| グリゴリー・グリゴリエヴィッチ・オルロフ伯爵(、GrigoryGrigoryevichOrlov、1734年10月17日(ユリウス暦10月6日)-1783年4月24日(ユリウス暦4月13日))は、いわゆる「オルロフ四兄弟」の次兄。 |
| オルロフ家勃興のきっかけを作った人物として特筆される。 |
| 父グリゴリー・オルロフは、ノブゴロド県知事を務めた。 |
| サンクトペテルブルクで陸軍士官学校を終えた後、軍務に就く。 |
| グリゴリー・オルロフの軍人生活は七年戦争で始まった。 |
| ゾルンドルフの戦いBattleofZorndorfでは負傷している。 |
| 帰国後、砲兵将校としてペテルブルク勤務となるが、この間、皇太子妃エカテリーナ・アレクセーエヴナ(のちのエカテリーナ2世)の愛人となる。 |
| 1762年1月エリザヴェータ女帝が崩御し、ピョートル3世が即位すると、エカテリーナも皇后となるが、皇帝夫妻の不仲は変わらず、ピョートルの失政は貴族、ロシア正教会、軍からも不評を買った。 |
| こうした情勢を見て取ったエカテリーナは、グリゴリー・オルロフを筆頭とするオルロフ兄弟を中心にニキータ・パーニン伯、エカテリーナ・ダーシュコワなどを糾合し政権奪取に向けて動いた。 |
| 同年7月クーデターを敢行し、ピョートル3世を退位させ、エカテリーナ2世が即位した。 |
| クーデター後、エカテリーナ2世はオルロフを伯爵に叙し、高級副官、工兵総監、首席大将に任じられた。 |
| また、1762年4月エカテリーナとオルロフの間に生まれたアレクセイはボーブリンスキー伯爵家を創設した。 |
| オルロフ家を除去しようとするフリトロヴォKhitrovoの陰謀が発覚したのち、逆にグリゴリー・オルロフは絶頂期を迎えた。 |
| ついには女帝との結婚までが考えられるようになったが、この計画はニキータ・パーニン伯の忠告に女帝が従ったことによって潰えた。 |
| グリゴリー・オルロフは政治家としての資質に欠けていた。 |
| もっとも彼は当意即妙の機知に富み、時事問題に関する正確な視点を持ち合わせてはいた。 |
| エカテリーナ2世の治世当初にあっては有能かつ女帝と共鳴する顧問として国政に関与した。 |
| オルロフは愛国心と経済的な動機から農奴制の問題に熱中した。 |
| オルロフは農奴の部分的解放による生活の改善を主張した。 |
| オルロフはまた、啓蒙専制君主然としたエカテリーナ2世の歓心を得ようとして、学術会議「自由経済協会」FreeEconomicSocietyの総裁に就任し、さらに1767年全ロシア法制委員会の最も著名な主唱者としても行動した。 |
| オルロフにはスラブ派の最も初期の煽動者としての一面もあった。 |
| 彼はオスマン帝国からキリスト教徒を解放しようと目論んだ。 |
| 1771年フォクシャーニFocşaniで行われた講和会議にロシア側全権代表として赴いたが、これは全くの失敗に終わった。 |
| 失敗の理由は、パーニン伯によればオルロフの法外に横柄な外交姿勢に対してオスマン帝国側が硬化してしまったためであった。 |
| 最もオルロフの全権委員就任自体、弟アレクセイの赫々たる戦果や、エカテリーナが政治家として大任を自らに与えてくれないという焦燥感に駆られたものであり、政治家、政略家に不可欠な資質に欠ける彼には荷が勝ちすぎる職務であった。 |
| 講和に失敗し、宮廷の許可も得ずペテルブルクの居城、大理石宮殿に戻ったオルロフは女帝の寵愛がより若いヴァシリチコフに移り、自身が失寵したことに気付いた。 |
| エカテリーナの愛を取り戻そうと、オルロフは女帝に対して世界最大級のダイヤモンドを献上する。 |
| これが「オルロフ」の名で知られるダイヤモンドである。 |
| しかし、一度失われた愛情を取り戻すことはできなかった。 |
| 1771年エカテリーナ2世にとって「唯一の伴侶」グリゴリー・ポチョムキンが登場する。 |
| かつて権勢を極めたグリゴリー・オルロフは宮廷からも遠ざかり外国に渡った。 |
| 1780年ロシアに帰国しモスクワに移る。 |
| 晩年、姪に当たるジノヴィエワ夫人と結婚したが、子どもはいなかった。 |