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ヴィルヘルム・カイテル
ドイツの軍人。第二次世界大戦中に国防軍最高司令部(OKW)総長を務めた。軍における最終階級は元帥。 |
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ヘルマン・ゲーリング
ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(HermannWilhelmGöring1893年1月12日‐1946年10月15日)はドイツの政治家、軍人。ナチ党政権下のドイツにおいて、ヒトラ... |
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ラインハルト・ハイドリヒ
ナチス・ドイツ期のドイツの政治家。国家保安本部(RSHA)の初代長官。ドイツの政治警察権力を一手に掌握し、ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊の実力者とな... |
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アルフレート・ヨードル
ドイツの軍人。第二次世界大戦時に国防軍最高司令部作戦部長の地位にあり、陸海空三軍の調整役を務めた。1945年5月7日にドイツ降伏文書の調印を行った。戦後... |
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ユリウス・シュトライヒャー
ユリウス・シュトライヒャー(JuliusStreicher、1885年2月12日–1946年10月16日)は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に所属していたドイツの政治家。反ユダ... |
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アルフレート・ローゼンベルク
アルフレート・ローゼンベルク(AlfredRosenberg,1893年1月12日-1946年10月16日)はドイツの政治家、思想家。国家社会主義ドイツ労働者党対外政策全国指導者... |
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ヴィルヘルム・フリック
ドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)国会議員団長、テューリンゲン州内相兼教育相、ドイツ国内相、ベーメン・メーレン保護領総督を歴任し... |
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ハインリヒ・ヒムラー
ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(HeinrichLuitpoldHimmler、,1900年10月7日-1945年5月23日)はドイツの政治家。1929年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナ... |
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ハンス・フランク
ハンス・ミヒャエル・フランク(HansMichaelFrank,1900年5月23日-1946年10月16日)はドイツの法律家、政治家。国家社会主義ドイツ労働者党司法全国指導者。バ... |
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ルドルフ・ヘス
ルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘス(,1894年4月26日-1987年8月17日)はドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党副総統(総統代理、指導者代理とも... |
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アドルフ・アイヒマン
ドイツの警察官僚。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐(SS-Obersturmbannführer)。ナチ政権によるユダヤ人... |
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宮尾すすむ
日本のタレント。本名は山口進(やまぐちすすむ)。 |
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高幹
中国の後漢時代末期の武将または政治家。字は元才。兗州陳留郡圉県の人(『三国志』魏書高柔伝より)。高固の玄孫、高慎の曾孫、高賜の孫、高躬の子、魏将安... |
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ヨアヒム・フォン・リッベントロップ
ウルリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(UlrichFriedrichWilhelmJoachimvonRibbentrop、1893年4月30日-1946年10月16日... |
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アルベルト・シュペーア
ナチス・ドイツの建築家、政治家。「アルバート・シュペーア」、「アルベルト・シュペール」などとも表記される。ヒトラー政権のもとで軍需大臣を務め、終身... |
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マルティン・ボルマン
マルティン・ルートヴィヒ・ボルマン(MartinLudwigBormann,1900年6月17日-1945年5月2日)はドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)官房長で... |
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アルトゥール・ネーベ
ナチス・ドイツの刑事警察(クリポ)の長官。親衛隊(SS)隊員であり、最終階級は親衛隊中将(SS-Gruppenführer)。反ナチ運動を取り締まる立場でありながら... |
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クルト・ダリューゲ
ドイツの政治家。秩序警察(OrPo)初代長官、第2代ベーメン・メーレン保護領副総督。親衛隊(SS)の高官であり、最終階級は親衛隊上級大将(SS-Oberstgruppen... |
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プロフィール
- エルンスト・カルテンブルンナーとは
- 前半生
- オーストリア・ナチ時代
- オーストリア併合
- オーストリア併合後
- 国家保安本部長官
- ヒトラー暗殺未遂事件
- 大戦末期
- 捕虜
- ニュルンベルク裁判
- 処刑
- 関連サイト
エルンスト・カルテンブルンナー(ErnstKaltenbrunner,1903年10月4日-1946年10月16日)は、オーストリア及びドイツの法律家、政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の組織親衛隊(SS)の幹部。オーストリア親衛隊及び警察高級指導者(HSSPF)を経て、 ラインハルト・ハイドリヒの死後の1943年に国家保安本部(RSHA)長官となり、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅政策の執行にあたった。ドイツ敗戦後にニュルンベルク国際軍事裁判において戦争犯罪人として起訴され、死刑宣告を受けて絞首刑に処せられた。最終階級は親衛隊大将、武装親衛隊大将及び警察大将。
前半生
| 1903年、オーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州の工業都市リート・イム・インクライス(:de:RiedimInnkreis)に生まれる。 |
| 父は弁護士のフーゴ・カルテンブルンナー(HugoKaltenbrunner)。 |
| 母はその妻テレーゼ(Therese)。 |
| カルテンブルンナー家はカトリック家庭で祖父の代から弁護士だった大野(2001)、p.232パーシコ(1996)、上巻p.216。 |
| 7歳までラープで育ち、1913年にリンツの実科ギムナジウムに入学。 |
| ギムナジウム在学中に汎ゲルマン主義的で反教権主義的なブルシェンシャフト「ホーエンスタウフェン」に加入している。 |
| またこのギムナジウムにはアドルフ・アイヒマンも通っており、二人は友人だったヴィストリヒ(2002)、p.40 |
| 1921年秋にグラーツのグラーツ工科大学に入学した。 |
| はじめ化学を専攻したが、1923年に法学に転じたYerger(2002)、p.135。 |
| 1926年夏に法学博士の学位を取得している。 |
| カルテンブルンナー本人によれば彼の大学生活は、炭鉱で夜勤をしながらの苦学だったといい、しばしば自分が労働者の友である事を強調していた。 |
| 大学在学中にブルシェンシャフト「アルミニア」に加わっている大野(2001)、p.233。 |
| カルテンブルンナーは熱心な活動家であり、団体の中心的役割を占めた。 |
| 汎ゲルマン主義、反教権主義、反ユダヤ主義、反自由主義思想などに影響され、ドイツ人によるドイツ・オーストリア統一を目指した。 |
| 1926年にグラーツからリンツへ移り、リンツ地方裁判所において司法官試補の研修を受けた。 |
| 1928年には弁護士の事務所に就職した大野(2001)、p.234。 |
オーストリア・ナチ時代
| 1928年に国粋主義的体操クラブ、1929年に護国団の準軍事活動に参加した大野(2001)、p.234。 |
| しかしこれらの団体はカルテンブルンナーの主目的であったドイツによるオーストリア併合に充分熱心とは言えなかったため、彼は1930年10月18日にオーストリアの国家社会主義ドイツ労働者党に入党した。 |
| さらにヨーゼフ・ディートリヒの勧めで1931年8月31日に親衛隊に入隊した(隊員番号13039)大野(2001)、p.234-235。 |
| オーストリアの親衛隊部隊はオーストリア・ナチ党の指揮下ではなく、ドイツの親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの直接指揮下にあった大野(2001)、p.236。 |
| 1932年から父の法律事務所で働き、ナチ党員の無料弁護活動に奉仕した。 |
| 1933年にドイツでナチ党が政権を取ると、オーストリアでもナチ党の活動が活発となり、政府の警戒心が高まり、1933年6月にエンゲルベルト・ドルフース首相によってオーストリアナチ党は禁止された。 |
| ドルフースはナチ党員を逮捕して強制収容所へ入れた。 |
| カルテンブルンナーは1934年1月14日にはエリーザベト・エーデル(ElisabethEder)と結婚したが、この翌日にナチ党員として逮捕され、カイザーシュタインブルッフ収容所に収容された大野(2001)、p.237。 |
| 同年4月まで収容されていた。 |
| 1934年6月15日にリンツの親衛隊第37連隊(37.SS-Standarte)司令官に任じられた大野(2001)、p.238Yerger(2002)、p.189。 |
| 1935年5月に国家反逆罪で再逮捕されたヴィストリヒ(2002)、p.41。 |
| 禁固6ヶ月に処されるとともに弁護士資格をはく奪された大野(2001)、p.238-239。 |
| ヒムラーはそれでもカルテンブルンナーにオーストリアに留まるよう命じ、1935年6月15日に彼を第37連隊司令官から親衛隊地区VIII区(本部リンツ)司令官に昇進させた(1938年3月12日まで在職)大野(2001)、p.239Yerger(2002)、p.130。 |
| カルテンブルンナーはしばしばリンツから密入国でドイツに入り、ヒムラーやSD長官ラインハルト・ハイドリヒ、SD外国部長ハインツ・ヨストなどに報告を行った。 |
| 1936年以降、ドイツの「オーストリア救済事業局」から資金の流れる救済事業局基金を非合法で設置し、オーストリアの地下運動指導者にその資金を配分し、彼らを通じてドイツ政府からの秘密指令を伝達した。 |
| 1936年7月11日に駐ウィーン・ドイツ公使フランツ・フォン・パーペンの仲介でオーストリア首相クルト・シュシュニックとドイツ総統アドルフ・ヒトラーの間に協定が成立した。 |
| ヒムラーからオーストリアの親衛隊にこの協定を破壊するような活動をしないよう命令が下り、1937年1月20日に急進派を抑えられる者としてカルテンブルンナーがオーストリア全域の親衛隊の総指揮者である親衛隊上級地区「エスターライヒ(オーストリア)(Österreich)」の司令官に任じられた大野(2001)、p.240Yerger(2002)、p.86。 |
| カルテンブルンナーはオーストリアナチ党の中でケルンテンの党指導者フリードリヒ・ライナー(de)に近い立場を取っていた。 |
| すなわちシュシュニックがナチ党を合法化する見込みはなく、したがって非合法活動からの完全な撤収には反対するという立場だった。 |
| しかしライナーとカルテンブルンナーは、ヒムラーからの要請を受けいれて、穏健派のアルトゥール・ザイス=インクヴァルトの立場を支持するに至った大野(2001)、p.241-242。 |
| カルテンブルンナーらはザイス=インクヴァルトと対立するナチ党下オーストリア大管区指導者ヨーゼフ・レオポルト(de)らを失脚させる事に成功し、オーストリア・ナチ党の党内抗争に勝利した大野(2001)、p.242。 |
オーストリア併合
| 1938年2月12日に行われたベルヒテスガーデンでのヒトラーとシュシュニックの会談に基づき、2月16日にザイス=インクヴァルトがオーストリア内相に任命されたヴィストリヒ(2002)、p.87阿部(2001)、p.354。 |
| しかしシュシュニックはなおもオーストリア独立にこだわったので、ヒトラーは、3月11日午前2時頃にドイツ軍部隊を国境に出動させた。 |
| ヒトラーやヘルマン・ゲーリングからの要求で同日午後7時にシュシュニックは首相を辞任し、ヴィルヘルム・ミクラス(de)大統領は後任としてザイス=インクヴァルトを首相に任命した阿部(2001)、p.357。 |
| ザイス=インクヴァルト新首相はシュシュニック時代からの保安担当国務長官(StaatssekretärfüröffentlicheSicherheit)ミヒャエル・スクーブル博士(de)を留任させたが、ヒムラーから介入があり、スクーブルは辞職することになり、カルテンブルンナーがその後任となった大野(2001)、p.244。 |
| 3月13日にはオーストリアで「オーストリアとドイツ国との再統一に関する法律(合併法)」が制定され、オーストリアはドイツのオストマルク州となった。 |
オーストリア併合後
| 1938年3月13日のオーストリア併合後もオストマルク州国家代理官となったザイス=インクヴァルトのもとで1938年8月までオストマルク保安担当国務長官を引き続き務めた。 |
| ヒムラーの命令でリンツの東方約20キロの場所に作られたマウトハウゼン強制収容所の創設に関与した。 |
| またオーストリアのゲシュタポ組織の創設にも関与した。 |
| 1939年1月にはドイツ国会の国会議員となる。 |
| また1938年3月に併合とともに親衛隊上級地区「エスターライヒ」の本部をリンツからウィーンに移し、続いて1938年5月には親衛隊上級地区「ドナウ」と名称を変更させたYerger(2002)、p.85。 |
| 1938年9月11日にウィーンに本部を置く「ドナウ」親衛隊及び警察高級指導者職も与えられたYerger(2002)、p.36。 |
| カルテンブルンナーが務める親衛隊上級地区「ドナウ」指導者と「ドナウ」親衛隊警察高級指導者は、はじめオーストリア全域の親衛隊と警察を支配する職位であったが、1939年にオーストリア地域の親衛隊と警察を二分割する再編成があり、「ドナウ」から分かれて「アルペンラント」という親衛隊及び警察高級指導者職と親衛隊上級地区が新設された。 |
| これによりザルツブルク、ティロル、フォアアールベルク、ケルンテン、シュタイアーマルク、ブルゲンラント南部は「アルペンラント」の管轄となった。 |
| ウィーン、オーバーエスターライヒ、ニーダーエスターライヒ、ブルゲンラント北部の親衛隊と警察のみがカルテンブルンナーの「ドナウ」の所管となった大野(2001)、p.246Yerger(2002)、p.37/83。 |
| 親衛隊及び警察高級指導者は、ハインリヒ・ヒムラーの親衛隊全国指導者、全ドイツ警察長官の地位を地域レベルで代行する職位であるので理論上はその管轄地域の親衛隊と警察に最高指揮権があるはずだが、ラインハルト・ハイドリヒの保安警察やクルト・ダリューゲの秩序警察は地方に保安警察監察官や秩序警察監察官を設け、地元の保安警察や秩序警察の指揮を取らせていた。 |
| 保安警察監察官は保安警察長官(ハイドリヒ)、秩序警察監察官は秩序警察長官(ダリューゲ)に属し、親衛隊及び警察高級指導者の指揮下には事実上なかった。 |
| カルテンブルンナーの管轄する「ドナウ」でもこうした事態となり、カルテンブルンナーの地元の警察への指揮権はかなり制限されたものであった大野(2001)、p.246-247。 |
| ハイドリヒはオーストリア併合後すぐにウィーンにアドルフ・アイヒマンを派遣してユダヤ人国外移住本部を創設させ、オーストリア・ユダヤ人の国外追放を徹底的に行ったが、こうした活動にもカルテンブルンナーは一切関与していない大野(2001)、p.246。 |
| カルテンブルンナーは、親衛隊上級地区「ドナウ」指導者職と「ドナウ」親衛隊警察高級指導者職に国家保安本部長官の職務にあたるようになった1943年1月31日まで在職しているYerger(2002)、p.36/86。 |
国家保安本部長官
| 1942年6月4日に国家保安本部(RSHA)長官ラインハルト・ハイドリヒがチェコ人工作員の襲撃で負った傷が原因で死去した。 |
| その後、ハインリヒ・ヒムラーが国家保安本部長官を兼務していたが(国家保安本部長官代理にブルーノ・シュトレッケンバッハが任じられていた)、1942年12月10日にヒムラーはヒトラーの同意を得て、カルテンブルンナーを後任の国家保安本部長官に内定した大野(2001)、p.250。 |
| 1943年1月30日にカルテンブルンナーは国家保安本部長官に任命された。 |
| 1月31日にヒトラーがカルテンブルンナーの国家保安本部長官任命を発表した大野(2001)、p.251。 |
| これによって彼はゲシュタポ、刑事警察、親衛隊情報部(SD)、および東部戦線後方で敗戦までに100万人を殺害したアインザッツグルッペンなどの責任者となった。 |
| 人種再定住計画や「ユダヤ人問題の最終的解決」の執行者となった大野(2001)、p.252。 |
| カルテンブルンナーの督励により、ヨーロッパ中でユダヤ人狩りが組織的に実行され、数百万人が抹殺されたヴィストリヒ(2002)、p.41。 |
| カルテンブルンナーがこれまでの路線に変更を施したところといえば、1943年春と夏にこれまで絶滅政策の対象外となっていたテレージエンシュタット・ゲットーの「特権的ドイツ系ユダヤ人」たちも絶滅過程に組み入れることを決定したことがある大野(2001)、p.253。 |
| 1944年2月にはヴィルヘルム・カナリス提督の失脚に伴い、その指揮下だった国防軍諜報部「アプヴェーア」は、国家保安本部第VI局(局長ヴァルター・シェレンベルク)の下部組織にされた。 |
| 1944年3月には「弾丸布告(Kugel-Erlaß)」を発令した。 |
| これによりアメリカ人とイギリス人を除く逃亡した戦争捕虜は国家保安本部の保安警察とSDに引き渡され、マウトハウゼン強制収容所で銃殺されることとなった。 |
| カルテンブルンナーは1944年3月22日にハンガリーに赴き、新しい首相に立てられた親独派ストーヤイ・デメと会見した。 |
| その後も数日間ブダペストに留まり、ハンガリー当局とユダヤ人移送について協議し、実施の詳細についてはアドルフ・アイヒマンにゆだねた。 |
| アイヒマンの指揮のもとに1944年5月半ばから6月30日までのわずか一ヶ月半の間に38万1600人のユダヤ人がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ送られ、うち24万人がガス室へ送られて殺された大野(2001)、p.256-257。 |
| 1944年6月にはドイツを空爆した連合国パイロットの取り扱いについて国防軍最高司令部作戦本部長代理ヴァルター・ヴァルリモントと協議した。 |
ヒトラー暗殺未遂事件
| 250px|thumb|1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件で国家保安本部に逮捕された被告人が裁かれる人民法廷を傍聴するカルテンブルンナー。 |
| 1944年7月20日12時40分過ぎ、東プロイセン・ラステンブルクにあった総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」の会議室において、ヒトラーが将校たちと会議中に参謀本部大佐クラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵(国内予備軍参謀長)が仕掛けた時限爆弾が爆発した。 |
| ただちにゲシュタポ将校フンベルト・アッハマー・ピフラーダー親衛隊上級大佐(:de:HumbertAchamer-Pifrader)を国内予備軍司令部があるベントラー街国防省に派遣したが、ピフラーダーはシュタウフェンベルク達に拘束されてしまった。 |
| 彼らは「ヴァルキューレ作戦」に従ってベルリンの官庁街を動き回る国防軍軍人たちに対して何ら有効な手立てを打てなかったヘーネ(1981)、p.514。 |
| カルテンブルンナーはすぐにベントラー街に急行し、捜査を行うのでそれ以上独断の銃殺刑を執行しないようフロムに指示したマンベル(1972)、p.174。 |
| その後の捜査は国家保安本部を本拠として行われ、カルテンブルンナーが指揮を執ったグレーバー(2000)、p.228マンベル(1972)、p.186。 |
| 国家保安本部ゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラーの下に「1944年7月20日特別委員会」を創設させて捜査を開始させ、その調査結果をまとめて党官房長マルティン・ボルマンに提出した大野(2001)、p.258。 |
| そのうちローラント・フライスラーの人民裁判所へ送られて処刑された者の数は少なくとも200人に及ぶというマンベル(1972)、p.187。 |
大戦末期
| カルテンブルンナーは1945年3月半ばと4月半ばに独断で単独講和を企て、SD将校ヴィルヘルム・ヘットル親衛隊少佐(de)をスイスへ派遣してアメリカの情報機関OSS(CIAの前身)のヨーロッパ代表アレン・ウェルシュ・ダレスと交渉させるなどしている。 |
| しかし交渉は失敗に終わったヴィストリヒ(2002)、p.41大野(2001)、p.272ヘーネ(1981)、p.553。 |
ニュルンベルク裁判
| 被告人達の心理分析官グスタフ・ギルバート大尉はニュルンベルク裁判の被告全員を対象にウェクスラー・ベルビュー成人知能検査を行った。 |
| カルテンブルンナーのIQ値は113で、被告の中ではユリウス・シュトライヒャーに次いで低かったモズレー(1977)、下巻p.166。 |
| 裁判の開廷直前に彼はクモ膜下出血を起こして独房の中で卒倒し、病院へ担ぎ込まれたパーシコ(1996)、上巻p.176。 |
| 」「"弾丸布告"をはじめとする捕虜の虐待と殺害に関与した」として第三起訴事項「戦争犯罪」と第四起訴事項「人道に対する罪」について有罪としたマーザー(1979)、p.325パーシコ(1996)、下巻p.271。 |
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エルンスト・カルテンブルンナーさんについてのひとこと紹介
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