| 1960年のNBAドラフトで地域指名(地元出身選手を指名できる制度)と全体1位指名を受けてシンシナティ・ロイヤルズに入団。 |
| 同期にジェリー・ウェストやレニー・ウィルケンズらがいる。 |
| ロバートソンはロイヤルズとの契約で33,000ドルと貧しかった少年時代には考えられないような大金を手にしたが、すぐにその額に見合うだけの選手であることを証明した。 |
| ロバートソンはルーキーイヤーから平均30.5得点10.1リバウンド9.7アシストと、驚くべきオールラウンドな能力を発揮。 |
| 1年目からアシスト王に輝くと共に、平均9.7アシストはNBAではボブ・クージーの記録を抜いて過去最高の数字となり、また平均30.5得点はリーグ3位の好記録だった。 |
| さらに今後12年連続で選ばれることになるオールスターゲームにも出場し、23得点14アシストをあげて見事にオールスターMVPにも輝いた。 |
| 当然のように新人王を受賞すると共に、やはり今後9年連続で選ばれ続けることになるオールNBA1stチームにも名を連ねている。 |
| 1年目から早くもリーグトップクラスの選手としての地位を確立してしまったロバートソンともう一人のエース、ジャック・トゥィマンに率いられ、モーリス・ストークスの不慮の事故以来成績が落ち込んでたロイヤルズも上昇気流に乗り、前年の19勝56敗から33勝46敗と大きく勝率を伸ばしたものの、プレーオフには届かなかった。 |
| 翌1961-62シーズンはロバートソンにとってもNBAにとっても伝説的なシーズンとなった。 |
| 彼はこのシーズン平均30.8得点12.5リバウンド11.4アシストを記録し、後にも先にも例がないシーズン平均トリプル・ダブルを達成したのである。 |
| 平均11.4アシストはリーグ初の二桁の大台突破であり、通算899アシストはクージーの記録を更新するリーグ歴代最多となった。 |
| 2年連続アシスト王はもちろんのこと、平均30.8得点はリーグ5位、12.5リバウンドもリーグ9位に入った。 |
| チームは43勝37敗の成績でプレーオフ出場を果たし、ロバートソンはプレーオフ期間中も平均28.8得点11.0リバウンド11.0アシストのトリプル・ダブルの成績でチームを牽引したが、デトロイト・ピストンズの前に1勝4敗で敗退した。 |
| 以後もロバートソンは個人成績では準トリプル・ダブルの数字を残し続けるが(ロバートソンの最初の5シーズンは平均30.4得点10.4リバウンド10.6アシストのトリプル・ダブルの成績だった)、プレーオフでは結果を残せない日々が続く。 |
| 彼の前に当時のリーグを支配したボストン・セルティックスが立ちはだかったからである。 |
| さらにシラキュース・ナショナルズ(後のフィラデルフィア・76ers)ともプレーオフでは幾度となく対戦したが、ロイヤルズはセルティックスと76ersの壁をどうしても突き崩すことができなかった(チーム間のライバル関係だけでなく、セルティックスのボブ・クージー、76ersのハル・グリアとのマッチアップも注目を集めた)。 |
| 1962-63シーズンにはデビジョン準決勝でナショナルズを破り、デビジョン決勝にてセルティックスと対決。 |
| 当時無敵を誇ったセルティックス相手に第7戦まで粘る健闘を見せた。 |
| 1963-64シーズンにロバートソンのキャリアは絶頂期を迎える。 |
| 彼はこのシーズンに平均31.4得点9.9リバウンド11.0アシストをあげ、3回目のアシスト王に輝くと共に得点王レースではリーグ2位に入り、フリースロー成功率85.3%はリーグ1位となった。 |
| ロバートソンに盟友トゥィマン、ベテランのウェイン・エンブリー、アメリカ代表のチームメートでこのシーズンにNBAデビューを果たしたジェリー・ルーカス、やはり代表チームメートのエイドリアン・スミスにボブ・ブーザーと充実したロスターとなったロイヤルズは、新ヘッドコーチに元ロイヤルズ選手だったジャック・マクマホンを迎え、過去最高の勝ち星となる55勝をあげた。 |
| 快進撃の中心にいたロバートソンはシーズンMVPを受賞。 |
| 当時、同賞は二大センターのビル・ラッセルとウィルト・チェンバレンの独占状態だったが、60年代にこの2人以外の選手で唯一MVPに輝いたのがロバートソンだった。 |
| さらにロバートソンはオールスターで26得点14リバウンド8アシストをあげ、オールスターMVPも受賞している。 |
| 絶好調のシーズンを過ごしたロバートソンとロイヤルズはプレーオフ・デビジョン準決勝でチェンバレンの76ersを破るが、デビジョン決勝では再びラッセルのセルティックスの前に破れ、夢のファイナル進出は叶わなかった。 |
| 以後もロバートソンは個人成績では素晴らしい数字を残し続け、ロイヤルズ所属時に計6回のアシスト王、2回のフリースロー成功率1位、1967-68シーズンに記録した平均29.2得点はリーグ1位(当時の得点王は平均ではなく通算で決められていたため得点王ではなかった)となったが、彼の奮闘もチームの成功には繋がらなかった。 |
| 1964-65シーズンからは3年連続でプレーオフ・デビジョン準決勝で敗退し、さらに1967-68シーズンからはプレーオフにすら出場できなかった。 |
| 不甲斐ないチームに地元ファンの支持も薄らいでいき、1969-70シーズンにはファンを呼び戻すために当時ロイヤルズのヘッドコーチだったボブ・クージーが現役に復帰するという苦肉の策に出るも、チーム成績は回復しなかった。 |
| 1969-70シーズン終了後、ロイヤルズとミルウォーキー・バックスとの間でトレードが成立。 |
| バックスからのフリン・ロビンソン、チャーリー・パウルクに対し、ロイヤルズから放出される選手がオスカー・ロバートソンであることにNBAファンは驚いた。 |
| ロイヤルズがチームの大エースを手放した理由で当時最も囁かれたのがロバートソンとボブ・クージーHCの確執であり、クージーが彼が保持していた幾つかのNBA記録をロバートソンが次々と破っていったことに嫉妬したからだというものだった。 |
| ロバートソンはトレードについて「私は彼(クージー)が間違ってたと思うし、このことを決して忘れないと思う」と語っている。 |
| ロバートソンは大学時代の4年間、NBAでの10年間、計14年間過ごしたシンシナティを離れることになった。 |