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つながりの強いひと
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フレグ
イルハン朝(フレグ・ウルス)の創始者である(在位1260年-1265年)。ペルシア語ではHūlākūkhānと表記される。アバカの父。チンギス・ハーンの子のトルイと、... |
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アルグン
父
イルハン朝の第4代君主(ハン、在位1284年8月11日-1291年3月10日)。第2代君主・アバカの長男。アバカの側室の1人カイミシュ・ハトゥン(エゲチ)との息子。... |
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バイドゥ
イルハン朝の第6代君主(在位1295年)。初代君主フレグの五男タラガイの子。『集史』その他のペルシア語資料では単にبايدوBāydū、バイドゥ・ハンبايدوخانBāyd... |
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チャガタイ
モンゴル帝国の皇族の一人で、チンギス・ハーンの次男。ジョチの弟、オゴデイとトルイの兄に当たる。漢語表記では察合台など。ペルシア語表記ではچغتاىخانCha... |
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ラシードゥッディーン
ラシードゥッディーン・ファドゥルッラーフ・アブル=ハイル・ハマダーニー()(Rashīdal-DīnFaḍlAllāhAbūal-KhayrHamadānī)、,生没年1249年-1318年)はイ... |
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オルジェイトゥ
イルハン朝の第8代君主(在位1304年-1316年)。第4代君主・アルグンの第3子で、第7代君主・ガザン・ハンの弟に当たり、兄の目指したイラン・イスラーム的なモ... |
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テグデル
イルハン朝の第3代君主(在位1282年-1284年)。初代君主・フレグの7男。フレグの第3正妃であったコンギラト部族出身のクトゥイ・ハトゥンとの息子であり、同... |
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ムハンマド
アッラーの決めたルールを人間に教えるために、たくさんの預言者が送られてきました。 最初の預言者は「アダム」です。そして、最後の預言者は「ムハンマド ... |
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チンギス・カン
モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年-1227年)。大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジ... |
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諸子
諸子百家の事典 この本を 1 2 3 4 5 6 7 8 9 冊買う 10冊以上買う お困りの方 在庫切れ等により、手配できない場合がございます 江連 隆著 税込価格... |
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ティムール
中央アジアのモンゴル=テュルク系軍事指導者で、ティムール朝の建設者(在位1370年4月9日-1405年2月18日)。ペルシア語による綴りにより忠実にティームール... |
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クビライ
モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。在位は1260年5月5日-1294年2月18日。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文... |
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アバカ
イルハン朝の第2代ハン(1265年-1282年)。ペルシア語ではآباقاخانĀbāqākhānと表記される。父は初代ハーンのフレグ・ハン、母はフレグの第5位の妃でスルドゥ... |
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カイドゥ
13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設したモンゴル皇族。チンギス・ハーンの三男オゴデイの五男カシの子。『集史』などのペルシア語資料ではقايدوQāydū... |
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覚如
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての浄土真宗の僧。本願寺第三世。「大谷廟堂」の寺院化(本願寺の成立)に尽力し、本願寺を中心とする教団の基礎となった... |
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菊池時隆
菊池時隆(きくちときたか、弘安10年(1287年)-嘉元2年(1304年))は鎌倉時代末期の武将。菊池氏の一族。菊池隆盛の長男。幼名は次郎。菊池武房から家督を... |
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ノウルーズ
イラン暦の元日。古くはナウルーズ(nawr&363;z)といい、地域によってはナイルーズ、ネヴルーズなどとも言う。ペルシア語で、ナウ(naw)は「新しい」、ルーズ(r... |
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元宗
元宗(げんそう、1219年-1274年)は第24代高麗王(在位:1259年-1274年)。太子のときに高麗がモンゴルに服属したため、人質としてモンゴルに赴くことになる... |
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後深草天皇
鎌倉時代の第89代天皇(在位:寛元4年1月29日(1246年2月16日)-正元元年11月26日(1259年1月9日))。諱は久仁(ひさひと)。 |
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オゴデイ
哈罕皇帝/合罕皇帝(カアン皇帝)とも書かれる(後述)。モンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語文や前近代の古典モンゴル語文では'WYK'D'YQ'Q'N/ÖgedeiQa... |
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プロフィール
- ガザン・ハンとは
- 即位以前の動向
- ガザン・ハンのイスラームへの改宗
- ガザン・ハン即位と施政、その後
ガザン・ハン(Ghāzānkhānغازانخان生没年:1271年-1304年)は、イルハン朝の第7代君主。第4代君主 アルグンの長子で、第8代君主 オルジェイトゥの兄に当たる(在位1295年-1304年)。『元史』などにおける漢字表記は合贊。1291年に父 アルグンが没した後、父の弟であるガイハトゥが後を継いで君主となったが、失政を続けた結果、1295年に従兄弟に当たる バイドゥに殺害された。ガザンはその半年後、 バイドゥに対して反乱を起こして彼を滅ぼし、イルハン朝の第7代君主として即位することになったのである。
即位以前の動向
| ガザンは、アルグンが即位する以前の1284年には既にチャガタイ家の王族ウマル・オグル(チャガタイの次男モチェ・イェベの次男でフレグの西征に参加したネグデル(またはテグデル)の長男)とともに多数のアミールらと、アルグンと係争を続けていたテグデル・アフマド・ハンへ和平に臨んでおり、早くからホラーサーン方面の諸軍を統率する立場にあったことがわかる。 |
| 父アルグンは即位以前にホラーサーン方面を統括していたが、テグデル・ハンの討滅によって自ら即位することになったアルグンの愛息子として、ガザンは父に成り変わり東方領域の統括を任される事となった。 |
| アルグンは1284年の即位のおりにイルハン朝の諸地方をフレグ家の諸子に分封している。 |
| すなわちバグダードの統治権従兄弟の王侯バイドゥに、ディヤールバクル方面の統治権は同じく従兄弟でフレグの次男ジョムクルの嗣子ジュシュケブに、ルーム方面はフレグの十二男フラチュに、グルジア方面はフレグの八男アジャイにである。 |
| そしてアルグン自らの嗣子ガザンにはホラーサーン、マーザンダラーン、レイを含むクーミス地方が与えられ、その副官(ナーイブ)にジュシュケブの弟である王侯キンシュウとアルグン・アカの息子でホラーサーン・カラウナス万戸隊長であったノウルーズが付いた。 |
| バイドゥ、ノウルーズらはガザン登極までにガザンとイルハン朝内部の覇権を争った人物であり、アルグンの治世中でもその動向は不穏でありたびたび叛乱・離反をくり返した。 |
| ガザンは王族・諸部族長同士の紛争が絶えなかったフレグ・ウルスで、成人したばかりの十代前半からその渦中に少年青年時代を生きたのである。 |
ガザン・ハンのイスラームへの改宗
| ガザンは、本来父アルグンの影響で仏教を信仰していた事が知られている。 |
| フレグ家がイスラームに改宗する以前はチベット仏教などに多大な寄進を行っていたことが判明しており、ガザンの封領ホラーサーン地方のハブーシャーンにおいて数座の仏寺が建立され、また首都タブリーズにおいてはフレグ時代に遡る仏寺の遺跡が二ケ所現存している。 |
| ガザンのイスラームへの改宗はバイドゥとの王位継承戦において、先のノウルーズが苦境に陥っていたガザンに、ガザン自身がイスラームに改宗する事によって全イスラーム教徒の支持を受けられることが出来ると力説した話が伝えられている。 |
| 当初ガザンはこれを即決出来なかったようだが、再びノウルーズからヒジュラ暦690年(1290)代に「イスラームの帝王」が出現しイスラームの宗教と民衆を復興するだろうという予言を聞くに及んで、改宗の決断をしたという。 |
| 1294年6月16日(ヒジュラ暦694年シャアバーン月1日)にラル・ダマーヴァンド平原の父ゆかりのクーシュク(亭の類い)において、沐浴と衣替えなどの決斎ののち玉座のもと、特別に設えた王族用のテント式移動用モスクでシャハーダ(信仰告白)を行いイスラームに改宗した。 |
| このシャハーダを先導したのはクブラヴィー教団の高名なシャイフであったシャイフ・サドルッディーン・イブラーヒームという人物だったことが知られており、これにならってガザン麾下の諸将および兵士諸軍が改宗に連なったという。 |
ガザン・ハン即位と施政、その後
| 1295年10月4日にガザンはバイドゥを討ち破りイルハン朝の第7代君主即位した。 |
| ガザンは即位にあたって公に「イスラームの帝王(Pādshāh-iIslām)」を自称し、ムスリム名として「マフムード・ガザン(MaḥmūdGhāzān)」を名乗った。 |
| これに伴い即位初年の勅令(ヤルリグ)はイスラーム以外の主要建造物、すなわち仏教寺院(ブトハーネ、マウブード)、ゾロアスター教寺院(アーテシュキャデ)の破壊命令が発せられ、キリスト教会堂(キャリーサー)、ユダヤ教会堂(キャニーセ)もまたそれに続いて破壊を蒙ったという。 |
| 既にテグデル・ハンの時代にテグデル自身も含めモンゴル軍民のイスラーム化の徴候が出始めていたが、このガザンの治世によって、イルハン朝は既存のモンゴルの国家体制や慣習などを維持しながらも国家規模のイスラーム化を推進していくこととなる。 |
| さらに1298年、改宗したユダヤ教徒の一族に属すであるラシードゥッディーンを宰相にして財政改革やイルハン朝の支配体制強化に努めた。 |
| また、ガザンは1300年、ラシードにガザンの治世に至るチンギス・カン家諸王家と、フレグの遠征以来イルハン朝領内に展開していたのテュルク・モンゴル系諸部族の歴史をまとめた「モンゴル史」の編纂を命じた。 |
| これはガザン没後の1310年に次代のオルジェイトゥの命で再編集・完成して14世紀以降、イラン・中央アジアで最大規模の歴史書である『集史』となり、その後のオスマン朝を含むこれらの地域の歴史叙述に決定的な影響を及ぼした。 |
| これらの施政によって政治的・文化的にイルハン朝は大いに発展した。 |
| 1304年5月17日、34歳の若さで病死した。 |
| 遺骸はタブリーズへ運ばれ、生前タブリーズ郊外のシャンブの地に建設したガーザーニーヤという名のワクフ複合施設の廟墓に埋葬された。 |
| ガザンの後は、弟のオルジェイトゥが兄の指名通りハン位を継いだ。 |
| このガザンと後を継いだオルジェイトゥ2人の名君の時代に、イルハン朝は全盛期を迎えることとなったのだが、彼ら兄弟はいずれも寿命と在位期間が短かったことが、その全盛期を短期間で終焉させ、イルハン朝を滅亡へと迎えさせる一因となってしまったのである。 |
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1284年
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既にチャガタイ家の王族ウマル・オグル(チャ... |
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1291年
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父アルグンが没した後、父の弟であるガイハト... |
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