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プロフィール
- エーリヒ・ルーデンドルフとは
- 生まれ
- 一次大戦前の軍歴
- リェージュ要塞攻略
- タンネンベルクの戦い
- 東部方面軍参謀長
- 参謀本部次長
- 大戦末期
- カップ一揆
- ミュンヘン一揆
- 政治活動
- 晩年
- 関連サイト
エーリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルーデンドルフ(ErichFriedrichWilhelmLudendorff,1865年4月9日-1937年12月20日)はドイツの軍人、政治家である。第一次世界大戦初期のタンネンベルクの戦いにおいて第8軍司令官 パウル・フォン・ヒンデンブルクを補佐してドイツ軍を勝利に導いた。大戦中期から後期には参謀本部総長となったヒンデンブルクの下で参謀本部次長を務め、「ルーデンドルフ独裁」とも呼ばれる巨大な実権を握った。最終階級は歩兵大将(GeneralderInfanterie)。戦後は アドルフ・ヒトラーと結び、 ミュンヘン一揆を起こした。『総力戦』の著者としても ...
生まれ
| ルーデンドルフはプロイセン王国が1793年から1919年まで統治したポーゼン州のシュヴェルゼンツ近くのクレシェフニア村(Kruszewnia)に地主アウグスト・ヴィルヘルム・ルーデンドルフ(AugustWilhelmLudendorff)とその妻クラーラ(Klara)(旧姓フォン・テンペルホーフ(vonTempelhoff))夫妻の息子として生まれた。 |
| 現在この地はポーランド領である。 |
| ルーデンドルフ家はポンメルンの商人の一族であり、ユンカーではなかったが、ブルジョワだった。 |
| 母親のフォン・テンペルホーフ家は有名なユンカー一家の出身であった。 |
| 母の家系はテンプル騎士団以来のプロイセン軍人家系であるゲルリッツ(1998)、p.284。 |
一次大戦前の軍歴
| 1877年にプレーン(de)の士官学校(Kadettenkorps)に入学し、ついで1879年7月よりベルリン・グロース・リヒターフェルデ(de)のプロイセン高級士官学校(de)に入学した |
| 1882年まで在学した |
| 1882年4月よりヴェーゼル(de)の第57歩兵連隊の少尉に任官した。 |
| 1887年から1890年にかけてヴィルヘルムハーフェン(de)で海軍の陸上部隊と共に任務にあたっていた。 |
| 1890年7月に中尉に昇進 |
| 1890年10月からプロイセン戦争大学(陸軍大学)(de)に入学した。 |
| 卒業後の1893年6月からバーデン近衛擲弾兵連隊「フリードリヒ・ヴィルヘルム3世」に勤務した。 |
| 1894年4月に参謀本部に配属される。 |
| 1895年3月に大尉に昇進するとともマグデブルクの第4軍団に参謀として配属された。 |
| 1898年4月にトルンの第61(第8ポンメルン)歩兵連隊「フォン・デア・マールヴィッツ」の中隊長、1900年7月にはグローガウの第7歩兵連隊の参謀、1902年7月にポーゼンの第5軍団の参謀に転属する。 |
| 1902年7月に少佐昇進。 |
| 1904年4月にベルリンの参謀本部の第2部(戦時中に作戦部(MilitärischePlannungsabteilung)となると定められていた部署)の部長に就任した。 |
| 1906年10月には戦争大学で教鞭をとった。 |
| 1908年4月に中佐に昇進するとともに参謀本部の第2部の部長に復帰した。 |
| 同年、工場所有者の娘マルガレーテ・シュミット(MargareteSchmidt)と結婚した。 |
| 1911年に第1部部長が「軍人より外交官にふさわしい」と評されたゲオルク・フォン・ヴァルテンゼー中将になったのを機にルーデンドルフの影響力が拡大し始めたゲルリッツ(1998)、p.225。 |
| 彼は一貫して「真の形態での戦争」を主張した。 |
| 平和とは二つの戦争に挟まれた休戦期間に過ぎず、全ての手段は戦争指導に従属させるべしと主張していた。 |
| これは戦争は政治の手段としたカール・フォン・クラウゼヴィッツの考えに完全に反駁するものであった。 |
| ルーデンドルフによれば政治の方が戦争指導の手段であったゲルリッツ(1998)、p.225-226。 |
| そのためルーデンドルフは職業軍人でありながら「全ドイツ協会」という政治団体を使って積極的に政治の世界に参加した。 |
| 帝国議会議員の取り込みを図り、巨額な軍拡を認めさせ、1912年には二個軍団の増設と野砲の増強、陸軍11万7000人の増員、航空機の拡張などを実現したゲルリッツ(1998)、p.227-228。 |
| しかし当時のドイツ帝国の財政は建艦競争や社会保障費のために極度に逼迫しており、また陸相ヨシアス・フォン・ヘーリンゲン(de)大将も急速な軍拡によって将校団の教育や構成に弊害が生じ、将校団が「民主化」する事を恐れていた。 |
| そのためやがてルーデンドルフの行動は「出過ぎ」と看做されるようになり、1913年1月にデュッセルドルフの第39ニーダーライン歩兵連隊の連隊長へ左遷されたゲルリッツ(1998)、p.228。 |
| 1914年4月に少将に昇進するとともに5月からシュトラスブルクの第85歩兵旅団の旅団長に就任した。 |
リェージュ要塞攻略
| 第一次世界大戦が開戦した直後の1914年8月2日に西部戦線のドイツ第2軍で司令官カール・フォン・ビューロウ上級大将の下で第二補給部長となった。 |
| 第14歩兵師団に連絡将校として同行していた時に同師団の師団長が戦死したのを受けて代わって師団の指揮を執り、難攻不落と言われたリェージュ要塞(fr)を攻略した。 |
| ルーデンドルフは参謀本部第2部長時代からこの要塞をめぐって激しい争いになる事を予測してその奇襲を研究していたのだったゲルリッツ(1998)、p.242。 |
| リェージュ要塞の陥落によってドイツ軍はベルギー国内に続々となだれ込むことが可能となった。 |
| ルーデンドルフは、カイザー・ヴィルヘルム2世や参謀総長の「小モルトケ」ことヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケから高く評価された。 |
タンネンベルクの戦い
| 東部戦線でマクシミリアン・フォン・プリトヴィッツ・ウント・ガフロン上級大将(de)率いるドイツ第8軍が敗れたのを機にプリトヴィッツは更迭され、東部戦線はルーデンドルフ少将に任せることが決定した。 |
| しかしルーデンドルフは勤続年数から軍司令官就任資格がなく、参謀長にしか任命できなかった。 |
| そのため第8軍司令官には退役していたパウル・フォン・ヒンデンブルク大将が就任した。 |
| ルーデンドルフはその補佐役の参謀長に就任したゲルリッツ(1998)、p.253ベネット(1970)、p.20。 |
| この二人は第一次世界大戦を通じてコンビを組み続けることになるが、二人の関係では常にルーデンドルフが頭脳であり、ヒンデンブルクはお飾りの存在であったベネット(1970)、p.24。 |
| ヒンデンブルクとともに8月23日夜にマリエンブルクの第8軍司令部に着任した。 |
| 先任の第8軍作戦参謀マックス・ホフマン中佐とともにドイツ第8軍の反撃作戦を指揮した。 |
| 損害や補給不足の影響でロシア第1軍がしばらく動かない事を電信の傍受で掴んでいたドイツ第8軍は、大部隊と見せかけた第1騎兵師団だけをロシア第1軍の正面に残し、またタンネンベルク付近で第20軍団をロシア第2軍に当たらせている間に他の各軍団・師団をロシア第2軍の左翼と右翼に移動させた。 |
| 8月26日からこれらの軍団や師団がロシア第2軍に攻撃を開始した。 |
| ヘルマン・フォン・フランソワ大将(de)率いる第1軍団は左翼から、アウグスト・フォン・マッケンゼン大将率いる第17軍団は右翼からロシア第2軍の背後に回り込み、8月29日早朝には同軍を包囲する事に成功した。 |
| ロシア第2軍20万人のうちロシアへ帰国する事が出来たのはわずか1万7000人だった『図説第一次世界大戦』、p.27。 |
| 西部戦線から引き抜かれた2個軍団が新たに第8軍に加えられ、9月5日からロシア第1軍への攻撃を開始した。 |
| 4個軍団でロシア第1軍に正面から攻撃をかけるとともに第1軍団と第17軍団にロシア第1軍左翼に当たる湖沼地帯を突破させ、その背後に回り込ませようとした。 |
| ロシア第1軍司令官パーヴェル・レンネンカンプは第2軍の二の舞になる事を恐れて2個師団を後衛として擁護させながら、東プロイセンから撤退した。 |
| ロシア軍の退却は9月10日から14日に及んだが、その間にもドイツ軍は砲撃を加え、ロシア第1軍は死傷者と捕虜で14万5000人の兵を失ったベネット(1970)、p.30。 |
| こうして東プロイセンを巡ってドイツ帝国とロシア帝国で争われた「タンネンベルクの戦い」はドイツ軍の大勝利に終わった。 |
東部方面軍参謀長
| 200px|right|thumb|1915年のルーデンドルフ。 |
| オーストリア軍支援のガリチア方面出兵のためにドイツ第8軍は急遽第9軍を編成し、東部戦線のドイツ軍は第8軍と第9軍の2軍となり、その両軍の上に東部方面軍が置かれ、ヒンデンブルクが東部方面軍司令官、ルーデンドルフが東部方面軍参謀長にそれぞれ就任した。 |
| 1914年9月28日に第9軍と第8軍の一部はオーストリア軍支援のためにポーランド南部で攻勢に出て、ワルシャワ占領を目指し、10月6日にはヴァイクセル川に到着した。 |
| しかしヴァイクセル川の戦い(de)でロシア軍の頑強な抵抗にあい、突破できなかった。 |
| ドイツ軍は10月17日に退却し、オーストリア軍もカルパティア山脈まで押し戻された。 |
| ロシア軍はシュレージエンやハンガリーをうかがうまでに勢力を回復した『図説第一次世界大戦』、p.81ベネット(1970)、p.45。 |
| ロシア軍に気づかれぬように鉄道で第9軍をすばやく移動させ、11月11日にロッヅを強襲したのであった。 |
| ロッヅの戦い(de)の末に12月6日にドイツ第9軍がロッヅを占領した。 |
| これによりロシア軍のシュレージエン侵入の野望は潰えたベネット(1970)、p.47。 |
| 1915年1月にヴィルヘルム2世の決裁で新たに4個軍団を得た東部方面軍は第10軍を創設した。 |
| 東プロイセン・マズリア湖の戦い(de)でロシア軍に勝利をおさめたが、ロシア軍は新手の第12軍を投入し、またカルパティアの戦い(de)のオーストリア軍の敗北でドイツの情勢はむしろ悪化した『図説第一次世界大戦』、p.91。 |
| 東部方面軍に業を煮やしたエーリッヒ・フォン・ファルケンハイン参謀総長は新設の第11軍とともに東部戦線を訪れ、直接指揮を執った。 |
| 第11軍の司令官にはアウグスト・フォン・マッケンゼンが任じられ、5月2日に第11軍はゴルリッツの戦い(de)で攻撃を仕掛け、勝利を収めた。 |
| ロシア軍は大退却(ru)を行い、1915年秋には東部戦線はひとまず安定した『図説第一次世界大戦』、p.93。 |
| ロシア軍は迅速に再編成を済ませ、フランス軍の要請を受けて1916年3月19日にナーロチ湖の戦い(de)で攻勢に出た。 |
| ロシア軍はこの一連の攻勢で100万の兵を失った『図説第一次世界大戦』、p.53。 |
参謀本部次長
| ファルケンハインが発動した西部戦線のヴェルダンの戦いは思わしくなく、また彼が東部から兵力を引き抜いた後に東部戦線でロシア軍の攻勢があったことで彼の面目は潰れた。 |
| ルーデンドルフはただちに各軍集団、軍、師団の司令部において司令官よりもベルリン参謀本部の指揮下にある野戦参謀本部が指揮をとるように改め、自分の指揮権限を拡大したゲルリッツ(1998)、p.288。 |
| 後任に元宰相ベルンハルト・フォン・ビューロー侯爵か元海軍大臣アルフレート・フォン・ティルピッツ提督を考えたが、この二人はかつてヴィルヘルム2世が解任した人物であったからヴィルヘルム2世から反対があり、結局先日陸軍最高司令部に来てルーデンドルフらの覚えが良かった戦時食糧管理庁次官ゲオルク・ミヒャエリスが就任することとなったゲルリッツ(1998)、p.295モムゼン(2001)、p.21。 |
| ミヒャエリスはルーデンドルフの忠実な代弁者として行動したが、1917年夏の最初の水兵の反乱、軍需工場のストライキなどにうまく対応できずに早々に辞職し、結局ゲオルク・フォン・ヘルトリング伯爵が宰相となったゲルリッツ(1998)、p.300成瀬・山田・木村(1997)、p.104-105。 |
| 1917年4月にイギリス軍はアラス会戦(de)で攻勢を強め、5月から6月のメッシーネの戦い(de)でドイツ軍の突出部を攻略。 |
| さらに7月末から11月にかけてパッシェンデールの戦い、11月から12月にかけて戦車軍団を動員したカンブレーの戦い(de)で攻勢をかけたが、ドイツ軍は頑強に抵抗してイギリス軍の侵攻を防いだ。 |
| ルーデンドルフはこの日を「ドイツ陸軍暗黒の日」と称した『図説第一次世界大戦』、p.40阿部(2001)、p.39。 |
大戦末期
| 戦況を絶望視したルーデンドルフは、ヒンデンブルクとともに1918年9月28日に政府に対して一刻も早くウッドロウ・ウィルソン米大統領の提唱する「十四か条の平和原則」を受け入れて休戦協定を結ばなければならない、そのためにも政府を改革して議会主義に基づく政府を作らねばならないとする通牒を送った成瀬・山田・木村(1997)、p.109アイク(1983)、p.57林(1968)、p.5。 |
| 宰相マクシミリアンは辞職をちらつかせながら皇帝ヴィルヘルム2世にルーデンドルフ解任を求め、10月26日ついにルーデンドルフは参謀本部次長を辞することとなった阿部(2001)、p.41林(1968)、p.6。 |
カップ一揆
| 1920年早々に義勇軍に担がれてベルリンへ移り、1920年3月のカップ一揆に参加したヴィストリヒ(2002)、p.307加瀬(1976)、p.93。 |
ミュンヘン一揆
| 1923年9月2日にナチ党党首アドルフ・ヒトラーは突撃隊やオーバーラント団(FreikorpsOberland)などを結集させて右翼軍事組織連合「ドイツ闘争連盟(Kampfbund)」を結成させた。 |
| 1923年11月、ヒトラーは闘争連盟を指揮してバイエルン州総督グスタフ・フォン・カール、バイエルン駐在の第7師団司令官オットー・フォン・ロッソウ少将、州警察長官のハンス・フォン・ザイサー(HansvonSeißer)大佐の三名に「ベルリン進軍」を迫るため、ミュンヘン一揆を起こす事を企図した。 |
政治活動
| 他の二人はドイツ民族自由党党首アルブレヒト・フォン・グラーフェとグレゴール・シュトラッサーであるモムゼン(2001)、p.291桧山(1976)、p.86。 |
| 以降はドイツ民族自由党の指導に当たるとともに「フロントバン」の中のルーデンドルフ派を「タンネンベルク団」(:de:Tannenbergbund)として組織し、その指導に当たった桧山(1976)、p.103。 |
| この「タンネンベルク団」でヒンデンブルクは彼の二番目の妻である女医マチルデ・フォン・ケムニッツ博士の影響を受けて、ユダヤ人とカトリックとフリーメーソンの三重の「世界支配の陰謀」を批判する陰謀論的な言論活動を行うようになった阿部(2001)、p.122。 |
晩年
| ヒンデンブルクの死後にはブロンベルク、フリッチュ、ベックら軍部がしきりにルーデンドルフを担ごうとしていたが、この頃ルーデンドルフはドイツにキリスト教に代わる新しい敬神思想を作りだすことに熱中しており、ほとんど取り合わなかったゲルリッツ(1998)、p.433。 |
| 1935年に軍部からの求めに応じたヒトラーがルーデンドルフに対して70歳記念に元帥に列すると申し出たが、ルーデンドルフは「一兵卒の男に元帥に任命される謂われはない」と激怒して拒絶しているゲルリッツ(1998)、p.433-434。 |
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1877年
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プレーン()の士官学校(Kadettenkorps)に入学... |
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1894年
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参謀本部に配属される |
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投票数
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