| right|thumb|190px|16世紀発行の『ローランの歌』におけるカールの肖像。 |
| カールの生涯の大半は征服行で占められていた。 |
| 46年間の治世のあいだに53回もの軍事遠征をおこなっている。 |
| 小ピピンの死後、イタリアのランゴバルド王国の王デシデリウスは王女をカールの妃としてフランク王国からの脅威をとりのぞき、ローマ教会への影響力を強めて勢力挽回を図ろうとした。 |
| なお、ランゴバルドは、イタリア語では「ロンバルド」と呼び、ロンバルディア州、ロンバルディア平原の語源となった。 |
| 770年、カールは王女と結婚したが、デシデリウスがローマへの攻撃を開始し、773年、ローマ教皇ハドリアヌス1世(在位:772年-795年)がカールに援軍を要請するに至って、カールは義父にあたるランゴバルド王と対決することに方針を定め、妃を追い返してアルプス山脈を越えイタリアに攻め込んだ。 |
| 翌774年にはランゴバルドの首都パヴィアを占領し、デシデリウス王を捕虜として「鉄の王冠」を奪い、ポー川流域一帯の旧領を握ると、みずからランゴバルド王となってローマ教皇領の保護者となった。 |
| さらに父王ピピンの例にならって中部イタリアの地を教皇に寄進した。 |
| right|thumb|280px|カール大帝とローマ教皇ハドリアヌス1世。 |
| 772年には、ドイツ北部にいたゲルマン人の一派ザクセン族を服属させようとし、ウィドゥキントを降伏させたほか、10回以上の遠征をおこなったザクセン戦争をすすめ804年には完全にこれを服属させ、今日あるドイツの大半を征服することで領土を拡大した。 |
| カールは、抵抗する指導者を死刑や追放に処し、フランク人を移住させるなどの方法で反抗をおさえた。 |
| 778年、カールはスペインのカタルーニャに遠征した。 |
| この時のカールの遠征を題材にしたのが『ローランの歌』である。 |
| ローランはカールの甥で最も危険な後衛部隊をひきいていたが、味方の裏切りにあいイスラム軍に包囲されてしまう。 |
| 孤立無援のローランは助けを求めず、カールより賜った剣デュランダルで最後のひとりになっても戦った。 |
| このなかでカールは200歳を越す老騎士として登場する。 |
| カールのスペイン遠征の成果により、後ウマイヤ朝のイスラム勢力を討ってエブロ川以北を占領して795年にはスペイン辺境領をおいた。 |
| 北のフリース族とも戦い、西ではブルターニュを鎮圧して、東方ではドナウ川上流で土豪化していたバイエルン族を攻めて788年にはこれを征服するとともに、791年以降はドナウ川中流のスラヴ人(ヴェンド族)やパンノニア平原にいたアヴァールを討伐してアヴァール辺境領をおき、792年にはウィーンにペーター教会を建設している。 |
| アヴァールは、中央アジアに住んでいたアジア系遊牧民族でモンゴル系もしくはテュルク系ではないかと推定される。 |
| 6世紀以降、東ローマ帝国やフランク王国をはじめとするヨーロッパ各地に侵入し、カール遠征後はマジャール人やスラヴ人に同化していったと考えられる中国の柔然との同族説もあるが、確証はない。 |
| 結果としてカールの王国は現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スイス、オーストリア、スロヴェニア、モナコ、サンマリノ、バチカン市国の全土と、ドイツ、スペイン、イタリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチアの各一部に広がった。 |
| このことにより、イギリス、アイルランド、イベリア半島、イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成し、イングランド、デンマーク、スカンジナビア半島をのぞく全ゲルマン民族を支配してフランク王国は最盛期を迎えた。 |
| カールは、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界に安定をもたらしたのである。 |
| カールは征服した各地に教会や修道院を建て、その付属の学校では古代ローマの学問やラテン語が研究された。 |
| また、フランク王国内の教会ではローマ式の典礼を採用し、重要な官職には聖職者をつけ、十分の一税の納入を徹底化させている。 |
| さらに、住民を、キリスト教のアタナシウス派(カトリック教会)に改宗させてフランク化もおこなった。 |
| カールはまた、広い領土を支配するために全国を州に分け、それぞれの州に「伯」(Comes、Graf)という長官を配置し、地元有力者を任命して軍事指揮権と行政権・司法権を与えるとともにその世襲を禁じたカールの死後は世襲化が進み、かえって地方の分権化をうながした。 |
| 荘園経営の指針として荘園令を出したといわれる。 |
| さらに、伯の地方行政を監査するため、定期的に巡察使(ミッシ・ドミニ)を派遣するなど、フランク王国の中央集権化を試みている。 |
| 200px|right|thumb|カール大帝像(ベルギー、リエージュ)。 |
| しかし、征服化されたとはいえ、ザクセン、バイエルンなどゲルマン諸部族には慣習的な部族法があり、カールのしばしば発した勅令にもかかわらず、王国の分権的傾向、社会の封建化の進行を完全に抑えることができなかった。 |
| カールの宮廷そのものが、1箇所に留まらずに常に国内を移動していたアーヘンのほかインゲルハイムやネイヘーメンなどにも宮廷がきずかれた。 |
| いずれの宮廷付属庭園でも動物が飼われていた。 |
| それは、絶えず領内を移動して、伯との接触を確保する必要があったからであり、また、道路の整備も不充分で、各地から食糧などの生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段がなかったためでもあった。 |
| 父ピピン3世(小ピピン)とともに遠征した南西フランスのアクイタニアでは、土着貴族の勢力が強かったため、息子ルートヴィヒをその地の伝統にしたがって育て、まずはアクイタニアの王としたことにもカールが集権化に苦慮したことがあらわれている。 |
| カールはこのほか道路を改修して交易を保護したり、銀を通貨とする貨幣制度を定めるなどの施策をおこなっている。 |
| なお、カールは「ヨーロッパの父」と呼ばれ、現代におけるEU統合はしばしば「カールの帝国の再現」と称されることがあるEU統合の初期段階においてデンマークでは国民投票(1992年)がなされたが、このなかでマーストリヒト条約の批准は否決されている。 |
| イギリスやスウェーデンでも、ユーロを通貨とすることについては今でも拒否感が強い。 |
| 経済的な理由が最大の要因であることは言うまでもないが、これらの国々は歴史的にみても「カールの帝国」には含まれていなかったのである。 |