| 恋人の急逝で空いた心の隙間を満たすためか彼女は旅と登山に憑かれるようになる。 |
| 1894年、初のエッセー集「ペルシャの情景」を刊行。 |
| その後2度にわたって世界一周旅行を行い、旅行中の1899年と1903年には日本にも立ち寄っている。 |
| 後に著書『シリア縦断紀行』でベルはシリア訪問時戦われていた日露戦争について、シリアの各地で質問攻めにされたと記述している。 |
| 初の日本訪問の同年、アラビア語を学ぶためエルサレムに長期滞在するかたわら、案内人を連れシリアやヨルダンを馬でめぐり砂漠に魅了された。 |
| また、アルプス登山を繰り返し、1900年には当時未踏だったエンゲルホルンの第5峰を征服、同峰は「ガートルード峰」という呼称を現在に伝えている。 |
| 登山と同時並行で考古学を学び、1905年、シリアを経てユーフラテス川をめぐる旅に出る。 |
| 翌年から考古学雑誌にベルの紀行文が掲載されはじめるようになり、1907年には彼女の連載が「シリア縦断紀行」として単行本化され、読書界だけでなく中東地域の情報源として政治家や官僚も競って読んだという。 |
| その後も彼女の砂漠めぐりは続き、1911年にはメソポタミアとシリアへ旅行した。 |
| シリアの旅の時に彼女の案内人を務めたのが後の「アラビアのロレンス」ことT・E・ロレンスで、ベルとロレンスはこの時初めて出会った。 |
| さらに1914年にはアラビア半島奥地へと旅立つが、旅程半ばにして第一次世界大戦が勃発、オスマン帝国の参戦により、ベルは帰国を余儀なくされ、赤十字に勤務、西部戦線に身を置く事になる。 |
| しかし、第一次大戦という時代はアラビア語に堪能で現地の事情にも明るいベルを放って置く事はなかった。 |
| 彼女は、カイロに置かれたイギリスの諜報機関の情報員として召集を受け、オスマン帝国に対するアラブ反乱にたすざわる。 |
| 彼女と共に召集を受けたロレンスはアカバ港やヒジャーズ巡礼鉄道線などへのゲリラ工作、ベルはバスラに上陸を果たしたイギリス軍と共にメソポタミアの地からオスマン帝国を一掃する作戦の援護に携わる。 |
| 現地からロンドンに送られた彼女の報告の内容は細密な分析を極め、時にはイギリスの政策の批判にまでおよんでいる。 |
| イギリス軍のバグダード占領後、占領軍の一員としてベルは行政に携わり、アラブ人の陳情を多く受けた後、ロレンスとともにパリ講和会議に参加、アラブ人への公約を果たすべく尽力を重ねるが、実らなかった。 |
| すでに1917年英仏間でサイクス・ピコ協定が締結されており、列強間の利害の前に中東の地はイギリスとフランスの委任統治領として分割が決まった。 |
| ベルのイラク統治政策の基本理念は「イラク統治ではシーア派を登用しない」というものだった。 |
| この理念はバグダードのスンナ派のある部族のナシーブ(名家)の長をベルが訪ね、イラクの統治についての意向を探った時のナシーブの長の意見を踏襲したものである。 |
| しかし、イラクの人口の5割を超えるシーア派の排除は、その後のイラクに大きな負の遺産を残す事になる。 |
| バグダード陥落後、イギリスは主任政務官パーシー・コックス(PercyCox)、弁務官代理ウィルソン(ArnoldTalbotWilson)を派遣した。 |
| この2人がメソポタミアの地を治める事になるが、部族や軍閥間の主導権争いに翻弄され、何ら有効な対策を打つ事もできなかった。 |
| ベルは弁務官担当東方書記という地位にあった。 |
| 1920年6月、ナジャフでスンナ派とシーア派が手を携え、反英暴動が勃発する。 |
| きっかけは前年イギリスがペルシャと同国への借款と引き換えにペルシャの軍事権をイギリスが握るという内容の協定を結び、これにナジャフが危機感を募らせたことである。 |
| 弁務官代理ウィルソンは秋までに暴動を鎮圧したもののイギリスは民政移管を考慮せざるをえなくなり、ペルシャ公使に転任していた前政務官コックスを高等弁務官としてバグダードに呼び戻す事になる。 |
| そして11月、スンナ派主導のアラブ人暫定内閣が発足、民政移管の準備に入った。 |
| 1921年3月、カイロでイギリスの陸相チャーチルの主宰により、イラクの今後の統治について検討する会議がもたれた。 |
| この会議ではベルはフランスによってダマスカスを追放されていたファイサルをイラクの国王に据え、高等弁務官以下イギリス人で構成される国家評議会を廃止、アラブ人の手になる仮政府を樹立させ民政に移管するという案を持ち出した。 |
| 第一次大戦中、ファイサルの父でマッカの太守ハシミテ家(預言者ムハンマドの後裔と称していた)のフサインはパレスチナにおいて英仏軍とともに戦い、大戦後は論功行賞としてシリア・パレスチナ・ヒジャーズの王となる事が英仏により保証されていた。 |
| いわゆる「フセイン・マクマホン協定」だが、戦後のアラブにおける英仏の勢力圏を画定した前出の「サイクス・ピコ協定」の内容と明らかに矛盾しており、この英仏の二枚舌外交は現在に至るまで尾をひいている。 |
| サイクス・ピコ協定の内容を知らないまま、ファイサルは勇躍シリア国王に即位したもののフランスはこれを認めず、追放の憂き目をみていた。 |
| チャーチルもベルの案に賛同、本国にベルの案を打電した。 |
| 統治形態についてはまとまったものの、イラクの領土画定問題に議題が移った途端に紛糾した。 |
| クルド人(スンナ派)の北部、アラブ人(スンナ派)の中部、アラブ人(シーア派)の南部、それにペルシャ人、ユダヤ人、キリスト教徒などの地域が複雑に入り組んでいる地域の国境をどう画定するか?。 |
| ベルは上記の3つの地域で一国を構成されるべきという持論を曲げなかった。 |
| この会議に同席していたロレンスは「クルド人地域のみトルコへのバッファーゾーンとしてイギリスが直接統治を続けるべき」という意見を出した。 |
| しかしベルはこれに耳を貸さず、ここにイラクの領土は画定された。 |
| ベルはロレンスより20歳も年長で、自分のアラブ情勢関与のキャリアはロレンスなどとは比較にならないと自負していたようだ。 |
| ベルはロレンスのペダンティスト的気質を煙たがっていたという側面も研究者の間では指摘されている。 |
| しかし結果的にはロレンスが抱いた危惧は正しかった。 |
| そしてハシム家の次男でファイサルの兄にあたるアブドゥッラーはヨルダン国王に配され、現在のヨルダン王室へと続く事になる。 |
| パレスチナについてはイギリスの三枚目の舌こと「バルフォア宣言」とのからみで結論は先送りされ、この問題はイギリスの頭痛の種となる。 |
| 以上のようなイラク建国の経緯からイラクは列強の利害とベルの地政学的見解がリンクした結果、建国された人工国家であるという評価が定着する事になる。 |
| この年の6月、ファイサルはイラクに入り、そのわずか2ヶ月後にイラク国王として即位した。 |
| さらにその2年後にはイラク南部とアラビア半島の国境線画定に一区切りをつけた弁務官コックスがバグダードを去る。 |
| イラクの完全な独立はさらに9年後の1932年の事である。 |
| ベルは民政移管後もバクダードに残り、再び考古学に熱中する日々を送る中、小さな博物館を設け出土品の収蔵を試みる。 |
| この博物館が後にイラク国立博物館に発展することになる。 |
| 1926年の夏、バグダードで致死量の睡眠薬を服用して死去。 |
| 自殺か事故かは分かっていない。 |