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カール5世
ハプスブルク家出身のスペイン国王(在位:1516年-1556年)、神聖ローマ皇帝(在位:1519年-1556年)。スペイン王としてはカルロス1世(CarlosI)と呼ばれる... |
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レオ10世
ルネサンス期のローマ教皇(在位:1513年-1521年)。本名はジョヴァンニ・デ・メディチ(GiovannideMedici)。メディチ家出身で、派手好き、イベント好きの教... |
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ユリウス2世
ユリウス2世(JuliusII1443年12月5日-1513年2月21日)はローマ教皇(在位:1503年-1513年)。本名はジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ。芸術を愛好し、多くの... |
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ウルバヌス6世
「ローマ人かイタリア人教皇を」と叫ぶ群集が選挙会場を取り囲んだ。フランス人が多数派の枢機卿らは、身の危険を感じる中、バーリ大司教であるプリニャーノ... |
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パウルス3世
パウルス3世(PaulusIII1468年2月29日-1549年11月10日)は第220代ローマ教皇(在位:1534年-1549年)。本名はアレッサンドロ・ファルネーゼ(AlessandroFarne... |
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クレメンス6世
アヴィニョン捕囚の時期のローマ教皇(在位:1342年-1352年)。フランス出身の貴族で、本名はピエール・ロジェ(PierreRoger)。教会の組織機構を整備させた... |
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アレクサンデル6世
アレクサンデル6世(AlexanderVI,1431年1月1日-1503年8月18日)は15世紀のローマ教皇(在位:1492年-1503年)。本名はロデリク・ランソル(RodericLanzol)で... |
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グレゴリウス11世
14世紀後半の教皇(在位:1370年-1378年)。フランス人で本名はピエール・ロジェ・ド・ボーフォール(PierreRogerdeBeaufort)。クレメンス6世の甥に当たる。... |
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クレメンス8世
クレメンス8世(ClemensVIII,1536年2月24日-1605年3月3日)はローマ教皇(在位,1592年-1605年)。本名はイッポリト・アルドブランディーニ(IppolitoAldobran... |
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ボニファティウス9世
ボニファティウス9世(BonifaciusIX1350年-1404年10月1日、在位:1389年-1404年)は14世紀末から15世紀初め、教会大分裂の時期のローマ教皇である。ナポリの... |
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ヘンリー8世
テューダー朝のイングランド王(在位:1509年4月22日(戴冠は6月24日)-1547年1月28日)、アイルランド王(在位(自称):1541年-1547年)。イングランド王ヘ... |
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ニコラウス5世
ニコラウス5世(NicholausV、1397年11月15日-1455年3月24日、在位:1447年-1455年)は15世紀中期のローマ教皇である。イタリアのサルザーナ出身、本名はトマ... |
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シクストゥス4世
シクストゥス4世(SixtusIV,1414年7月21日-1484年8月12日)はルネサンス期のローマ教皇(在位:1471年-1484年)。本名はフランチェスコ・デッラ・ローヴェレ... |
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ベネディクトゥス13世
カトリック教会の対立教皇(在位:1394年-1417年)。アラゴンではエル・パパ・ルナ(ElPapaLuna)として知られる。 |
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グレゴリウス13世
第226代ローマ教皇(在位:1572年-1585年)。本名はウーゴ・ブオンコンパーニ(UgoBuoncompagni)。学問を好み、奨励したことで知られ、その治世にずれが累積... |
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クレメンス5世
14世紀初めのローマ教皇(在位:1305年-1314年)である。教皇庁をアヴィニョンに移転し、アヴィニョン捕囚の時代になった。フランス出身、本名はベルトラン・... |
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マルティヌス5世
コンスタンツ公会議での教会大分裂の解消後に選出されたローマ教皇である。本名オットーネ・コロンナ(OttoneColonna)。オットーネはローマの名門コロンナ家... |
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フランソワ1世
ヴァロワ朝第9代フランス王(在位:1515年-1547年)。シャルル5世の曾孫でルイ12世の従兄に当たるアングレーム伯シャルル・ドルレアンと、サヴォイア公フィリ... |
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ボニファティウス8世
中世のローマ教皇(在位1294年-1303年)。フランス王と争い、晩年のアナーニ事件後、憤死する。 |
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プロフィール
クレメンス7世(ClemensVII 1479年5月24日- 1534年9月25日)はローマ教皇(在位:1523年- 1534年)。メディチ家の出身で、本名はジュリオ・デ・メディチ(Giuliode'Medici)。2代前の レオ10世の従弟に当たる(パッツィ家の陰謀で殺害されたジュリアーノの遺児)。
略歴
| 教皇・レオ10世の下で枢機卿として有能な手腕を発揮していたが、教皇に即位した後は不安定な国際情勢に翻弄され、ローマ略奪の惨事を招く。 |
| 宗教改革という事態に対しても何ら有効な手が打てず、メディチ家の権益擁護に終始した。 |
| 芸術・文化のパトロンという面では、枢機卿時代にラファエロを引き立て、1520年に政敵であるマキャヴェッリに『フィレンツェ史』の執筆依頼をしている。 |
| 後には天文学者コペルニクスの研究も支援した。 |
| 晩年にはフィレンツェからミケランジェロを呼び寄せ、システィーナ礼拝堂の壁画の作成を依頼する(ミケランジェロは気が進まず、実際に「最後の審判」を手掛けたのはクレメンス7世死後の1536年から1541年である)。 |
| 在世中はイタリアを巡ってフランスと神聖ローマ帝国との戦闘が続き(イタリア戦争)、マルティン・ルターによる宗教改革運動もあって、不安定な状況であった。 |
| 1527年、フランス王・フランソワ1世と同盟を結んだ教皇への報復として、神聖ローマ皇帝・カール5世の軍がローマに侵攻する。 |
| クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃れるが、市内では殺戮、破壊、略奪、強姦等の惨劇が繰り広げられた(サッコ・ディ・ローマ、ローマ略奪)。 |
| 他の都市へ逃れる市民も多く、ルネサンスの中心であったローマは見る影もなく荒廃した。 |
| クレメンス7世が優柔不断だった面もあるが、むしろイタリア戦争、宗教改革、イスラム教国・オスマン帝国のヨーロッパへの圧力と、カトリック教会史上最悪の状況であった事から、教皇個人の資質のみを責めるのは酷かもしれない。 |
| イタリアとヨーロッパが分裂し、混乱を重ねる時代だったのである。 |
| クレメンス7世はカール5世と和解し、カール5世に神聖ローマ皇帝の戴冠を行う。 |
| これ以後もイタリアを巡ってフランスと神聖ローマ帝国の戦闘は続くものの、後者の優位がほぼ確定する。 |
| なお、この間にメディチ家のアレッサンドロ(クレメンス7世の庶子)は教皇の支援の下にフィレンツェを統治していた。 |
| 1527年、ローマ略奪の報が伝わると一時追放されるが、1530年にカール5世の支援により復帰、1532年にフィレンツェ公国を建国している。 |
| 晩年の1533年には、遠縁のカテリーナ・デ・メディチとフランス王子・アンリ(後のアンリ2世)の結婚式に出席。 |
| 離婚問題で紛糾していたイングランド王・ヘンリー8世とは対立を深めたが、その1年後の1534年9月25日に死去。 |
| 時代の激しい荒波に呑まれた「悲劇の教皇」であった。 |
関連項目
| アルフォンソ1世・デステ。 |
| als:ClemensVII.(Papst)。 |
| vec:PapaClementeVII。 |
| vls:PausClemensVII。 |
| war:PapaClementeVII。 |
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1520年
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政敵であるマキャヴェッリに『フィレンツェ史... |
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1527年
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フランス王・フランソワ1世と同盟を結んだ教... |
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クレメンス7世さんについてのひとこと紹介
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