| 8歳の頃ギターを始める。 |
| 1956年、コブラ・レーベルより"ICan'tQuitYouBaby"でデビュー。 |
| この曲は、レッド・ツェッペリンのカヴァーで有名である。 |
| 1958年まで同レーベルで計16曲をレコーディングをした。 |
| コブラの作品は、ラッシュは殆どギャラを手にすることはなかったという。 |
| レーベルも1959年には倒産してしまった。 |
| 続いてラッシュは、チェスの扉を叩く。 |
| しかし、ここでは1960年1月の1セッションで8曲が吹き込まれ、2枚のシングルがリリースとなった。 |
| チェスのセッションでは名作"SoManyRoads"が生まれている。 |
| 1969年には、編集盤アルバム「DoorToDoor」にこれらのシングル2枚を含む計6曲が収録された。 |
| ラッシュが次にレコーディングをしたのは、1962年のデューク・レーベルでのセッション。 |
| しかし、ここでもシングル"Homework"1枚のリリースに終わる。 |
| この曲は、後にJ.ガイルズ・バンドが取り上げるなどして幅広く知られるようになった。 |
| ラッシュ自身も1994年のアルバム「Ain'tEnoughComin'In」で再演している。 |
| 1966年にはヴァンガードのセッション、またヨーロッパのアメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバルにも参加するなどした。 |
| 1969年には、エレクトリック・フラッグのマイク・ブルームフィールド、ニック・グラヴェナイタスのプロデュースの下、初のアルバム・レコーディングを行った。 |
| (「MourningInTheMorning」)ソウルの名門スタジオ、アラバマ州マッスルショールズのフェイムでレコーディングされ、ロック、ソウルのテイストを大胆に盛り込んでいる。 |
| 1971年、アルバム「RightPlace,WrongTime」のレコーディング・セッションをサンフランシスコで行うが、なぜかレコード会社のキャピトルはでき上がった作品をお蔵入りにしてしまう。 |
| この作品が日の目を見るのはレコーディングから5年も経ってから。 |
| オーティスが版権を買い取り、1976年、米国ではブルフロッグ・レコード、日本ではPヴァインがリリースした。 |
| 1970年代は他にデルマークなどから発表している。 |
| 1975年には「第3回ブルース・フェスティバル」出演のために初来日。 |
| このときに、のちの夫人となるマサキと出会う。 |
| 1970年代末から1980年代前半にかけて、オーティスの活動は減速していく。 |
| スタジオ作は1978年のヨーロッパ・ツアー中にレコーディングした「TroublesTroubles」を最後にしばらく、遠ざかってしまう。 |
| 演奏活動のペースも落ちて行ったようである。 |
| そんなオーティスが再び活動を活発化させたのは1985年のこと。 |
| 同年、米国ツアー中にレコーディングしたライブ・アルバム「Tops」は、彼の復活を感じさせるには充分の内容だった。 |
| 翌、1986年には11年ぶりの来日公演が実現。 |
| 日本を代表するブルース・バンド、ブレイクダウンと全国6都市を回った。 |
| ツアーはするようになったものの、その後もスタジオ作はなかったオーティスだが、1994年、実に16年ぶりとなる「Ain'tEnoughComin'In」をリリース。 |
| 1998年には続くスタジオ作「AnyPlaceI'mGoing」をリリースし、同作はグラミー賞を受賞した。 |
| しかし、以後再び新作からは遠ざかっており、現時点ではこれが最新作である。 |
| 2004年初頭に脳梗塞で倒れた。 |
| その直後の2004年春のブルース・カーニバル公演へは、リード・ギタリストにカルロス・ジョンソンを立てて来日し、ステージにかける意気込みを見せた。 |
| しかし、以後は後遺症から演奏活動の停止を余儀なくされている。 |
| 2007年12月には、生誕の地、ミシシッピ州フィラデルフィア建てられた自身の記念碑の除幕式に出席。 |
| 演奏こそしなかったものの、久々に公の場に姿を現した |