| のちにかれの代表作になる『百年の孤独』および一連の小説は、かれの祖父母が語ってくれた戦争体験や近所の噂話、土地に伝わる神話や伝承に基づくところが大きい。 |
| 特に『百年の孤独』は、マルケスが17歳のときに執筆を決意した作品であるため、祖父母の影響が色濃く残っている。 |
| 特にマルケスに影響を与えたのは祖父で、『落葉』の老大佐、『大佐に手紙は来ない』の退役大佐、『百年の孤独』のアウレリャーノ・ブエンディーア大佐などのモデルになったと言われている。 |
| 1936年、女系家庭の中で唯一の男性であり、なんでも話せる男友達のようであった祖父がなくなる。 |
| 1941年、両親の元に戻る。 |
| 高校時代からマルケスは執筆活動を始めており、『エル・エスペクダドル』紙に短編を投稿している。 |
| 1947年、ボゴタ大学法学科に入学。 |
| この頃、ラテンアメリカの作家を志す若者らは、一般に法学科に入籍することが多く、マルケスと並び評されるマリオ・バルガス・リョサ、その他多くの作家が法学科に在籍していた。 |
| 1948年ボゴタ暴動が起こり、学校が閉鎖されたために家族の住むカルタヘナの大学に移るが、生活難により中退。 |
| 『エル・ウニベルサル』紙の記者として働き、安アパートで貧乏暮らしをする。 |
| この頃、ジェイムズ・ジョイスやフランツ・カフカ、ウィリアム・フォークナー、ヴァージニア・ウルフ、ミゲル・デ・セルバンテスなどを耽読した。 |
| 特にウィリアム・フォークナーは、のちにガルシア・マルケス作品の土台を為すうえで絶大な影響を与えた作家である。 |
| 後に、ノーベル賞の受賞演説の冒頭で、「フォークナーが立ったのと同じ場所に立てたことはうれしい」と語ったほどである。 |
| またフランツ・カフカについては、彼の『変身』を読んだことで大きな衝撃を受け、マルケス自身の作風を確立する上で決定的な体験の一つになると共に、文学そのものに関心を持つ大きなきっかけとなった(マルケスは後年ミラン・クンデラに「ひとが別様に書くことができると理解させてくれたのはカフカだった」と語っている)。 |
| ヴァージニア・ウルフについては、もし『ダロウェイ夫人』のある一節を読まなければ今とは違った作家になっていただろうとのコメントを残している。 |
| 1954年には『エル・スペクタドル』紙の記者としてボゴタへ戻り、翌、55年に教皇崩御を伝えるためにローマへ飛ぶ。 |
| ローマにて映画評論を本国へ送るかたわら、「映画実験センター」の映画監督コースで学ぶ。 |
| この体験によって、後年かれ自身が映画監督をつとめることにもなる。 |
| しかし、同55年、自由党派『エル・エスペクタドル』紙は当時の独裁者ロハス・ピニーリャの弾圧によって廃刊する。 |
| これにより収入のなくなったガルシア=マルケスは、安アパート「オテル・ド・フランス」で極貧生活を送ることになる。 |
| ガルシア・マルケスはこの地で『大佐に手紙は来ない』を執筆する。 |
| 1957年、友人が編集長を務める、ベネスエラの首都カラカスの雑誌『エリーテ』にヨーロッパから記事を送り生活していた。 |
| 1958年に結婚するためコロンビアにいったん戻り、カラカスに移り住む。 |
| この時に使われた旅費は1955年に出版された『落葉』によるものだった。 |
| 『落葉』は、マルケスがヨーロッパ滞在中にかれの友人が祖国で『落葉』の原稿を見つけて、マルケスに無断で出版社に持ち込んだ作品であった。 |
| いわば偶然世に出た作品であった。 |
| 1959年キューバに渡りフィデル・カストロを知り、キューバ革命成立とともに国営通信社「プレンサ・ラティーナ」のボゴタ支局編集長となったが、間もなく編集部の内部抗争に嫌気がさし辞職。 |
| しかしフィデル・カストロとの親交は続き、2007年3月には病床のカストロを見舞った。 |
| 1961年にメキシコに渡り映画製作に携わるかたわら、『大佐に手紙は来ない』を発表。 |
| 1962年に前年から書いていた『悪い時』とカラカス時代に書き溜めた短編集『ママ・グランデの葬儀』を発表している。 |
| 1967年は『百年の孤独』が発表された年である。 |
| 1965年のある日アカプルコ行きの車の中で17歳の頃から温めていた構想が一気にまとまったと言う。 |
| 18ヶ月間タイプライターを叩きつづけて『百年の孤独』は完成した。 |
| 『百年の孤独』は、スペイン語圏で「まるでソーセージ並によく売れた」と言われ、貧乏生活から足を洗うことになる。 |
| 60年代、フリオ・コルタサルやバルガス・リョサ、マルケスを中心としたラテンアメリカ文学の人気は「ブーム」と呼ばれ、日本でも例外ではなく、知識人なら読んでいなければ恥であると言われるくらいのものだった。 |
| 特に『百年の孤独』は、大江健三郎や筒井康隆、池澤夏樹、寺山修司、中上健次など多くの作家に影響を与えた。 |
| 1973年チリ出身のノーベル文学賞授賞者で、ラテンアメリカの代表的詩人パブロ・ネルーダが亡くなった時、マルケスはアウグスト・ピノチェトの軍事政権が消滅するまでは新しい小説を書かないと宣言したが、ネルーダ未亡人の懇望によって、1975年、政治風刺色の強い『族長の秋』を発表。 |
| ただマルケス自身は「小説家の任務は優れた小説を書くこと」として政治の舞台には一度も上がっていない。 |
| 1981年、マルケス自身が最高傑作だという『予告された殺人の記録』を発表。 |
| この作品は実際に起きた事件をモチーフにして書かれたものであるが、あまりにも描写が精緻であったために、事件の真相を知っているのでは、と当局に疑われたという逸話を持っている。 |
| 1982年10月21日、スウェーデン王立アカデミーにて、ラテンアメリカでは4番目となるノーベル文学賞受賞。 |
| 受賞の理由としては、「現実的なものと幻想的なものを結び合わせて、一つの大陸の生と葛藤の実相を反映する、豊かな想像の世界」を創り出したことにあった。 |
| 1997年、メキシコに移住。 |
| 2004年10月20日、10年ぶりに新作の小説''Memoriasdemisputastristes''を出版する。 |
| 海賊版の出回りを防ぐために出版直前に最終章を変更している。 |
| コロンビアで何かがある度にスポークスマンのような役割を果たすこともある(シャキーラについての言及など)。 |