンチームだったレイカーズは成す術なくセルティックスの前に散ったが、ウェストという強力な新戦力を得た今回、レイカーズは王者セルティックス相手にも堂々と渡り合った。 |
| ボストンでの最初の2試合を1勝1敗で切り抜けたレイカーズは、15,180人という当時としては記録的な観衆が詰め掛けたロサンゼルスのスポーツ・アリーナでの試合では、同点で迎えた残り時間3秒で、ウェストがスティールからの劇的な決勝ブザービーターを決め、117-115でレイカーズが勝利。 |
| レイカーズはファイナルで初めてセルティックスに対し1勝分リードしたが、続く第4戦はセルティックスが勝利し、2勝2敗でボストン、ザ・ガーデンでの第5戦を迎える事になった。 |
| 61得点は当時のプレーオフ新記録であり(現在はマイケル・ジョーダンの63得点に次ぐ歴代2位)であり、今もなお破られていないファイナル史上歴代1位の記録である。 |
| この日、ベイラーとマッチアップしたディフェンスの名手サッチ・サンダースは「まるで機械のようだった」とベイラーのプレーに舌を巻いたが、当の本人は試合後のインタビューで「覚えているのは試合に勝ったことだけ。 |
| ベイラーの圧倒的なプレーで重要な第5戦を126-121で勝利したレイカーズは、ついにファイナル制覇に王手を掛けたが、しかしロサンゼルスに戻った第6戦を落としてしまい、天王山の第7戦を敵地ボストンで迎えた。 |
| 絶対に負けられないこの試合でベイラーは奮戦し、セルティックスが誇るトム・ヘインソーン、サッチ・サンダース、ジム・ロスカトフら3人の好フォワードのマークを物ともせずに次々と得点をあげ、ついにはヘインソーンをファウルアウトに追いやった。 |
| 軍から解放された1962-63シーズン、ベイラーは80試合全てに出場し、平均34.0得点(リーグ2位)14.3リバウンド(同5位)4.8アシスト(同6位)、FT成功率83.7%(第3位)を記録。 |
コーチキャリア
| ベイラーは1974年からニューオーリンズ・ジャズのヘッドコーチに就任し、スコッティ・ロバートソンの解任に伴って、1試合だけ臨時ヘッドコーチとして指揮をとり、現役時代にレイカーズのヘッドコーチだったブッチ・ヴァン・ブレダ・コルフに引き継いだ。 |
エピソード
| ベイラーらレイカーズ一行が、エキシビジョンゲームのためにレイカーズ所属のホッド・ロッド・ダンドリーの故郷、チャールストン(ウェストバージニア州)に訪れた際には、ベイラーにブー・エリス、エド・フレミングの3人の黒人選手がホテルへの宿泊やレストランでの食事を拒否された。 |
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1934年
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ワシントンD.C.の貧しい家庭に生まれたエルジ... |
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1954年
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スピンガーン高校を卒業したベイラーだったが... |
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エルジン・ベイラーさんについてのひとこと紹介
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