| 1925年3月11日にヒトラーはシュトラッサーに北西ドイツでのナチ党組織の再建を委任した阿部、123頁モムゼン、295頁。 |
| シュトラッサーはヴェストファーレン、ラインラント北部、ハノーファー、シュレースヴィヒ=ホルシュタインに大管区指導者を設置させた桧山、96頁。 |
| シュトラッサー自らはニーダーバイエルン=オーバープファルツ大管区指導者に就任した。 |
| シュトラッサーの求めに応じてヒトラーは大管区指導者に広範な権限を与えたモムゼン、295頁。 |
| 南ドイツではミュンヘン一揆後に支部数が減少したが、北ドイツではむしろ支部数が増加した。 |
| 増加した支部は北ドイツに強い力を持っていたドイツ民族自由党からナチ党へ移った者たちによって設立されたものであった。 |
| 一揆前はバイエルンに限られていたナチ党は北西ドイツに勢力を広げた桧山、95頁。 |
| しかし北西ドイツではバイエルンと異なり、毒々しい反ユダヤ主義はあまり支持を得られなかった。 |
| 代わりに社会問題に対する明確な態度を取ることが必要であった。 |
| シュトラッサーと弟のオットー、ヨーゼフ・ゲッベルス、カール・カウフマンなど北西ドイツのナチ党指導部は反資本主義思想を強め、ヒトラーらミュンヘンの党本部と対立を深めたモムゼン、296-297頁。 |
| 1925年10月9日には北ドイツの大管区指導者たちを集めて「北西ドイツ大管区活動協同体」を創設した。 |
| シュトラッサーが指導者、ゲッベルスが事務局長に就任した。 |
| これはヒトラーのミュンヘン党本部(特に党宣伝部長ヘルマン・エッサー)へ対抗するものであった阿部、129頁桧山、96・101頁モムゼン、297頁。 |
| しかしこれは北ドイツ大管区の緩やかな統合組織でしかなく、当初より不統一さがあった桧山、98頁。 |
| 一方の南部ドイツの大管区はミュンヘン党中央のヒトラーの下に中央集権で強固に固まっていた。 |
| 北のシュトラッサーが南のヒトラーの権力に常に及ばなかったのはこのためである。 |
| 北西ドイツ大管区活動協同体は週刊誌『国家社会主義通信』(NS-Brief)を発行したヴィストリヒ、111頁。 |
| さらに党中央のマックス・アマンが管理するフランツ・エール出版に対抗するため、1926年3月1日にシュトラッサーは「闘争出版」(Kampfverlag)という出版会社を立ち上げた。 |
| この出版社は17紙あるナチ党の新聞のうち7紙を担当した。 |
| 同出版社は、ハーケンクロイツの上に社会主義を表すハンマーと国家主義を示す剣を組み合わせるシンボルマークを使用しており、北部の社会主義的な傾向がよく表れていた桧山、100・148頁。 |
| 1925年11月には北ドイツのナチ党幹部に対してナチ党の新綱領案を独断で配布し、ヒトラーと対立を深めた。 |
| 1926年2月のバンベルク会議においてシュトラッサーは皇室財産没収法案への賛成、経済の国有化、左翼勢力と組んで既存保守勢力と闘うといった社会主義路線を主張したが、この手の案はことごとくヒトラーによって叩き潰され、財界と手を組み資本主義を擁護する保守路線をとることが決定された。 |
| シュトラッサーの新綱領案も撤回させられた阿部、129頁モムゼン、298頁ヴィストリヒ、111頁。 |
| 1926年3月9日にシュトラッサーは自動車事故で重傷を負い、長期入院した阿部、133頁。 |
| ヒトラーはこのシュトラッサーの不在を好機として、5月22日にビュルガーブロイケラーで党員総会を招集して自分にすべての大管区指導者の任免権を認めさせた。 |
| さらにヒトラーはシュトラッサーを見舞い、エッサーに代わって党宣伝全国指導者に任じるので北ドイツ大管区活動協同体は解体してほしいと頼んだ桧山、101頁。 |
| シュトラッサーはこれに同意し、1926年7月1日に北ドイツ大管区活動協同体を解散させた。 |
| これによりヒトラーのナチ党完全支配体制が確立した阿部、135頁。 |