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つながりの強いひと
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オゴデイ
引き継ぐ者 父
哈罕皇帝/合罕皇帝(カアン皇帝)とも書かれる(後述)。モンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語文や前近代の古典モンゴル語文では'WYK'D'YQ'Q'N/ÖgedeiQa... |
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モンケ
モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)(在位1251年7月1日-1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記ではمنگوقاآنmankūqā'ānまた... |
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バトゥ
引き継ぐ者
ジョチ家の第2代当主(ハン:在位1225年-1256年)で、キプチャック・ハン国(ジョチ・ウルス)の実質的な創設者。チンギス・ハーンの長男・ジョチの次男であ... |
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定宗
李氏朝鮮の第2代国王(在位:1398年-1400年)、権知高麗国事。本名を李芳果という。世子になる前は永安君。 |
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インノケンティウス4世
第180代ローマ教皇(在位:1243年-1254年)。本名はシニバルド・フィエスキ(SinibaldoFieschi)。ハドリアヌス5世は甥に当たる。1245年、第1リヨン公会議を... |
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トルイ
チンギス・カンの四男。中国語表記は<spanlang="ch">&25302;雷で、ペルシア語表記ではتولىخانtūluykhānまたはتولوىخانtūlūykhān、モンゴル語ではТулуй,Tului... |
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ドレゲネ
引き継ぐ者 母
モンゴル帝国の第2代大ハーン・オゴデイの第6夫人で、第3代大ハーン・グユクの生母。漢字表記では脱列哥那、禿納吉納。ペルシア語表記ではتوراكنهخاتون(Tūrāk... |
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チンギス・カン
モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年-1227年)。大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジ... |
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チャガタイ
モンゴル帝国の皇族の一人で、チンギス・ハーンの次男。ジョチの弟、オゴデイとトルイの兄に当たる。漢語表記では察合台など。ペルシア語表記ではچغتاىخانCha... |
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クビライ
モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。在位は1260年5月5日-1294年2月18日。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文... |
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耶律楚材
初期のモンゴル帝国に仕えた官僚。字は晋卿。禅に深く帰依し、湛然居士と号した。モンゴル名はウルツサハリ(「髭の長い人」の意)。 |
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憲宗
儒者の臣を藩帥に任命し、監査任務を主とする監軍には宦官を配し、節度使勢力の動静を監視させる制度を開始した。さらに名臣と謳われた武元衛や李吉甫らにも... |
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諸子
諸子百家の事典 この本を 1 2 3 4 5 6 7 8 9 冊買う 10冊以上買う お困りの方 在庫切れ等により、手配できない場合がございます 江連 隆著 税込価格... |
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テムル
モンゴル帝国第6代モンゴル皇帝であり、大元ウルスの君主としては第2代カアン(Qa'an/Qaγan、大ハーン、大カアン在位1294年5月10日-1307年2月10日)。漢字表... |
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フビライ
不知火 駿@フビライ ch20012 部員ID fubirai 性別 男性 (こえの性別:男性) 生年月日 1994年 7月 15日(17歳/蟹座) 地域 宮崎県 URL http://c... |
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世祖
世祖(セジョ、せいそ、永楽15年9月29日(1417年11月7日)-成化4年9月8日(1468年9月24日)、在位:1455年閏6月11日-1468年9月7日)は李氏朝鮮の第7代国王。... |
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成宗
李氏朝鮮の第9代国王(在位:1469年-1494年)。姓は李、名は。諡は康靖仁文憲武欽聖恭孝大王。君号は者山君、のち乽山君。第7代国王世祖の第1王子李暲(徳宗... |
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御家人
鎌倉幕府御家人制の展開 この本を 1 2 3 4 5 6 7 8 9 冊買う 10冊以上買う お困りの方 在庫切れ等により、手配できない場合がございます 七海 雅人著... |
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ジュチ
□地センジュチカラ 牡 黒鹿毛 地方・円田修 お気に入り馬登録 (登録数: 0 人) プロフィール 戦績 血統 掲示板 写真館 調教タイム レース後の... |
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杉山正明
日本の歴史学者。京都大学文学研究科教授。専攻はモンゴル史、中央ユーラシア史。静岡県沼津市出身。 |
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プロフィール
- グユクとは
- 即位前まで
- 即位までの経緯
- 勢力拡大から謎の急死
- グユクの即位と生母ドレゲネ皇后
- プラノ・カルピニが伝えたグユクの勅書
- 人物・逸話
- 宗室
- 妻妾
- 子息
- 関連サイト
グユク(Güyük,1206年-1248年4月)は、モンゴル帝国の第3代皇帝(在位1246年8月24日-1248年4月)。漢語資料の表記では貴由、谷由皇帝。ペルシア語資料での表記ではكيكخانkuyukkhānないしگيوكخانGuyūkkhānなど。大元ウルスによって贈られた廟号は定宗。第2代皇帝 オゴデイの長子で第6皇后 ドレゲネとの間に生まれた長男である。 グユクは第3代モンゴル皇帝であるが、先代の オゴデイがモンゴル皇帝として初めて「カアン」(Qaγan,Qa'an)を名乗ったものの、 グユクはこの「カアン」(哈罕皇帝/合罕皇 ...
即位前まで
| 1206年、初代ハーンであるチンギス・ハーンの三男オゴデイの長男として生まれる。 |
| 1233年、蒲鮮万奴を討ち、これを捕らえる功績を挙げた。 |
| 1235年初春、父オゴデイはカラコルムを首都と定め、併せてこの時召集されたクリルタイで、ジョチ家の当主バトゥを総司令官とするヨーロッパ遠征軍、三弟クチュ、次弟コデンらを総司令官とする南宋遠征軍、さらには高麗へも軍を派遣することが決定し、グユクはオゴデイ家を代表してバトゥの西方遠征に従軍することになった。 |
| バトゥに次するトルイ家の長男モンケやチャガタイ家のブリなどとともにルースィ遠征で活躍した。 |
| しかし他の兄弟をはじめ、特に従兄弟のバトゥと仲が悪く、他の王族たちと常に対立していたとされる。 |
| 『元朝秘史』や『集史』によると、遠征中の酒宴でブリがジョチ家の王子たちと口論になり、遠征軍の総大将であるバトゥを面罵し、グユクもブリに同調したと伝えられる。 |
| このことでジョチ家の王族たちともめたため、グユクの素行を知った父オゴデイは自身が一族の和を重んじる性格であったことから、一族の最有力者であるバトゥと仲の悪いグユクは自分の後継者として不適格と見なし、候補から除外していたとされる。 |
| 実際、バトゥがオゴデイの兄ジョチの息子であるとはいえ、大ハーンの息子を家臣の指揮下に置かせるなどということは異例といっても過言ではない。 |
| 『元朝秘史』によると、遠征中のバトゥからこの報告を受けた父オゴデイは激怒し、グユクは本国への召還を命じられたという。 |
| 『集史』ではグユクに伴ってモンケもモンゴルへ帰還したという。 |
| しかしオゴデイは1241年、グユクが本国に帰還する途上で病没してしまった。 |
即位までの経緯
| 父の死により、本国に最も近い場所にいたグユクは幸運にも、ハーン位を望むに一番優位な立場となった。 |
| 『集史』「オゴデイ・カアン紀」によると、オゴデイは生前、第一皇后ボラクチンとの間に儲けた三男のクチュ『バナーカティー史』など14世紀以降に編纂されたペルシア語文献の一部には、オゴデイの息子のうち、グユク、コデン、クチュ、カラチャル、カシの5名はドレゲネとの息子たちであった、とも伝えているものもある。 |
| を後継者に定めていた。 |
| 南宋遠征において、コデンが右翼軍として四川の成都に入城、陝西方面を劫掠し、中軍を率いるクチュも河南からは湖南に侵攻し、棗陽方面まで制圧していた。 |
| しかし、1236年11月に湖広方面の前線でクチュは陣没してしまった。 |
| このためオゴデイはクチュの長男シレムンを寵愛して自らの後継者として宮中で養育していた。 |
| こうした中、グユクはモンゴル本国へ召喚中に、1241年1月に発せられたオゴデイの訃報に接し、加えて生母ドレゲネが摂政としてオゴデイの後継者を選出するクリリタイの招請にも接した。 |
| モンケはヨーロッパ遠征軍に従軍しグユクが本国へ召還したことに伴いこれに随伴したという。 |
| このためグユクの生母ドレゲネの政治工作もあって、不仲の従弟バトゥの強硬な反対こそあったものの、モンケを抑えて、1246年8月24日、祖父チンギス即位所縁の地であるココ・ナウルにおいて開催されたクリルタイによって、第3代モンゴル皇帝に即位することとなったのである。 |
勢力拡大から謎の急死
| 即位後の10月、母のドレゲネが病死すると、自ら親政を開始する。 |
| 父オゴデイの死から5年が経過していた。 |
| グユクは母の寵愛を得て専権を振るっていた重臣アブドゥッラフマーンを処刑し、父時代の功臣であるヤラワチ、チンカイ、そして自身の即位を支持するチャガタイ家のイェス・モンケ(チャガタイの五男)を当主カラ・フレグを廃してチャガタイ家の第3代当主に任命するなど重用した。 |
| 軍事面では南宋・イラン諸地方・高麗に兵を送り、引き続き勢力の拡大に努めた。 |
| そして自らもヨーロッパ遠征再開のため、父の遺領(ウルス)であるバルハシ湖近傍のエミル地方への巡幸を名目として、一軍を率いて西征へ出発した。 |
| しかしグユクは1248年4月、遠征途上で自らの旧領であるビシュバリク方面で急死した。 |
| しかし『集史』などでは、トルイ家のソルコクタニ・ベキ(モンケの生母)が、この巡幸はグユクによるバトゥへの討伐軍ではないかと危惧し、あらかじめバトゥに警戒するよう知らせていたことも記録されており、犬猿の仲であるバトゥによる暗殺の可能性を示唆する説もある。 |
| グユクの死後、その皇后であったオグルガイミシュが摂政監国として国政を代行したが、バトゥとモンケらトルイ家の王族たちはオグルガイミシュの招請を拒否し、約4年の間モンゴル皇帝位は空席のまま決まらず、帝国全体の統治はまたしても混乱する事となった。 |
| バトゥとモンケのグループは独自にクリルタイを開催し、オグルガイミシュはこの動きに抵抗したが、ジョチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主たちがバトゥとモンケの集会に参集したことに加え、シレムンやグユクの子であるホージャ・オグルやナグの兄弟も参加を表明するに及び、モンケがバトゥの支持を得て第4代モンゴル皇帝として即位した。 |
グユクの即位と生母ドレゲネ皇后
| 『世界征服者の歴史』や『集史』などによれば、グユクの即位には、ドレゲネの工作によって、ソルコクタニ・ベキを筆頭としてトルイ家からはモンケなどその息子たち、東方諸王家の統括者テムゲ・オッチギンとその一族、チャガタイ家からは第2代当主となったカラ・フレグ、イェス・モンケ、ブリ、バイダル、イェスン・トアらモンゴル王族の大部分を参加させることに成功した。 |
| さらに帝国内部からは旧金朝領である華北に派遣されていたノヤンや官僚たちと在地漢人勢力の代表者たち、マーワラーアンナフル総督のマスウード・ベク、イラン・ホラーサーン総督アルグン・アカとそれに随行してきたカフカス南部境域、アゼルバイジャン地方からイラク、ホラーサーンに至るまでのモンゴル支配地域とその周辺の有力勢力や王族たち、その使節が参加している。 |
| ルーム・セルジューク朝のスルタンカイカーウース2世の弟・クルチ・アルスラーン4世、ウラジーミル大公国のヤロスラフ2世、グルジア王国のダヴィド兄弟、有名なサラーフッディーンの曾孫でアレッポとダマスクスを支配していたアイユーブ朝の君主ナースィル・サラーフッディーン・ユースフの弟君、モースルの君主バドルッディーン・ルウルウの使者がおり、またヨーロッパからはローマ教皇インノケンティウス4世の使節として派遣されたプラノ・カルピニのジョヴァンニ修道士、ケルマーン地方のカラキタイ朝の王族クトブッディーン、ケルマーン地方のアタベク政権であるサルグル朝の君主アブー・バクル・ブン・サアドの使節が参加していた。 |
| その他アッバース朝の大カーディー・ファフルッディーン、アラムートのニザール派教主アラーウッディーン・ムハンマド3世の使者がそれぞれ確認されている。 |
| ジョチ・ウルスも結局バトゥは体調不良を口実に欠席したが、モンゴル本土に派遣していた、異母兄のオルダを始めシバン、ベルケ、ベルケチェル、タングト、トカ・テムルといった自らの兄弟であるジョチ家の主要王族たちとそれに随行する将軍(ノヤン)たちを出席させている。 |
| 総じてグユク推戴のクリルタイは、モンゴル帝国最大の勢力を誇っていたバトゥ自身の参加は欠いていたものの、ドレゲネの工作によって帝国各地や周辺の主だった勢力を参加させることが出来たため、モンゴル皇帝選出という大業に見合った大規模なものにすることに成功したといえる。 |
プラノ・カルピニが伝えたグユクの勅書
| この時たまたまローマ教皇インノケンティウス4世の使節として派遣されたプラノ・カルピニのジョヴァンニ修道士がこのグユク選出のクリルタイに参加し、その様子を教皇庁に提出した報告書『モンゴル人の歴史』に載せている。 |
| 彼がグユクに謁見したのち手渡されたペルシア語による勅書がバチカン美術館に現存している。 |
| これは書面の末尾に1246年11月11日(ヒジュラ暦644年ジュマーダー=ル=アーヒラ月末日)という紀年が書かれており、発令日時が明確である物としては、現存最古に属すウイグル文字モンゴル語によるモンゴル皇帝の玉璽の銘文が捺された正式な勅書である。 |
| モンゴル帝国が発令した実物の命令文書としては碑文資料を除くと現存する最古の文書資料でもある。 |
| さらに文中ではグユク自身と祖父のチンギス・ハンをハン(خانKhān)、父のオゴデイを「カアン」(قاانQā'ān)とそれぞれ呼んでおり、オゴデイのみを「カアン」と呼ぶ特別な称号が、グユクの即位直後からすでに使われていたことが分る貴重な証拠を残している。 |
| さらにカルピニの報告書とこの時カラコルムで作成された勅書のラテン語翻訳文が残っている事などにより、勅書の来歴や作成経緯についても詳細な記録が残る希有な資料であり、これらとともにモンゴル帝国の政治史、制度史研究でも第一級の史料となっている。 |
人物・逸話
| グユクは、通説では無能な人物とされている。 |
| その理由として一族の和を乱してその後のモンゴル帝国における分裂の契機を作り出した人物であり、さらにグユク期の政治的混乱が沈静化されるには次代のモンケの代まで待たなければならなかったからである。 |
| しかし即位からわずか2年足らずで大きく帝国の勢力を拡大し、父の政策を踏襲して内政を整えているところから見ても、有能な政治家といえる一面もある。 |
| バトゥやモンケなどの一族の和を乱してモンゴル帝国分裂の遠因を作ってしまったことは、人の上に立つ指導者としては失格者だと思われる。 |
| 陳舜臣の小説では、「チンギスの時代なら、まず大ハーンになれなかった人物だったのは間違いない」とされている。 |
宗室
| 系譜情報については『集史』などイルハン朝、ティムール朝時代の資料に準拠。 |
| 漢字表記は『元史』「后妃表」による。 |
妻妾
| オグルガイミシュ(斡兀立海迷失三皇后)メルキト部族出身。 |
| 「カイミシュ」とも呼ばれていたという。 |
子息
| 息子たちについては『集史』『元史』ではともに3人としており、『集史』その他によるとこのホージャ・オグルとナグの両名はいずれもオグルガイミシュが生母であったと伝えている。 |
| 次男 ナグチャバトという息子がおり、バラクの中央アジア遠征に随伴したが、カイドゥのもとへ身を寄せたと言う。 |
| 三男 ホク『集史』「オゴデイ・カアン紀」では、彼の息子が10名挙がっている。 |
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1206年
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初代ハーンであるチンギス・ハーンの三男オゴ... |
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1233年
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蒲鮮万奴を討ち、これを捕らえる功績を挙げた |
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