| 1998年、「新しい中道」をキャッチフレーズに、SPDの連邦首相候補として連邦議会選挙に再出馬して当選。 |
| この選挙で社会民主党が議会第一党を獲得、同盟90/緑の党との連立で16年ぶりの政権交代を実現し、ドイツ連邦共和国第7代首相に就任。 |
| 高級な背広に葉巻というおよそSPDという労働者政党らしからぬ装いで「ボス同志」「同志」()は社会主義・共産主義者が互いを呼ぶ時の尊称。 |
| と揶揄される。 |
| 1999年、政策的に対立していた党内左派のオスカー・ラフォンテーヌ党首に代わって、SPD党首となる。 |
| この年前半のコソボ紛争でドイツは戦後初めて戦争に参加、激しい議論を呼んだ。 |
| また同年、環境税を導入した。 |
| 2000年2月、IT技術者確保のためにグリーンカード制度を導入。 |
| 首相お膝元のハノーファーで万国博覧会を開催するが、大失敗に終わる。 |
| 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を受け、「アメリカ合衆国との無制限の連帯」を表明。 |
| ドイツ連邦軍の「不朽の自由作戦」参加を決定。 |
| ドイツ軍はアフガニスタンでの国際治安支援部隊(ISAF)の活動に、NATOの一員として現在も参加している。 |
| 11月、年金改革法案可決。 |
| 12月、将来の原子力発電所全廃を決定。 |
| 2002年6月のサミット終了後、サッカーワールドカップ決勝戦を観戦するために、日本の政府専用機に搭乗し、日本を訪問横浜で行われたこの決勝戦にはヨハネス・ラウ大統領、オットー・シリー内相、果ては野党領袖でこの年の総選挙でシュレーダー首相と激突するエドムント・シュトイバー・バイエルン州首相までが来日して皆で観戦し、あたかもドイツの首脳が丸ごと日本に来たかのような観を呈した。 |
| ラウ大統領以外は、全員ドイツ代表の決勝進出を受けて急遽来日を決めた(ラウ大統領は次回ワールドカップ開催国の元首として、ドイツ代表の結果に関係なく来日する予定になっていた)のだが、ドイツはブラジルに0‐2で敗れ、準優勝に終わった。 |
| 8月にエルベ川が大洪水を起こし、現地に乗り込んで対策を指示。 |
| 経済不振の続く旧東ドイツの開発重視は政策の一つでもあった。 |
| 同月の連邦議会選挙で「ドイツの道」を提唱し、アメリカによるイラクへの攻撃反対を訴えて辛勝。 |
| 12月、中国の同済大学より、名誉博士号が授与される。 |
| この年、シュレーダー政権の改革政策を風刺した「 |
| 良くも悪くも、前例のない「メディアの宰相」だった。 |
| 2003年3月、経済のグローバル化や成長戦略を視野に入れた改革プロジェクト「アゲンダ2010」を発表。 |
| その内容が新自由主義的であるとしてSPDの伝統的な支持基盤である労働組合から批判される。 |
| この年3月に起きたイラク戦争にはフランスと共に国連決議抜きでの開戦に反対し、派兵しなかった。 |
| 2004年、高い失業率や保険制度改革(削減)が不評で政権への不満からデモが頻発。 |
| SPDの支持率が低下したことを受け、3月にSPD党首を辞任。 |
| 後任は幹事長のフランツ・ミュンテフェーリング。 |
| 5月にEUが東欧までの25ヶ国に拡大し、EUの地理的・経済的中心国としてのドイツの役割が大きくなる。 |
| 地方議会選挙の連敗で連邦参議院で与野党逆転を許し、野党が擁立したホルスト・ケーラー大統領の当選を許す。 |
| 7月、移民受け入れに関する新法を可決。 |
| 2005年、失業者が500万人を突破し、戦後最多に。 |
| 地方議会選挙での連敗を受けて、7月に内閣信任案を与党に否決させ、連邦議会を解散ドイツではこの方法以外での連邦議会の解散はできない。 |
| 詳しくはドイツの政治を参照すること。 |
| これによって9月18日に総選挙の投票が実施される。 |
| SPDは圧倒的に不利という事前の予想を覆して善戦したが、野党キリスト教民主同盟(CDU)側に4議席及ばず議会第二党へ転落。 |
| 長い協議の末首相の座を退き、CDU党首アンゲラ・メルケルに譲ることになった。 |
| 11月29日には議員職も辞職し政界から離れる。 |
| 首相退任直前の10月、トルコのエルドアン首相と共に、キリスト教圏の首脳として初めてイスラム教の断食開けの祭に参加。 |
| イラク戦争への反対姿勢と共に、イスラム圏には好意的に受け取られた。 |
| トルコのEU加盟にも賛成していた。 |