| グスタフ3世は、ロココの文化王として君臨した。 |
| スウェーデンの歴史では、特にグスタフ3世の時代を指して、「グスタフ朝時代」あるいは「ロココの時代」と呼称された。 |
| この時代は、フランスの政治、文化がスウェーデンに影響をもたらした。 |
| 特に啓蒙思想はグスタフ3世の母ロヴィーサ・ウルリカを介してスウェーデンに啓蒙時代をもたらした。 |
| グスタフ3世は文芸を推奨し、自らそれに倣った。 |
| グスタフ3世は演劇を愛し、度々国内外の俳優や作家を招いた。 |
| ドイツ出身の作曲家ヨーゼフ・マルティン・クラウスやイタリアの作曲家、指揮者であるフランチェスコ・アントニオ・ウッティーニはその一人である。 |
| またグスタフ3世自身、脚本家であり、演出家であり、また俳優でもあった。 |
| ハーガ宮殿やドロットニングホルム宮殿は、グスタフ3世によって度々オペラや演劇が上演され、1782年にはオペラ座が完成し、グスタフ3世の私的な晩餐会が催された。 |
| 1786年には、スウェーデン・アカデミー(SvenskaAkademien)が設立されている『北欧悲史』武田龍夫著,pp147-150。 |
| 対外関係においては、デンマーク、ロシア帝国との関係に揺れていた。 |
| デンマークからは王妃を迎える事でバランスを保ったが、ロシアとの間はままならなかった。 |
| グスタフ3世は、度々ロシアを訪問して、ロシア皇帝エカチェリーナ2世との友好関係を構築しようとしたが、女帝はこれに関心を持たず、計画は頓挫した。 |
| これを受けたグスタフ3世は方針を転換して、フランス王家のブルボン家との友好を深めていく事となる。 |
| 1784年にフランスからサン・バルテルミー島を獲得した事は、一つの成果であった。 |
| スウェーデンはこの島で中継貿易と植民地化を推進した。 |
| アメリカ独立戦争では中立したものの、中立貿易を阻害されたたために、ロシアが提唱した武装中立同盟に参加した。 |
| またアメリカ合衆国とは、中立国で最初に国家の承認を行い、1783年にはアメリカ・スウェーデン友好通商条約も結んだ。 |
| しかしスウェーデンは、フランスと同盟上、フランス軍の兵士としてスウェーデン軍将校も独立戦争に義勇軍として戦っている。 |
| しかしグスタフ3世自身は、専制君主的な考えから当初はイギリスを支持していたため、義勇軍はイギリス側にも加わっていた『北欧史』百瀬宏、熊野聰、村井誠人著,p182。 |
| 1780年代に入ると、グスタフ3世は強国政策を推し進め始めた。 |
| 当初の目論見はノルウェーであり、グスタフ3世はノルウェー併合計画を立てた。 |
| おりしもノルウェーでは、デンマークの重商主義政策に反発し、スウェーデンの保護を求める動きもあった。 |
| とは言え、デンマークとロシアは緊密な同盟関係を結んでおり、デンマークはロシアの軍事力によって守られているも同然であった。 |
| また、当時のスウェーデンの国力では、ロシアを背後にしてデンマーク領に侵攻する軍事力はなかった。 |
| 結局、グスタフ3世はノルウェー併合計画を諦め、東方政策に転換した。 |
| 同時にバルト海におけるバランス・オブ・パワーの再編及び国際的地位の向上を目的とした。 |
| そのためにグスタフ3世は、軍備の増強を開始し、フランスとも同盟関係を強化した。 |
| これは、フィンランドにおいてロシアの保護を受けようとする動きが生じていたためでもあった。 |
| ロシアからのフィンランドへの干渉を阻止するためにも、グスタフ3世は対ロシア政策を最優先する事となった。 |
| グスタフ3世は軍事力の増強に努め、1788年6月にロシア帝国に戦争を仕掛けた(大北方戦争以前のスウェーデンの大国時代、バルト帝国の再興を夢見ていた)。 |
| 開戦権は議会にあったので、自国の軍隊にロシア軍の制服を着させ、彼らによる攻撃を理由に戦争を開始したのだった。 |
| もっとも当時としては、噂の範疇を出るものではなかった。 |
| 陸戦では苦戦を強いられたものの、海戦に置ける艦隊戦で優位に立つのである。 |
| そしてフィンランド湾の海戦(スヴェンスクスンドの海戦)で勝利し、ロシア女帝エカチェリーナ2世を驚かしたものの、ロシアはイギリス、プロイセンを仲介に引き込み、休戦に持ち込んだので、スウェーデン側の完全な勝利とはならなかった。 |
| とはいえグスタフ3世は、この戦争でヨーロッパでの名声を手に入れることに成功した。 |
| 従属国フィンランドにおいてもロシアの策謀を察知し、支配を強化した(アニアーラ事件)。 |
| スウェーデンは、同時にデンマークへの牽制も成功し、ヨーロッパにおける国際的地位を向上させる事に成功した。 |
| また、これによってスウェーデンは失地奪還はならなかったものの、フィンランドを確保する事が出来た『物語スウェーデン史』武田龍夫著,pp120-124。 |
| またフランス革命が勃発すると、フェルセンをスパイとして送り込み、反革命十字軍を提唱するなど国際的活動を活発に行った十字軍結成は、欧州諸国の支持を得られず、最終的には失敗した。 |
| グスタフ3世は、スウェーデン・ロシア軍によるノルマンディー上陸計画も工作し、エカチェリーナ女帝も関心を寄せたが、これは国内の理解を得られなかった。 |
| フェルセンが行ったヴァレンヌ事件を裏で手引きしたのもグスタフ3世であり、革命に対する反革命への情熱は、並々ならぬものがあったと言われている。 |
| これを反革命政策と言い、この情熱は、息子のグスタフ4世アドルフへと引き継がれた。 |
| 内政も重視し、拷問の廃止や、言論の自由の法律化や、自由の時代より継続する社会福祉事業なども行った建設王でもあった。 |
| グスタフ3世が復活させた絶対王政は、息子のグスタフ4世が親政を開始すると再開され、その親子の名を取って、「グスタフ朝絶対主義」(detgustavianskaenvaldet)と呼ばれる様になった。 |
| 1809年に立憲君主制となるまでのスウェーデンは、絶対君主制であった。 |