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プロフィール
- ケケ・ロズベルグとは
- スタイル等
- 苦労人
- 1982年
- 1983年
- 1984年
- 1985年
- マクラーレン移籍、そして引退
- F1引退後
- エピソード
- F1での主な記事
- カーナンバー(F1)
- 息子
- 関連項目
- 外部リンク
ケケ・ロズベルグ(,1948年12月6日-)は、スウェーデン・ストックホルム生まれでフィンランド・オウル育ちのフィンランドの 元F1ドライバーで、1982年の世界チャンピオン。スウェーデン系 フィンランド人である。異名は、F1 ドライバーでは初代となる「フライング・フィン」。ケケは通称であり、本名はケイヨ・エリク・ロズベルグ()。名前をスウェーデン語の発音に近い形で日本語表記するとケケ・ルースベァルィとなり、日本語のメディアではロズベリとする表記も多く見られた。。
スタイル等
| オーバーステアセッティングを好み、アクセル全開・カウンターステア一杯の豪快なドライビングを持ち味とした。 |
| 市街地サーキットを得意としており、通算5勝のうち4勝を市街地サーキット(モナコ・ダラス・デトロイト・アデレード)で挙げた。 |
| 現役時代はかなりのヘビースモーカーとしても知られていた。 |
| 表彰台の陰でタバコを吹かす姿も、TV映像に捉えられている。 |
| 1980年代後半のF1マシンのハイテク・複雑化を嫌って引退した。 |
苦労人
| 世界各地のマイナーフォーミュラを助っ人として転戦し、当時は日本でも複数回レースに参加している。 |
| 1978年に第3戦南アフリカGPにて、セオドールからF1デビュー。 |
| この年はチームを渡り歩くことになり、セオドールで4戦を戦った後、第8戦スウェーデンGPからの3戦はATS、第11戦西ドイツGPからの4戦はウルフ、第15戦アメリカ東GPからの2戦はATSに戻って参戦した。 |
| しかしいずれのチームも戦闘力は低く、予選・決勝共に下位に沈み、予選落ち1回、予備予選落ち4回も喫している。 |
| 翌1979年は前半戦にはシートが無く、第8戦イギリスGPよりウルフから参戦。 |
| そのレースでは9位で完走したが、その後はリタイヤ6回・予選落ち1回と全く完走出来なかった。 |
| 1980年にはフィッティパルディからの参戦となる。 |
| これまで同様、弱小チームからの参戦だったが、開幕戦アルゼンチンGPでは完走7台のサバイバルレースを生き残り、3位表彰台を獲得初表彰台であると共に、これが初入賞でもあった。 |
| 予選落ちを3度喫すなど、シーズンを通せば苦しい戦いとなったが、第12戦イタリアGPでは5位に入賞。 |
| 第9戦西ドイツGPでの予選8位、第13戦カナダGPでの予選6位など、時折存在をアピールした。 |
| 1981年もフィッティパルディに残留したが、完走は3回(最高位:9位)。 |
| チームの資金難もあって、リタイヤ6回・予選落ち5回と、前年以上に苦しいシーズンとなった。 |
1982年
| 1982年は、前年限りで突如引退を表明したアラン・ジョーンズに代わり、強豪・ウィリアムズのシートを獲得。 |
| 加えてジョーンズに代わりエースドライバーとなったカルロス・ロイテマンが政治的な理由で開幕2戦目でF1を引退したため、ロズベルグはエースドライバーの待遇を得る。 |
| 当時はターボ勢の全盛期であり、NAのウィリアムズは速さでターボ勢にかなわなかったものの、地道にポイントを積み重ねた。 |
| また、持ち前の豪快な走りも見せ、第10戦イギリスGPでは初のポールポジション(PP)を獲得している。 |
| 第14戦スイスGPでは、ラスト3周でトップに立ち、そのまま初優勝を記録。 |
| これによりランキングトップに躍り出ると、そのままその座を守り、最終戦アメリカGPでチャンピオンが確定した。 |
| シーズンをリードしていたディディエ・ピローニの負傷等に助けられる面もあったが、シーズン1勝でのチャンピオン獲得は、ロズベルグと1958年のマイク・ホーソンの2例のみであるホーソンが10戦中1勝であったのに対し、ロズベルグは16戦中の1勝であり、勝利数が少ない中での獲得が目立つこととなった。 |
1983年
| 1983年もターボ勢の優勢は変わらず、ロズベルグはチャンピオン争いに絡むことは出来なかった。 |
| しかし開幕戦ブラジルGPではPPを獲得し、他にも時折上位グリッドを獲得。 |
| 第5戦モナコGPでは、ウェット路面だが雨は止んでいるという状況の中、スリックタイヤを履いてレースに出場するギャンブルが成功、自身2勝目を挙げている。 |
| また、チームは最終戦南アフリカGPで、同年よりエンジンサプライヤーとしてF1活動を再開したホンダエンジンを供給された。 |
1984年
| 1984年は、開幕からホンダエンジンで戦う初年度となった。 |
| 初期のホンダターボはアクセルへのレスポンスが悪く、いきなりパワーが出るいわゆる「ドッカンターボ」であったが、これを豪腕でねじ伏せるように走らせ、開発にも大きく貢献した。 |
| エンジンに加え、ウィリアムズのマシンもカーボン・ファイバー・モノコックの導入に慎重だったこともあって剛性不足が目立ち、16戦中10戦リタイヤという成績となったが、第9戦アメリカGPでは優勝。 |
| ホンダの第二期F1活動における初勝利をもたらした。 |
1985年
| 1985年は、マシンとエンジンのマッチングが徐々に馴染み始めたこともあり復調、2PPを含め6度フロントローに並ぶなど、予選ではほぼ毎戦上位グリッドに付ける。 |
| イギリスGPの予選で記録した1周の平均速度259キロは当時の最速記録で、2002年のイタリアGPまで17年にわたり破られることは無かった。 |
| 決勝でも一時リタイヤが続いたが、最終的には2勝・3FLを記録。 |
| 最終戦オーストラリアGPでの勝利により、ポイントでロータスのアイルトン・セナを逆転。 |
| アラン・プロスト、ミケーレ・アルボレートに次ぐランク3位でシーズンを終えた。 |
| しかし、チームメイトとなったナイジェル・マンセルの台頭もあり、この年を最後にウィリアムズを去ることとなった。 |
マクラーレン移籍、そして引退
| 1986年は四強の一角であり、前年度のチャンピオンチームであるマクラーレンに移籍し、TAGポルシェエンジンを搭載するMP4/2Cをドライブ。 |
| しかし、前年までドライブしたホンダエンジンの競争力が上がったことなどから苦戦し、シーズン中の第10戦西ドイツGPで引退を発表した。 |
| 引退会見後に行われた予選では、PPを獲得し意地を見せた。 |
| 引退レースとなった最終戦オーストラリアGPでは、7週目からトップを独走してライバルたちを翻弄、一時は30秒近いリードを奪うが、右リアタイヤがバーストしてリタイアに終わる。 |
| マシンを降りた後、走り去るチームメイトのプロストに向かって親指を立てるシーンも話題となった。 |
| その後、タイトルに最も近い位置にいたマンセルにも同じトラブルが襲いリタイア、タイヤ交換のため緊急のピットインを行ったネルソン・ピケも後退、最終的にプロストが6ポイント差をひっくり返し逆転でタイトルを獲得した。 |
| このレースについて、ロズベルグ本人は「普段よりブースト圧を下げて大事を取っていたのに独走した。 |
| このまま引退するのももったいないぞ、と思った」と述べている。 |
| しかし、一方では「チームがタイトルを獲得することの重要性を理解していた」とも語っており、実際には燃費を無視したハイペースでレースを撹乱し、プロストのタイトル獲得を助ける戦略であった、との見方も多い。 |
F1引退後
| F1引退後は、プジョーのドライバーとしてスポーツカー世界選手権(SWC)に参戦。 |
| ミカ・ハッキネンやJ.J.レートなど主に母国フィンランド出身ドライバーのマネジメントをしていたことでも知られている。 |
| 息子・ニコ・ロズベルグ(国籍はドイツ人)のマネージメントも務め、ニコは2006年から2009年まで父親の古巣ウィリアムズに在籍していた。 |
エピソード
| 1977年のF1シーズン終了後、富士スピードウェイで行われた国産F1マシンKE009のテストにドライバーとして参加、当時装着していたブリヂストン製タイヤの剛性不足等問題点を指摘した後、タイヤをグッドイヤー製に換装した即席セッティングで再びコースに入り、その年のF1日本グランプリ優勝車(ジェームス・ハントドライブのマクラーレンM26)が記録したトップタイムをあっさり更新したコジマエンジニアリング代表・小島松久談:「Number」175号掲載インタビュー記事より。 |
| KEの高いポテンシャルもさることながら、ケケの潜在能力をのぞかせた瞬間であった。 |
| 1982年の第2戦ブラジルGPでは2位で終えるが、レース中に車載の水を捨て車検前に補給したため、レース中故意に規定最低重量以下で走行していたという理由で、優勝したネルソン・ピケと共に失格と裁定された。 |
| この事件は第4戦サンマリノGPで10チームがボイコットするという事件にまで発展した。 |
| 翌1983年の開幕戦ブラジルGPでもレギュレーション違反で失格となっており、ブラジルGPとは因縁がある。 |
| ロズベルグの走りに慣れていたホンダのエンジニアたちは、一般的に暴れん坊と評価されることが多いマンセルが、遅れてウィリアムズに加入した際「スムーズな運転をするドライバー」と評価したという。 |
| マクラーレンに移籍した1986年開幕前のテストで、デザイナーのジョン・バーナードから「新車に慣れるために最初の数周は流して行け」と言われたが、アウトラップから全開アタックを開始、2周目で大クラッシュを喫してしまい、バーナードはシーズン途中までロズベルグと口を利かなくなってしまった。 |
| F1引退を決めた1986年シーズン終盤に行われたインタビューで、「(チームメイトの)アラン・プロストこそが世界最高のドライバーである」と発言、「本当にそう思っているんですか?」と問う記者をさえぎるように「いや、そう思っているなんてことじゃなくて、そうだってことを知っているんだ」と述べた。 |
| 1989年日本GPでプロストとセナが接触した際、「プロストがあんな下手なブロックをして接触したのは、他人の進路を塞ぐなんていうアンフェアなことを今までしたことがなかったからだろう。 |
| あれをやるには凄いテクニックが要るんだよ」と述べた。 |
| 日本製のアライヘルメットを最初期に使い始めたF1ドライバーの一人。 |
| カラーリングにはスポンサーの意向を忠実に再現できるように、詳細なカラーリングの設計図をアライ側に渡したというエピソードがある。 |
| マクラーレンに所属していた1986年ポルトガルGPで、ロズベルグのマシンだけ通常のマールボロの赤色部分が、新商品マールボロライトの黄色に塗られた。 |
F1での主な記事
| 1978年セオドールからF1初参戦。 |
| シルバーストン・サーキットでのノンタイトル戦で優勝。 |
| 1980年フィッティパルディから参戦。 |
| 1982年ウイリアムズに移籍、初優勝、初ポールポジション。 |
| 1勝〔スイス〕ウィリアムズワールドチャンピオン獲得。 |
| 1983年1勝〔モナコ〕ウィリアムズシーズンランキング5位。 |
| 1984年1勝〔ダラス〕ウィリアムズシーズンランキング8位。 |
| 1985年2勝〔デトロイト、オーストラリア〕シーズンランキング3位。 |
| 1986年マクラーレンに移籍、シーズン中に引退発表、年末に引退。 |
カーナンバー(F1)
| 32(1978年第3~7.11~14戦)。 |
| 10(1978年第8~10.15.16戦)。 |
| 20(1979年第8~15戦.1981年第1~10.12~15戦)。 |
| 6(1982年第1~3.5~16戦.1984年.1985年)。 |
息子
| 息子のニコ・ロズベルグが2004年にユーロF3に参加しランキング4位、2005年に国際F3000から衣替えされたGP2を制し、2006年よりウィリアムズからF1デビューした。 |
関連項目
| F1世界チャンピオンの一覧。 |
| F1ドライバーの一覧。 |
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1948年
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ケケ・ロズベルグ( , )は、スウェーデン・... |
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1978年
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第3戦南アフリカGPにて、セオドールからF1デ... |
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