| ガロアが入学した当時、王政復古の影響もあって校長は保守的・宗教的であり、生徒達は校長にしばしば反抗した。 |
| このような校内の雰囲気が、ガロアの性格や思想に影響を与えたようである。 |
| 一方、学業においては入学した翌年の第3学年にはラテン語の最優秀賞やギリシア語の優秀賞を得るなど良好であった。 |
| しかし翌年の第2学年(フランスの学制では始業は9月からで、進級する度に3年、2年、1年と年次が減っていく)になると学業をおろそかにするようになり、また、健康上も優れていなかったので、校長からは第2学級をもう一度やり直した方が良いという意見が出された。 |
| 当初は予定通り修辞学級に進んだものの、やはり態度は改らず、結局2学期から留年することとなった。 |
| こう書くと、一方的にガロアのほうに問題があったように思われるが、修辞学級への進級に対する、校長の恣意的な条件づけにも問題があった。 |
| 父親からの強い抗議もあり、いちどは進級を認めたものの、体よく理由をつけて降級させたと見るのが自然である。 |
| そこで時間を持て余したガロアは、数学準備級の授業にも出席するようになった。 |
| 当時のフランスでは数学教育は重視されておらず、数学は将来の進む方向によって補習科で教えられていたのみだった。 |
| 当時の数学教師ヴェルニエは若く熱心であり、エウクレイデスからアドリアン=マリー・ルジャンドルに至るまでの幾何学を教えていた。 |
| ガロアの学友によれば、ガロアはルジャンドルが著した初等幾何学の教科書を読み始めたところ、すっかり熱中してしまい、2年間の教材を2日間で読み解いてしまったという。 |
| また同時に、彼は五次方程式の解法を発見したと錯覚し、凡庸な数学的才能しか持たないヴェルニエは対応に苦慮したようである。 |
| 記録によれば、ヴェルニエを初めとする教師のガロアへの評価は時間を経るごとに低下したようであり、また学校は「数学への熱狂に支配されている」と評価している。 |
| 1897年に『ガロア全集』に序文を加えたエミール・ピカールは、ガロアが数学の才能を開花させたことで「過度の自尊心が芽生えてしまった」と評している。 |
| また1828年理工科学校(''ÉcolePolytechnique'')の試験に挑戦したが、失敗している。 |
| 同年にはガロアは飛び級で数学特別級に進級した。 |
| この時修めた物理と化学では「少しも勉強しない」と酷評されている。 |
| 一方、数学ではルイ・ポール・エミール・リシャールという優れた教師に出会い、リシャールもガロアを高く評価した(リシャールは他にもユルバン・ルヴェリエ、シャルル・エルミート、ジョゼフ・セレーなどの才能も見出している)。 |
| またリシャールから代数方程式解法に関するジョゼフ=ルイ・ラグランジュの論文を薦められたようで、その影響で1829年4月1日に最初の論文「循環連分数に関する一定理の証明」(''Démonstrationd'unthéorèmesurlesfractionscontinuespériodique'')を発表している。 |
| 約1ヵ月後、ガロアは17歳の若さで素数次方程式を代数的に解く方法を発見し、その研究論文をオーギュスタン=ルイ・コーシーに預けフランス学士院に提出するように頼んだが、コーシーはそれを紛失してしまう。 |
| 1971年に数学史家ルネ・タトンが発見した書簡によれば、コーシーはガロアにその論文を学士院に発表すると約束しておきながら守らず、挙句に紛失してしまったので、1830年1月にガロアにもう一度論文を学士院に送るよう連絡した。 |
| ただし、この経緯には異説もあり、コーシーがガロアの理論を高く評価し、アカデミーの数学大賞を狙わせるために提出を引っ込めさせ、新たな論文を書かせたとする説もある。 |
| コーシーはその後、間もなく、政治状勢の変化からフランスに居づらくなって出国しているため、その支援をつづけられなかったとされる。 |
| さらに1829年7月2日、ガロアの父ニコラがパリのアパルトマンで自殺した。 |
| ガロアの親族がデュピュイに語った内容によると、当時は王政復古の影響で教会は保守的な勢力で占められ、教会の司祭たちは、自由主義的な思想の町長である父ニコラに対して何かと反発していた。 |
| そこで彼らは、ニコラの詩の文体を真似て卑猥な詩を作り、それがニコラのものであると言いふらした。 |
| その中には家族を傷つけるものもあった。 |
| ニコラは精神を病むにいたり、その結果自殺したという。 |
| 父を敬愛していたガロアにとっては当然この事件は深い傷となった。 |
| さらにその同月または1ヵ月後には、彼は再び理工科学校への受験に挑戦したが失敗した。 |
| 伝説によれば、この時の口述試験の担当者が対数に関する愚問をしつこく出し、ガロアの回答に満足しなかったために、頭に来たガロアがその試験官に向かって黒板消しを投げつけたという。 |
| 理工科学校は最も高等な数学が教えられ、さらに自由主義的な雰囲気に見ていたためにガロアは入学を切望していたが、その入学試験は2回までと制限されていたため、ガロアの望みは絶たれてしまった。 |
| 10月25日、ガロアはもう1つの有名な大学・教師予備校(''ÉcolePréparatoire''、後の高等師範学校)に受験し、入学が認められた。 |
| さらに12月には文科及び理科のバカロレアにも合格した。 |
| なお、理科の試験において、数学では10点満点中8点を与えられ、「才能に恵まれており、非常に注目すべき研究精神を持っている」と賞賛されたが、物理では「彼は全く何も知らず、とてもよい教師になれそうもない」と酷評されている。 |
| 1830年2月20日には学費支給を受ける代わりに、卒業後は10年間公教育のために働く旨の契約書を提出している。 |