| ウィーン7区の小学校で学んだ後、1876年に博物館付属工芸学校に入学した。 |
| 後に弟のエルンストとゲオルクもこの学校に学び、それぞれ彫刻師、彫金師となってクリムトの作品を飾る額の設計をおこなっている。 |
| 工芸学校でクリムトは石膏像のデッサンや古典作品の模写を中心とした古典主義的な教育を受けた。 |
| 1879年にクリムトは弟エルンストおよび友人のフランツ・マッチェと共に共同で美術やデザインの請負を始めた。 |
| ウィーンの美術史美術館の装飾の仕事などを行っている。 |
| 卒業後に3人は芸術家商会(Kuntslercompagnie)を設立した。 |
| 劇場装飾を中心とした仕事はすぐに軌道に乗り、フィウメ、ブカレストなどへも派遣されるようになった。 |
| 1886年から1888年まではウィーンのブルク劇場の装飾を引き受けており、この功によって後に金功労十字賞を授与されている。 |
| ウィーン市からの依頼を受け1888年に製作した『旧ブルク劇場の観客席』は観劇する当時のウィーン社交界の人々を正確に描き第一回皇帝賞をうけるなど高く評価された。 |
| この作品によりウィーン美術界における名声を確立したクリムトは、1891年にウィーン美術家組合に加入し1893年に早くも美術アカデミー教授への推薦をうけたが、任命されることはなかった。 |
| 翌1892年には父と弟のエルンストが死去している。 |
| すでに装飾家として名声を得ていたクリムトは1894年にウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼される。 |
| 『学部の絵』と名づけられたこの天井画は『哲学』、『医学』BitsoriM,GalanakisE." |
| 絵の全体画像あり、『法学』の3部からなる。 |
| 人間の知性の勝利を高らかに歌いあげるという依頼者が意図したテーマに反し、これら3枚の絵は理性の優越性を否定する寓意に満ちたもので、その是非をめぐり大論争を引き起こした。 |
| 1896年に提出された構成下絵を見た大学関係者により行われた抗議は一旦は沈静化したものの、1900年と1901年に『哲学』および『医学』がそれぞれ公開されたことで論争が再燃し帝国議会において依頼主の文部大臣が攻撃される事態にまで発展した。 |
| あまりの論争の大きさにクリムトは契約の破棄を求め、事前に受け取った報酬を返却した。 |
| 美術館および個人に売却された3枚の絵は後にナチスによって没収され、1945年にインメンドルフ城において、親衛隊が撤退する際の放火により没収された他の作品と共に焼失している(白黒写真および『医学』の習作が現存)。 |
| この事件をきっかけとして保守的なウィーン美術家組合を嫌った芸術家達によって1897年にウィーン分離派が結成された。 |
| 分離派は古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループであり、クリムトが初代会長を務めている。 |
| 分離派は展覧会、出版などを通してモダンデザインの成立に大きな役割を果たした。 |
| -分離派からは後にエゴン・シーレ(EgonLeoAdolfSchiele-1890年-1918年)、オスカー・ココシュカ(OskarKokoschka,1886年-1980年)などを輩出している。 |
| ←シーレ、ココシェカの項目を見ると、参加してない、と書いてある!!??--->。 |
| クリムトは1902年に開催された分離派によるベートーヴェン展に大作『ベートーヴェン・フリーズ』を出品したが反感を買う。 |
| この作品は長年行方不明となっていたが、1970年にオーストリア政府により買い上げられて修復を受け、現在ではセセッション館(分離派会館)に展示されている。 |
| 翌1903年の第18回ウィーン分離派展ではクリムトの回顧展示が行われた。 |
| この展覧会ではじめて出品されたのが、当時のクリムトが置かれた状況を映し出す「人生は戦いなり(黄金の騎士)」(1903、愛知県美術館蔵)である。 |
| 1903年にヨーゼフ・ホフマンらによって設立されたウィーン工房にクリムトは強い関心を示していたが、この団体に対しては美術の商業化であるとの批判が分離派内部からもなされていた。 |
| 写実派と様式派による対立、国からの補助金停止などが重なり、クリムトとその同士は1905年に分離派を脱退し、翌年オーストリア芸術家連盟を結成した。 |
| 後にウィーン工房によるストックレー邸の壁画制作などを行い、上流階級の婦人たちの肖像画を多く手がけた。 |
| 1910年代には作品も少なくなり、金箔などを用いる装飾的な作風から脱却していった。 |
| 1918年、ウィーンで脳梗塞と肺炎により死去した。 |
| ウィーンのヒーツィンガー墓地に埋葬されている |
| 生涯結婚はしなかったものの多くのモデルと愛人関係にあり、非嫡出子の存在も多数判明している。 |
| 著名な愛人はエミーリエ・フレーゲであり、最期の言葉も「エミーリエを呼んでくれ」であった。 |
| エミーリエはクリムトの死後にクリムトと交わした手紙を全て処分し生涯独身を貫いている。 |