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つながりの強いひと
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グスタフ・アドルフ
グスタフ・アドルフ・フォン・ゴッター(GustavAdolfReichsgrafvonGotter,1692年3月26日-1762年5月28日)は18世紀に神聖ローマ帝国域で活躍した外交官、政治家。 |
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カール9世
ヴァーサ王朝のスウェーデン国王(在位:1604年-1611年)。1599年から1604年まで摂政。グスタフ1世と2度目の妃マルガレータの子。 |
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カール12世
プファルツ王朝のスウェーデン国王(在位:1697年-1718年)。カール11世とデンマーク王女ウルリカ・エレオノーラの息子。姉にホルシュタイン=ゴットルプ家の... |
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ヨハン3世
スウェーデン・ヴァーサ王朝第3代国王(在位:1568年-1592年)及びフィンランド大公(在位:1581年-1592年)。グスタフ1世と2度目の王妃マルガレータの長男。 |
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獅子王
SNK(現:SNKプレイモア)が開発・販売した対戦型格闘ゲーム『風雲黙示録』シリーズなどに登場する、架空の人物。本項では獅子王を名乗る2人の人物について記... |
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クリスチャン4世
デンマークとノルウェーの王(在位:1588年-1648年)。一般には、60年間にわたって善政を敷き、数多くの改革をおこなったデンマークの名君の1人と見なされて... |
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カール10世
スウェーデン王国のプファルツ朝初代国王(在位:1654年-1660年)。「バルト帝国」の絶頂を極めた武威の君主である。ポーランド・スウェーデン戦争やカール・... |
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カール11世
プファルツ朝第2代のスウェーデン王(在位:1660年-1697年)。カール10世とホルシュタイン=ゴットルプ公女ヘートヴィヒ・エレオノーラの唯一の子。カール10... |
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ティリー伯ヨハン・セルクラエス
ブラバント出身の将軍、傭兵隊長。三十年戦争ではバイエルン軍を率い、カトリック連盟の総司令官として、戦争序盤の主導権を握った。敬虔なカトリック信徒で... |
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リシュリュー
カトリック教会の聖職者にしてフランス王国の政治家。1624年から死去するまでルイ13世の宰相を務めた。西部フランスの小貴族の三男として生まれ、聖職者の道... |
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グスタフ3世
スウェーデン王国のホルシュタイン=ゴットルプ朝第2代の国王(在位:1771年-1792年)。ロシア帝国やデンマークと戦って勝利し、ヨーロッパでの名声を高めた... |
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グスタフ1世
グスタフ1世(GustavI,GustavErikssonVasa,1495年-1560年9月29日)はスウェーデン国王(在位:1523年-1560年)。ヴァーサ王朝の祖。1509年から1514年にウプサ... |
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ルイ13世
ブルボン朝第2代のフランス国王(在位:1610年5月14日-1643年5月14日)。初代アンリ4世の子。母はマリー・ド・メディシス。ブルボン朝創成期の王である。父王... |
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アクセル・オクセンシェルナ
スウェーデンの宰相、政治家、軍人。スウェーデン・ヴァーサ朝のグスタフ2世アドルフとその娘クリスティーナに仕えた名宰相。三十年戦争を戦い抜き、スウェー... |
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ルイ14世
ブルボン朝第3代のフランス国王(在位:1643年5月14日-1715年9月1日)。ルイ13世の長子。妃はスペイン国王フェリペ4世の娘マリー・テレーズ(マリア・テレサ... |
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ヴワディスワフ4世
ヴワディスワフ4世(WładysławIVWaza,1595年6月9日-1648年5月20日)は)ヴァーサ家出身のポーランド王(在位:1632年-1648年)。ジグムント3世の長男、母は王... |
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ジグムント3世
ジグムント3世(ZygmuntIII、1566年6月20日-1632年4月19日)はポーランド・リトアニア共和国の国王(在位:1587年-1632年)、ヴァーサ朝第4代のスウェーデン... |
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マクシミリアン1世
ハプスブルク家出身のオーストリア大公、神聖ローマ皇帝(在位:1493年-1519年)。武勇に秀で立派な体躯に恵まれ、また芸術の保護者であったことから、中世最... |
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ナポレオン・ボナパルト
革命期フランスの軍人・政治家、そしてフランス第一帝政の皇帝ナポレオン1世(、在位:1804年-1814年、1815年)。フランス革命後の混乱を収拾して軍事独裁政... |
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ヤン2世
ヴァーサ家出身のポーランド・リトアニア共和国の国王(在位:1648年-1668年)。ジグムント3世の四男、母はその2番目の妃コンスタンツェ・フォン・エスターラ... |
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プロフィール
- グスタフ2世アドルフとは
- 即位まで
- グスタフのバルト海制覇
- 三十年戦争への介入と戦死
- グスタフの評価とその後のスウェーデン
- グスタフのゴート主義
- 参考文献
グスタフ2世アドルフ(GustavIIAdolf,1594年12月9日(グレゴリオ暦12月19日)-1632年11月6日(グレゴリオ暦11月16日))は、ヴァーサ朝第6代、スウェーデン王国最盛期の国王(在位:1611年-1632年)。通称「北方の獅子」。 グスタフ・アドルフとも呼ばれる。三十年戦争における主要人物の一人。スウェーデン王 カール9世と2度目の王妃 クリスティーナの息子。娘は後のスウェーデン女王 クリスティーナ。 グスタフ・アドルフの時代からおよそ1世紀の間のスウェーデンは、「バルト帝国時代」と呼称されている。
即位まで
| グスタフ・アドルフは、幼時から新教主義を基調とした高い水準の教育を受けて育った。 |
| 語学にも長け、ラテン語・ドイツ語・オランダ語・フランス語・イタリア語を自国語の如く話し、そのほかにもスペイン語・英語・スコットランド語・ポーランド語・ロシア語を理解したという。 |
| グスタフは9歳で早くも公務に就き、15歳の時には病気の父に代わって議会(身分制議会)で堂々たる演説をした。 |
| 王太子時代にロシア・ツァーリ国の内戦(大動乱)に介入。 |
| ツァーリ位放棄の代償にイングリア・カレリアなどを獲得した(1617年、ストルボヴァの和約)。 |
| スウェーデンの大国時代はこの頃から始まるという意見が多い。 |
| これはオランダ(ネーデルラント連邦共和国)が行った軍政改革(軍事革命)を、スウェーデンが取り入れ、グスタフ・アドルフによって実践されたことも上げられる(グスタフ・アドルフの改革は、むしろ三十年戦争の経過によってもたらされたとも言われている)。 |
グスタフのバルト海制覇
| 1611年、グスタフは父の死によって17歳で即位したが、そのときスウェーデンはバルト海の制海権をめぐってロシア・ポーランド・デンマークと交戦中であった。 |
| デンマークには苦戦を強いられたが、ロシアをバルト海から締め出すことに成功し、グスタフはようやく戴冠式を挙行した(1617年)。 |
| その後、ドイツの有力貴族であるブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントの娘マリア・エレオノーラと結婚した。 |
| これはドイツ進出を狙った政略結婚であったが、妻は情緒不安定で、グスタフの悩みの種となった。 |
| 1620年にドイツを訪問しているが、結婚は名目的であり、実際にはドイツ各国の軍事施設の視察を行い、帰国後に大規模な軍事改革を実行した。 |
| これは、オランダの軍事理論を改良した新教軍の軍事体系の実践であった。 |
| グスタフは次にスウェーデン王位を要求していた自らのいとこにあたるジグムント3世ヴァーサのポーランドとの戦争に全力を挙げる。 |
| 緒戦はリガを攻略し、事実上リヴォニア(リーフランド)を征服し、東プロイセンを制圧するなど優勢であったが、巻き返しのためにポーランド軍の指揮官となったスタニスワフ・コニェツポルスキの前に劣勢に立たされることとなり、コニェツポルスキとの一連の戦いではグスタフは惨敗につぐ惨敗という屈辱を味わい、3度にわたり危ういところで死を免れた(コニェツポルスキとの戦闘以外でもグスタフは、幾度に渡り負傷し、特に大勝したとは言え、チェフの戦いでは、頸部を狙撃された。 |
| この戦傷は重く、以後グスタフは、金属製の甲冑を着る事が出来なくなり、右腕も不自由となった。 |
| それでもスタニスワフ・レヴェラ・ポトツキを相手にしたグジュノの戦いでのスウェーデン側の勝利の後、グスタフはポーランドへの再侵攻をかけたものの、最大の決戦プツクの戦いでは、巧みな外交術で神聖ローマ帝国からの兵と物資の支援を受けていたコニェツポルスキ軍の前に総崩れになると、スウェーデンのポーランド征服の野望は夢と潰えた(戦争後期は、グスタフは幾度となく負傷させられるなど、ポーランド軍との兵力差から劣勢を強いられることとなった)。 |
| 名君であり、名将であったグスタフであったが、名将コニェツポルスキの前ではその名声も翳ってしまうこととなった。 |
| コニェツポルスキの軍は敵国スウェーデンの軍制を積極的に研究・分析して自軍の火力の増強なども行っており、グスタフが行った軍政改革の逆手を取られたと言える。 |
| しかしそれまで多数の国々と大きな戦争を休むことなく行っていたポーランドは、余勢を駆って占領地を奪回することはおろか、スウェーデン本土まで侵攻するほどの財政上の余力がなく、ポーランドのあちこちにとどまるスウェーデン駐留兵全てをバルト海まで追い立てるほどの財政的見通しさえ危うくなっており、両国には長引く戦争に厭戦気分が蔓延した(グスタフにとっては傭兵軍の編制により戦争の継続は不可能ではなかったが、コニェツポルスキ相手では勝ち目がないことや、本格的な三十年戦争介入のために休戦協定を結ぶこととなった)。 |
| このためスウェーデンを同盟者としたがっていたフランスの調停もあって、スウェーデンに有利な休戦条約「アルトマルクの和議」が成立した。 |
| スウェーデンはポーランドからスウェーデン王位要求の保留(ジグムントはグスタフの王位を承認はしなかったが、その王位は名目上に過ぎず、消極的な保留は、事実上ジグムントからの要求を断念させたことと同義であった)と、リーフランドの獲得、メーメル・ダンツィヒ平原の諸都市における徴税権を獲得し(プロイセン船舶関税)、グスタフのバルト海制覇はほぼ実現した(1632年にグスタフが死ぬと、これら諸都市の徴税権は1635年にポーランドに返還された)。 |
| グスタフにとっては、名将コニェツポルスキ率いるポーランド軍の思わぬ反撃と疫病の蔓延、海戦での敗北など苦戦の連続であった。 |
| しかしリーフランドの確保と、外交的勝利によって、スウェーデンの勢力とバルト海への影響力を維持させる事だけは出来た。 |
| しかし強国と知られていたポーランド・リトアニア連合から領土を事実上獲得した事は、ヨーロッパでの名声を高めることとなった。 |
| グスタフがポーランド征服に失敗した理由は、当然コニェツポルスキによる優れた戦術、戦略もあったが、さらに神聖ローマ帝国及びその皇帝位を帯びるハプスブルク家の存在があった。 |
| グスタフが神聖ローマ帝国で行われている三十年戦争への介入をこのポーランド戦役で決意したのも、ポーランド・ヴァーサ家とハプスブルク家によるカトリックの強い連携と、神聖ローマ皇帝によるバルト海制覇への野心のためであった。 |
| こうしたハプスブルク家の野心を打ち砕くためにも、グスタフは、ポーランドへの野心を諦め、プロテスタント救済と、自らの情念であるスウェーデン普遍主義の達成のために、その標的を神聖ローマ帝国及びカトリック教会へと向けて行くこととなる。 |
| グスタフの三十年戦争における戦略は、すでに1620年代から開始されており、1624年にはフランスが主導となった対ハプスブルク同盟(ハーグ同盟)への連名、1628年にはデンマークと同盟を締結し、シュトラールズントを解放している。 |
| そして1631年にフランスとのベールヴァルデ条約の締結によって、本格的に三十年戦争への参戦に至ることとなる。 |
三十年戦争への介入と戦死
| グスタフ・アドルフの次の戦略は、ドイツで起こった新旧諸侯間の三十年戦争に参戦して、新教諸侯を支援することであった。 |
| 神聖ローマ皇帝を中心とするカトリック勢力を弱めることによって、北ドイツのスウェーデン領を安定させようとしたのである。 |
| グスタフは1630年ドイツに侵入し、オーデル川中・下流域を占領した。 |
| 翌1631年にはフランスと軍事同盟を結び、満を持した。 |
| 次の目標は、皇帝軍に占拠されていた新教都市マクデブルクの救援であった。 |
| しかし、新教侯国のザクセンとブランデンブルクがスウェーデンの強大化に不安を持ち、グスタフ軍の領内通過を拒否したため、マクデブルクは皇帝軍の手に落ち、徹底的に略奪された(マクデブルクの強奪)。 |
| 同市の運命は新教諸侯を驚かせ、ブランデンブルクとザクセンはスウェーデンと同盟、同年9月、ブライテンフェルトの戦いでスウェーデン・ザクセン連合軍が皇帝軍を打ち破った。 |
| この戦いは、それまで劣勢だった新教勢力を大きく勇気づけ、三十年戦争の転換点となった。 |
| スウェーデン軍はこの後もレヒ川の戦いなどで勝利し、皇帝軍を追い詰めていった。 |
| 皇帝フェルディナント2世はいったん罷免した名将ヴァレンシュタインを呼び戻し、大軍を動員させてスウェーデン軍に当たらせた。 |
| グスタフはバイエルン選帝侯領に進軍し、スウェーデン軍を中心としたプロテスタント軍でヴァレンシュタインの皇帝軍に幾度か決戦を挑んだが、いずれも迎撃に遭い、膠着状態に陥った。 |
| グスタフにとっては、これは三十年戦争において事実的な初めての敗退であり、軍事的なダメージは微々たる物であったが、政治的には深刻なダメージであった。 |
| 一方、ヴァレンシュタインはこの戦況を生かすべく日和見な態度を取るザクセン選帝侯領へと兵を向けた。 |
| グスタフはその途上でヴァレンシュタインが皇帝軍を分割したのを察知し、決着を着けるべくヴァレンシュタインの元へと強行軍を行った。 |
| 両軍は1632年11月、リュッツェンで激突した(リュッツェンの戦い)。 |
| 戦闘は当初スウェーデン軍が優勢であったが、強度の近視だったグスタフは、霧の中で味方の軍からはぐれて敵中に飛び出してしまい、戦死した。 |
| 戦闘には勝利したスウェーデン軍だが、王を失ったため、その後はいくつかの軍団に分かれて転戦し、各地で略奪を働き(この点は皇帝軍も同様だったが)、ドイツ諸国は荒廃の極みに達した。 |
| しかしグスタフの築いたスウェーデン軍は、宰相オクセンシェルナの指導の下、ホルン、トルステンソン、バネール、ウランゲルら優れた将軍を輩出し、三十年戦争を乗り切って行くのである。 |
グスタフの評価とその後のスウェーデン
| グスタフは対外戦争を続ける一方で、国内の司法・行政制度を整え、商工業を奨励し、教育の振興にも努めた。 |
| 大規模な製鉄所が建設され、武器工場も近代化されたため、武器を外国に輸出するまでになった(武器輸出国としてのスウェーデンは、現代にまで至る実績と伝統がある)。 |
| グスタフ・アドルフは国内に絶対王政を確立し、スウェーデンを強国にした英雄であったが、国家としても王個人としてもその絶頂期に突如この世を去った。 |
| グスタフの死後、スウェーデンの勢いは翳り、三十年戦争における主導権を失った。 |
| この事は、グスタフ・アドルフの存在がスウェーデン、ヨーロッパに与えたインパクトがいかに強かったかを証明している。 |
| 国内においても近代的な改革を各方面で断行した事から、政戦両略の名君と呼んでも差支えがないだろう。 |
| オランダで起こった軍事革命を取り入れ、それに影響を受けたドイツ新教軍の軍事体系も加え、スウェーデンの軍事をそれまでと一変させたのである。 |
| その成果は三十年戦争で本領を発揮し、皇帝軍の旧態依然とした戦法を打ち砕いた(ただし、その後こうした軍組織や新戦術は皇帝軍にも模倣され、一般化した)。 |
| さらにフィンランド人で構成された「ハッカペル」と呼称された騎兵は、勇猛果敢として知られ、三兵戦術と相まって三十年戦争で旧教軍を恐れさせた。 |
| これらの改革によって、グスタフ・アドルフの時代、スウェーデンは一気に強国へと躍り出たのである。 |
| グスタフ・アドルフが行った改革の中で特に画期的であったのは傭兵政策であった。 |
| グスタフ・アドルフが即位した時点で国庫の破綻や相次ぐ戦争により国民の不満はすでに限界を迎えていた。 |
| 徴兵制度による軍隊編成は行き詰まりを見せていたため、グスタフ・アドルフは徴兵制度に加え、傭兵制度も取り入れた。 |
| 傭兵軍は、イギリス人、スイス人、スコットランド人、ドイツ人、ネーデルラント人、フランス人などで構成された。 |
| グスタフ・アドルフの傭兵軍は人気を博し、グスタフ・アドルフ死後もスウェーデン軍に雇用された(傭兵政策は、スウェーデンが膨張の極限にまで達した北方戦争期まで行われた)。 |
| 王の死後、グスタフの宰相だったオクセンシェルナは、幼くして女王となったグスタフの娘クリスティーナの摂政としてスウェーデンの国政を握った。 |
| 彼はフランスを同盟に引き入れて戦争に直接介入させるなど、最終的に三十年戦争を勝利に導いたのである。 |
| こうしてグスタフの築き上げた国家は、北方の覇権を確立し、バルト帝国が誕生したのである。 |
| また、軍事的、政治的のみならず、宗教的にも重要な役割を果たし、一時的ながら三十年戦争期のドイツプロテスタント諸侯を統合し、その盟主ともなった。 |
| この様にグスタフ・アドルフは、近世ヨーロッパ史に最も大きな影響を及ぼした人物の一人としても評価されている。 |
| 後年、フランス皇帝ナポレオン1世は、グスタフ・アドルフを歴史上の7人の英雄のうちの1人と称えている。 |
グスタフのゴート主義
| グスタフ・アドルフが三十年戦争に介入した理由として挙げられているのが、「古ゴート主義」である。 |
| 一般的には、ドイツのプロテスタント守護のための侵攻と言われているが、グスタフの理想は、はるかにそれを上回るものであった。 |
| グスタフが着目したのは、前世紀から提唱された「ゴート起源説」である。 |
| スウェーデン・ヴァーサ家は、ゲルマン民族の大移動でヨーロッパを席巻したゴート人の末裔であるという伝承である。 |
| ゴート人は、ヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸を支配したと言う。 |
| この伝承は、スウェーデンでは古来より伝えられ、スウェーデンの建国神話と結びついている。 |
| これは汎スウェーデン主義とも呼ばれ、ハプスブルク帝国の世界帝国理念に対抗するものであった。 |
| さかのぼって、1629年まで続いたポーランドとの戦争(スウェーデン・ポーランド戦争)はグスタフの「古ゴート主義」とポーランドの「共同体主義(コモンウェルス、ポーランド語で''Rzeczpospolita'')」との戦いだったともいえる。 |
| この戦争事態は両者痛み分けであったものの、汎スウェーデン主義は同じようにハプスブルク家の世界帝国理念に対抗し、ポーランドのコモンウェルスに相対する「絶対主義(アンシャン・レジーム)」を目指したフランス王国との提携を導き出すことに成功した(1624年の対ハプスブルク同盟及び1631年のベールヴァルデ条約)。 |
| 17世紀初頭のポーランドは、ポーランド王国とリトアニア大公国の同君連合を軸に、ウクライナ、ベラルーシや、バルト・ドイツ人の多いリヴォニア、クールラント等を領土に抱く多民族共同体連邦制で、さらにロシアとスウェーデンを併合することによって巨大な連邦国家を成立させることを画策していた。 |
| (それより前の時代にはハンガリーとボヘミアをも視野に入れていた)。 |
| そして、これら多くの構成民族からなるシュラフタと呼ばれる貴族・士族階級が平等に国家の構成員として参加し、国王自由選挙で選ばれた国王と、シュラフタの参加する議会によって運営される、「黄金の自由」と呼ばれる選挙君主制、貴族共和制であった。 |
| (政体においては制限選挙制時代のイギリスやアメリカ合衆国に、民族の扱いについては古代ローマのコスモポリタニズムや、現代のベルギー、スイスなどに共通する点がある)。 |
| これは、当時ヨーロッパで萌芽しつつあったロマン主義から発しプロテスタンティズムによって助長されたスウェーデンの「古ゴート主義」という「民族主義」とは真っ向から対立するものであった。 |
| もっとも戦争で決することの多かった17世紀の国際政治においては君主個人の決断ですばやく行動に移せるグスタフの絶対王政が、国会や元老院における審議を要したポーランドの民主主義(厳密には貴族共和政)よりも有利であったことは明らかで、事実ポーランドはグスタフとの戦争においてその民主政体のゆえにしばしば決断に遅れをとって苦戦することになったのである。 |
| スウェーデンは君主制を強化し、軍事、外交を国王の一手に集中させることで帝国主義的膨張を行うことができ、一方ポーランドは貴族であれば民族出自や宗教宗派に拘らずに国政に参加できるというリベラルな点で非常に先進的ではあったが、そのために却って衆愚政治に陥り、一致団結して内憂外患にあたることが出来なかった(ポーランド王ヴワディスワフ4世も王権強化を図ったが阻止されている)。 |
| とは言え、スウェーデンもこの時代は、絶対王政は確立させておらず、この後も幼君が続いたこともあり、貴族勢力の介在によって大国の威信が揺らぐこともあった。 |
| スウェーデンが王権を確立し、絶対君主制を完成させるのは、17世紀後半のこととなる。 |
| オクセンシェルナはグスタフの娘、クリスティーナ女王にスウェーデン普遍主義の理想を重ね合わせたが、女王はその理想よりもキリスト教徒の和解と統一の理想を掲げ、古ゴート主義は三十年戦争の終結と共に事実上、終焉した。 |
| とはいえ、ゴート主義は、スウェーデンがバルト海一帯を支配するバルト帝国の維持にその正当性を持たせている。 |
| グスタフは、汎スウェーデン主義に則り、「スヴェーア人、ゴート人、ヴァンダル人の王」(Suecorm,Gothorum,etVandalorumregen)を自称し、さらにフィンランド大公を兼任した。 |
参考文献
| リチャード・ブレジンスキー著/小林純子訳『グスタヴ・アドルフの歩兵北方の獅子と三十年戦争』2001年新紀元社ISBN4-88317-881-1。 |
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グスタフは父の死によって17歳で即位したが、... |
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グスタフ2世アドルフさんについてのひとこと紹介
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