| 17歳のとき、後を追いすがる家族を振り切り、一旗揚げたいという思いだけを持って青函連絡船に乗りこみ、一人函館を後にする。 |
| 船中、体格のよさを見込んだ親方に声をかけられ、腹いっぱいご馳走された後、そのまま親方に連れられ出羽海部屋に入門することとなる。 |
| 1963年、相撲界を離れ日本プロレスに入団。 |
| 5月9日、マシオ駒戦でデビュー。 |
| 豊登の命名による『小鹿雷三』のリングネームでファイトする。 |
| 1967年に大熊元司とともに渡米しテネシー州、ジョージア州のタッグ王座などを獲得。 |
| 大熊がホームシックで帰国した後も、『カンフー・リー』などのリングネームを用い、サンフランシスコなどでシングルプレーヤーとして活躍し、姑息なヒール戦法を駆使して憎まれ役としての存在感を発揮。 |
| ミル・マスカラスを破って成し遂げたアメリカス王座戴冠の実績が光る。 |
| アメリカにおけるタイトル獲得数は、ジャイアント馬場、アントニオ猪木を大きく上回る。 |
| 1973年6月、全日本プロレスに移籍。 |
| 1974年1月にテキサス・アマリロへ再渡米。 |
| テリー・ファンクからウェスタン選手権を獲得。 |
| その後はジャイアント馬場のセコンドに必ず付いていたほか、大熊元司との名タッグ『極道コンビ』でアンダーカードの一時代を築く。 |
| アジアタッグ王座はこのコンビとともにあったといっても過言ではない。 |
| また現役時代からプロモーター業を兼任して、そしてしっかり成功させていたという異色の選手であった。 |
| 自らの引退興行(1988年7月31日、函館市千代台公園陸上競技場特設リング大会)も自分でプロデュースしている。 |
| 事業家・小鹿信也の出発点である。 |
| 引退後、地元函館で事業を始める傍ら、プロモーター業を継続。 |
| 後に天龍源一郎の願いを受けWARの営業部長に就任。 |
| 巡業ルートの設定などに携わる。 |
| また、タレント活動も行なっており、意外なところではミュージカルの出演経験がある(同じミュージカルには、女子プロレスを引退していたミミ萩原も出演していた)。 |
| 1994年12月、NOW崩壊の憂き目を見ていたケンドー・ナガサキ・登坂栄児(NOW社長→大日本・統括部長)らとともに、横浜市に大日本プロレスを設立し、社長に就任。 |
| 観客動員に苦戦したことから、1995年に現役復帰。 |
| 『料理の鉄人』、ゴルゴ13、兵隊服などのコスプレをしてリングに上がる「コスプレ社長」として注目を浴びた。 |
| 1997年1月4日には新日本プロレスの東京ドーム大会に登場。 |
| マサ斎藤と対戦した。 |
| このときの小鹿の衣装はタキシード。 |
| 若手が成長するにつれて自らがリングに上がることはなくなり、事業家としての活動が主となっている。 |
| 2003年11月、宮城県仙台市に「プロレスちゃんこ小鹿」を、2006年4月には「ホルモン小鹿亭」をオープンさせた。 |
| 2006年3月から始めた小鹿自身が運営するブログ「小鹿注意報!」が大きな話題となり、同年12月にはそのブログをまとめた著書『グレート小鹿の「小鹿注意報!」-黄金のプロレス伝説、ここにあり!!』が五月書房から出版された。 |
| 2006年12月31日に行われた後楽園ホールでのインディサミット2006に大日本プロレス選手としてバトルロイヤルに出場。 |
| サポートはあったものの見事優勝。 |
| 100万円を手にした。 |
| 久々に彼の勇姿がファンの前に披露された。 |
| 2007年4月30日、「プロレスちゃんこ小鹿」が閉店。 |
| 開店当初から地元の新聞・テレビに頻繁に取り上げられ、駐車場でプロレス大会を開催するなど一時は話題となったが、同年4月末をもって営業を終了した。 |
| それと同時に、小鹿は仙台での3年半の単身生活を終え、横浜の自宅へ戻った。 |
| 続けて「ホルモン小鹿亭」も同年8月28日に営業を終了した。 |
| 現在、首都圏に新店舗出店を計画中であるが、この間にも自転車販売や歌手デビュー(WAVE春日萌花とのデュエット曲も発売)と、多くの副業をしようとして、団体経営上副業を快く思わない登坂栄児統括部長から妨害工作を受けたりする。 |
| 2009年からは、大日本に参戦している佐々木貴らが立ち上げた団体「プロレスリングFREEDOMS」に参戦。 |
| 後にバラモン兄弟らと結成した「小鹿軍団」のリーダーとしてリングに上がっている。 |
| 2009年12月31日から翌元日にかけて行われた天下三分の計にも出場。 |
| 5対5の「ニューリーダー軍vsナウリーダー軍」のニューリーダーとしてTAKAみちのくに勝利した。 |
| また108人が参加したロイヤルランブル方式のバトルロイヤルにも20番目の選手として出場。 |
| 途中退場になったものの全盛期を彷彿とさせるファイトで観客を大いに沸かせた。 |