| その可能性は単なるギミック以上のものであり、歌詞や楽曲にドラマチックな効果を与えることに大きく寄与した。 |
| 彼はミキシングの際にしばしば粗野とも思えるような音楽的効果や「音と空白との対比」を好んだ。 |
| 彼の最も優れた功績とは、その当時の商業的なポップ・ロック界をすっかり埋め尽くしていた、なめらかで心地よいばかりで退屈な音楽に対して、あからさまに反旗を翻したということである。 |
| プランクはエコー、リバーブ、他の電子音、ミックス音、音の均一化や編集、テープを使った効果等をラディカルに組み合わせて用いた。 |
| そしてそれらの効果的な音を進行する音楽のトラックテープの上からラディカルに加えていった。 |
| この点においてプランクは疑うまでもなくリー・ペリー(リー・スクラッチ・ペリー)のようなジャマイカ音楽の先駆者による作品に影響を受けたと思われるが、確かにこれらのレゲエやダブの制作技術に端緒を見出せるような音楽スタイルの革新の流れに適応できたヨーロッパで最初のプロデューサーの一人がプランクその人であった。 |
| プランクは(特にドラム音についてだが)「激しく重みに逆らうがごとき音」や1970年代におけるロック音楽の録音を席巻した「重く鳴り響くドラム音」といった、非常に「生演奏」に近い音を生み出す最初の有名なプロデューサーの一人であった。 |
| プランクの作りだす開放感のあるガランガランと鳴り響くドラムとパーカッションの音は疑うまでもなくスティーブ・リリーホワイトやヒュー・パジャム、ニック・ローニーのようなプロデューサー・エンジニアに深い影響を与えた。 |
| 1970年代、コニー・プランクは(当時イギリスの音楽プレスによって「クラウト・ロック」と見下されていた)ドイツのプログレッシブ・ロックや実験音楽の世界において、レコーディング現場のプロデューサーやエンジニアという重要な地位に就いていた。 |
| 例えば、クラフトワーク(''『クラフトワーク』''、''『クラフトワーク2』''、''『ラルフ・アンド・フローリアン』''、''『アウトバーン』''、そしてクラフトワーク結成の前にOrganisation名義で制作した『''ToneFloat''』)、ノイ!(全録音に参加)、クラスター、ハルモニア、アシュ・ラ・テンペル、ホルガー・チューカイ(カン)、グル・グル等。 |
| クラスターのメンバーであるディーター・メビウスとハンス・ヨアヒム・ローデリウスとの長い交友は1970年に始まりプランクが亡くなるまで続いた。 |
| 主だった彼の業績はより音楽に意欲的な欧米のミュージシャンやエンジニアに影響を及ぼしている。 |
| そのもっとも著名な例はデヴィッド・ボウイとブライアン・イーノである。 |
| ボウイとイーノは1970年代末の「ベルリン三部作」である『ロウ』、『ヒーローズ』、『ロジャー』というアルバムを共に制作した。 |
| それら全てにプランクが初期にドイツで製作した作品の影響が濃厚にうかがえる。 |
| ボウイの歌である「ヒーローズ」は実のところプランクの音楽スタイルへの隠された賛美であり、感動的でドラマチックな効果を高めるためにリードボーカルをマルチトラック録音されたシンセサイザーとフィードバック・ギターの渦巻き反響する背後のトラック音に対応させている。 |
| こういった影響から、プランクはボウイや(特に)イーノを経由する形で、1970年代末から1980年代におけるニュー・ウェイヴに大きな影響を与えた。 |
| ノイの''『Hallogallo』''はパブリック・イメージ・リミテッド(ジョン・ライドンがセックス・ピストルズのあとに作ったバンド)の作品にかなり影響を与えたと言われている。 |
| イーノはディーヴォ(彼らはプランクの仕事にかなり影響された)のアルバムをプロデュースし、トーキング・ヘッズとデヴィット・バーンと実りのあるコラボレーションを行い、アイルランドのバンドU2と長い期間に渡り成功したパートナーシップを築くこととなった。 |
| オーストラリアのバンドであるHunters&Collectorsの初期作品には、間違いなくプランクの音楽制作技術を学習した跡が伺える。 |
| そして彼らはのちに、コニー・プランクと共にレコーディングして有名になった多くの国際的なスターたちの仲間入りをした。 |
| 他にプランクが制作した作品としてエコー・アンド・バニーメン、レ・リタ・ミツコ、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、アニー・レノックス、アスター・ピアゾーラ、ザ・ダムド、ミランダ・セックス・ガーデン、ニナ・ハーゲン、DAF、Phewなどの作品が挙げられる。 |
| 彼はまたディーター・メビウスと組んでスタジオ・アルバムを制作している。 |
| そのアルバムは『Ludwig'sLaw』である。 |
| その作品では演奏するミュージシャンが居合わせなくても他の楽器の音を複製できる初期型のサンプリング・キーボードE-muが使用された。 |
| 1980年代に至って、プランクは新しい世代のエレクトリック・ポップとニュー・ウェイヴのアーティストに引く手あまたの状態であった。 |
| そのアーティストはディーヴォ、ウルトラヴォックス(''『SystemsofRomance』''、''『Vienna』''、''『RageinEden』'')、Freur、TheTourists(''『LuminousBasement』'')、ユーリズミックス(''『IntheGarden』'')等であった。 |
| 彼はまた、スコーピオンズ、Clannadやキリング・ジョークといったアーティストとポップやロックの作品制作にも参加した。 |
| プランクが亡くなる前におこなった最後の仕事は、ユーリズミックスの「リベンジ(Revenge)・ツアー」と題されたコンサートをレコーディングすることだった。 |
| ちなみにケルンにある彼のスタジオは、彼の死後は妻のクリスタ・ファストと息子によって存続され、Phewのソロ・アルバム(『OurLikeness』)などの作品を産み出したが、2006年6月のクリスタの死と共に30年余にわたる歴史を閉じることになった。 |